第五話 異国の竜馬に等しく
藩士として復帰したばかりの藤兵衛は、まずは日常の勤めをこなしながら、城下の情勢を探ることに務めた。
同僚たちの反応はさまざまである。
「おまん、生きちょったがか!」と涙を流して喜ぶ者もいれば、「幽霊じゃないかのう……」と眉をひそめる者もいる。
中には「大波に呑まれて七日後に戻んたとは、まっこと神仏のご加護じゃ」と囁く者まで現れ、藤兵衛の噂は一日で村から城下へと広まった。
物珍しさから朝倉の家屋敷に押しかけ、庭越しに藤兵衛を見つけて手を合わせる者すらいた。最初は辟易していたが、人の噂は七日までとはよく言ったもので、大揺れからの復興に人々が追われるうちに、次第に話題に上ることも減っていった。
やがて日々は慌ただしく過ぎていく。朝はまず蘭学書を手に取り、文字をなぞりながら異国語を学ぶことから始まった。
その書物は『三語便覧』というフランス語・英語・ドイツ語の対照辞書で、かつて父・清兵衛が縁あって譲り受けたもので、藩校にも通わぬ藤兵衛にとっては唯一の教材であった。
また、漂着した異国船の貨物に刻まれた見知らぬ文字を写し取り、オラゾで鍛えた語学力を駆使して解読を試みることもあった。異界で培った経験は、ここ土佐で異国語を学ぶ大きな助けとなっていた。
昼は藩の勤めに従事した。浦戸や仁井田の番所を巡視し、沖合を往来する船を監視するのが日課だ。時には漁村から上がる訴えを聞き取り、上役に報告することもあった。安政南海地震――『寅の大変』の爪痕はなお深く、被害村落への物資運搬や港の復旧作業に駆り出される日も多い。
さらに近頃では、九月の触書によって募集された民兵の訓練にも付き添い、名簿の整理や教練の補助を行うこともあった。夜は『おらぞ漂異録』を記し、翌日の備えを整える。
そして合間を縫っては吉田東洋への接触策を練るものの、思案は空転し、日々は一歩も前に進まぬまま冬が深まっていった。
年の瀬が迫る、安政元年十二月二十六日――
外は朝霜が白く庭石を覆い、凍てつく空気が屋敷を包んでいた。
「兄上! 城下より急ぎ御用召しがかかっちょります!」
障子の向こうから惣兵衛の声が響き、藤兵衛は筆を止めて顔を上げた。硯の水面に、細かい波紋が広がる。
「御用召し……何事じゃ?」
襖が開き、惣兵衛が駆け込んできた。頬は紅潮し、息は荒い。焦りと興奮が入り混じっている。
「異国船が……岸本沖に漂着したそうじゃ!」
「……異国船!」
その言葉に藤兵衛は眉を上げ、胸の奥が熱くなるのを感じた。あの黒船来航の噂を聞いた日から、土佐の海にもいずれ異国船が現れることは覚悟していた。だが、それが現実となったとき、全身を駆け巡るのは恐怖ではなく、粟立つような昂ぶりだった。
「船は……どこのもんと分かっちゅうがか?」
「まだ詳しゅうは分かっちゃあせんようです。ただ、岸本の河口に近い浜に打ち上げられたと…!」
惣兵衛は早口で言いながら、槍と外套を差し出した。藤兵衛は頷き、帯刀を確かめて立ち上がる。
岸本――その名を聞いた瞬間、藤兵衛は頭の中で地図を描く。香我美川の河口に広がる塩田、姫倉山を背にした市町。ここは土佐東部の海防の要であり、人々の往来も多い。
「……とうとうか。これは城下にとっても一大事じゃ。早う行くぞ!」
朝倉の山裾を抜け、二人は馬を駆って東へと急いだ。吐く息が白く、風が頬を刺す。冬枯れの田畑は霜に覆われ、畦道は凍りついて硬くなっている。
途中の村々では、既に噂が広がっていたのか、人々が家の前に出てざわついていた。老婆たちが手を合わせ、子供が好奇心で目を輝かせて走り回る。
中には恐怖に顔を引きつらせ、「異国の鬼が攻めて来る!」と叫ぶ者もいた。
「兄上、村人らの恐れよう……まっこと尋常じゃあないのう」
惣兵衛が振り返り、眉をひそめる。
「無理もない……異国船といえば、皆、あの黒船を思い浮かべるがやろう」
藤兵衛は答えながら、馬の腹を軽く蹴った。楽助たちから聞いた「ペリー来航」の記憶が甦る。その言葉が、現実と重なる音を立てて響き始めていた。
異人とはどのような者か、藤兵衛はオラゾで出会った数多の異種族を思い起こしながら、恐怖よりも好奇心の高揚を抑えるのに必死だった。
香我美川を渡ると、潮の匂いが強くなる。遠くに広がる海が、冬の鈍色の空を映して荒々しく波立っていた。
やがて岸本の町が視界に入る。塩田が広がり、白く積まれた塩の山が並んでいる。市町では、多くの人々が往来し、野次馬の群れが浜辺へと流れていた。
藤兵衛は馬を降り、浜へと急いだ。波音が次第に大きくなり、胸が高鳴る。
「おお、あれが……!」
群衆が指差す先に、異国船が打ち上げられていた。
しかしそれは、藤兵衛が想像していた「黒船」ではなかった。船体は思いのほか小さく、帆は破れ、船腹は潮に晒されて変色している。甲板には数名の異国人らしき影が見えるが、彼らは疲弊しきって動くこともままならぬ様子だった。
「清国の……江南船じゃな」
藤兵衛は一目で見抜いた。
土佐の沿岸には、時折こうした唐船が漂着することがあった。交易の船が嵐に遭い、潮に流されてここまで来るのだ。
少し肩の力が抜けたものの、群衆の中には失望の色を隠せない者も多い。唐船と分かるや野次馬は徐々に少なくなり、陽が中天に差し掛かる頃には、藤兵衛ら警備の藩士を除いて浜辺は静けさを取り戻していた――。
そのとき、鋭い声が冬空を裂いた。
「まっこと、なんちゃあじゃないのう!!」
馬上から飛び降りた一人の若者が、両手を天に突き上げ、悔しげに叫んだ。
「異人じゃ言うき見に来たら、唐人ばっかりじゃいか! わしは西洋の黒船が見られる思うて、朝餉も食わんと急いで来たがやに!」
周囲がどっと笑いに包まれる中、藤兵衛はその若者に目を凝らした。
背が高く、広い肩幅。鋭い目に、どこか人懐っこい笑みを浮かべる顔立ち――。
「あれは……!」
――坂本竜馬!!
藤兵衛の胸が高鳴った。
坂本家は才谷屋を営む豪商一門の郷士であり、その次男坊――竜馬は剣の腕も立つと評判だった。江戸へ剣術修行に旅立ち、今年の九月に土佐に帰ってきていたことは、父・清兵衛から聞いて知っていた。
いずれ会わねばならぬ人物ではあったが、よもやこのような場所で出会おうとは思いもしなかった。
藤兵衛は一歩進み出て声を掛けた。二歳下の彼とは、日根野道場で一度だけ手合わせをしたことがあったのだ。
「もしや……坂本殿、ではないか?」
竜馬は振り返り、怪訝な顔をした。
「おまん……誰ぜよ?」
「わしじゃ、朝倉藤兵衛じゃ。数年前に日根野道場で一度、手合わせしたことがあったろう」
竜馬はしばし考え込み、やがて破顔した。
「おおっ! 朝倉の―――すまん、ひとっちゃあ覚えちゃあせんのう! けんど、藤兵衛殿、よろしゅう頼むぜよ!」
その飾らぬ物言いに、藤兵衛は思わず笑った。
「かまん、かまん。わしが弱うて、印象にも残らなんだだけじゃ」
二人は自然と並び立ち、漂着船を見つめた。
「異国の竜馬に等しく千里の外に轟きたれば、か…」
藤兵衛の口からは、史記にある劉邦が張良を称えた故事が漏れたが、竜馬にそれが聞こえたかは分からなかった。