第三話 毒を食らう
夕刻、ハリスは“御用”の名で用意された駕籠に押し込められた。押し込められた、と感じたのは、駕籠の四方を塞ぐ足音が多すぎたからだ。護衛ではない。囲いだ。囲いは礼を纏っているほど手ごわい。粗野な縄なら腕で振り払えるが、礼に編まれた縄は、振り払った瞬間に「無礼」という刃へ変わる。
駕籠は、彼の歩幅では動かぬ。江戸の拍に合わせて運ばれる。外では暮れの潮が引き、石垣の陰に湿りが残っている。品川沖の白波が、まだ鼻の奥で煤と油の匂いを立てていた。海辺の土塁で、砂時計の硝子が脆く光ったのを思い出す。薄い器ほど、割れた時に音が大きい。
――十四・五ノット。
紙の上では黒い文字でしかない。だが、その黒は波を裂き、前提を裂いた。裂いたのは波だけではない。彼の筋――「脅しで進める交渉」という筋そのものだ。
しかも、速いだけではない。
外輪がなかった。巨大な車輪が、どこにも露出していなかった。
砲撃に弱い“輪”が無い船が、あの速さで滑る。
海軍の者から聞いたことがある。イギリスでは外輪船と、スクリュー船が綱で引き合わされ、スクリューが勝った、と。だがそれは「勝った」に過ぎぬ。勝ってなお、スクリュー船は癖が強い。振動。軸。軸受け。船体の歪み。実用は容易ではない――それが常識だった。
まして双胴だ。梁で結ばれた二つの胴は、揺れに強い代わり、捩れに弱い。捩れの上に回転の震えが乗れば、結び目は割れる。割れれば沈む。
それを割らずに、十四ノット台で走る。
寺の門が開き、薄暗い回廊の先へ案内される。香の匂いが湿った木に染みつき、畳の縁に灯心の煤が薄く積もっている。ここが彼の宿だった。名目は“便宜”。実態は“留め置き”。それでも表には言えぬ。言えぬように整えられている。
障子が閉まる音がした。音は柔らかい。柔らかいから恐ろしい。鍵の音より、柔らかい音の方が、人を静かに縛る。彼は上着を脱がずに座り、まず水を飲んだ。喉の乾きが取れぬ。水の冷たさが、むしろ舌を痺れさせる。
机に置かれた燭台が揺れ、炎が二度ほど伸び縮みした。炎の揺れが、さきほどの白波に似ていた。
小姓役の者が紙と筆記具を運び、通詞が控えた。さらに奥、薄い襖の向こうに人の気配が複数――護衛ではない。監視だ。監視は咳払いをしない。息だけで存在を示す。彼は視線を上げずに言った。
「――本国へ急ぎの書簡を認める。絶対に覗くな」
通詞が言葉を選び、丁寧に伝える。丁寧な言葉ほど信用できぬ。だが、ここで怒れば拍を乱すのは自分だ。乱した者から綱は滑る。彼は怒りを飲み込み、代わりに算を立てた。
まず筋を保つ――「合衆国は友好をもって通商を整える」。その姿勢は崩せない。だが、それだけでは足りぬ。崩せば、相手は「脅し」を口実に固くなる。固くなった相手は、時間を売らない。利かぬ脅しは、自分の力を減らすだけだ。
ならば、筋を変える。脅しではなく、価値で絡め取る。裂け目を探し、楔を打つ。
彼は紙に向かい、筆先の違和感に堪えながら、文を組み立てた。英字で書くなら、監視は意味を十全には取れぬ。だが、彼の中で書簡の「内容」は、はじめから日本の骨で立っていた。外交官が恐れるのは言語ではない。前提の崩壊だ。
――国務長官殿へ。
彼はまず、事実を書きたくなった。双胴、スクリュー、速度。だが事実を並べれば並べるほど、結論が自分を殴る。
日本は無力ではない――それを、彼は紙面に書き出しから置きたくない。置けば、本国は彼の判断を疑う。疑いは支援を遅らせる。遅れは失地を生む。外交官は、自分の首を守ることで国益を守る――それが現実だ。
だから彼は、事実の前に「解釈」を置いた。
――本日、幕府上層は、私とオランダの商館長を呼び、正式の測距と記録のもと、新造蒸気船の上覧を行った。これは見世物ではなく、交渉の机を作り替える企みである。彼らは「時間」を買われる側ではなく、売る側だと宣言したに等しい。
その一行を書いた時、腹の奥が冷えた。品川の土塁の上で、堀田正睦が穏やかな声で言った――「売るのは、こちらだ」。穏やかさは骨を折る。脅しの声なら拒めるが、穏やかさは拒めぬ。拒めばこちらが粗野になる。粗野になった者は負ける。
彼は次に、もっと肝の部分へ踏み込んだ。
――この船の性能は、沿岸の秩序を変える。平均十四ノット台。外輪ではなくスクリュー推進、かつ双胴船体で、速力と安定が同時に成立。航走には乱れが少なく、偶然の一走ではなく運用体系として速さを管理していると推察される。
――特筆すべきは、外輪が露出していない点である。外輪船は砲撃で“足”を奪えるが、本船の推進は水面下に隠れ、被弾で止めることが難しい。速力と“見えぬ推進”が併存するため、攻撃・離脱の双方で優位となる。
ここで彼は、いったん筆を止めた。
自分が書いているのは、船の話ではない。
世界の秤の話だ。
スクリュー船は新しい。新しいから怖い。新しいものは弱いはずだ――弱いはずのものが、弱さを見せないのが怖い。
あれほど静かに走るには、回転の震えを殺している。軸が狂わぬだけの軸受けを持っている。水を噛む羽根が、無駄を減らしている。――そんなものを、地方の藩が。
――あり得ぬことだが、もしこの性能が量産されているなら、日本側は沿岸哨戒と輸送で主導権を得ている。結果、条約交渉における「日本単独では防御不能」という前提が崩れてしまう。沿岸で捕捉できぬ相手に、武力を示すことは自殺に等しい。
監視の気配が、息を一段深くさせた。彼はあえて墨を吸わせ直し、次の文を冷たく整えた。
――ただし、この技術が日本独自の成果であるとは断定しがたい。オランダ商館長の態度はあまりに平静で、驚きを隠すというより、既に状況の手綱を握っている者の余裕があった。欧州の知見が何らかの形で関与している可能性が高い。特にスクリュー推進は近年ようやく優位が論証されつつある段階であり、双胴構造との併用で発生する振動・結合部破壊の問題を解いている点は、偶然では説明がつかない。
彼はクルティウスの表情を思い出す。淡い顔。淡い声。淡いが、淡いほど怖い“余裕”。あれは、知らぬ者の余裕ではない。
――オランダは、先だって幕府と追加条約を結んでいる。彼らが背後にいる。そうでなければ。
そうでなければ、己の誤りになる。外交官にとって、誤りの自覚は刃だ。刃は抜けば血が出る。血が出れば交渉は弱る。弱った交渉は、国益の名で首を切られる。ワシントンの机は、海よりも冷たい。
彼は結論を急がせた。読む者を動かすために。
――よって、我が国は対応を一刻も遅らせるべきでない。条約締結を先延ばしにすればするほど、幕府は「強い日本」という像を既成事実として積み上げる。重ねて即時の締結を迫る必要がある。また、技術観察のため、海軍士官・造船に通じた者を速やかに派遣し、真の能力と量産性、ならびに推進機構を評価すべきである。あわせて、オランダの動向を探り、条約文言の写しを得る努力を強めたい。
書き終えると、彼は静かに息を吐いた。書簡は“国益”の衣を着ている。だが実際は、自分の位置を守るための楔でもある。彼はそれを恥とは思わない。外交とは、恥を飲み込み、勝つために顔を整える仕事だ。
次に、彼は別の紙を取った。今度は本国向けではない。自分だけの走り書きだ。日本側の内部を裂く手筋――南紀派と一橋派。老中と朝廷。海防の希望と外様への恐怖。裂け目はある。今日の上覧が、それを広げた。広げるだけ広げて、最後にこちらが楔を打つ。彼はその図を、短い箇条で刻んだ。
その時、外で寺の鐘が鳴った。江戸の夜は静かではない。静かではないのに、静かに圧を掛けてくる。遠い犬の声。どこかの井戸の軋み。板戸の開閉。人々の生活音が海の波のように絶えず続く。生活の音は強い。生活が続く国は、簡単には折れない。
(折らせるのではない。折れる前に、こちらの席へ座らせる。それが外交だ)
だが席が動いた。品川沖で机が動いた。机が動けば、条項の意味が変わる。意味が変われば、こちらの「急げ」はただの焦りに見える。焦りは値切られる。値切られた者は損をする。
襖の外で足音が止まり、通詞が小さく言った。
「老中首座より……“本日はこれまで”、と」
彼は目を上げた。呼んだのは“見せるため”で、話す机はまだこちらへ渡さぬ――そういうことだ。堀田は、上覧で前提を崩し、ハリスを江戸に縛り付けるのではなく、逆に江戸から遠ざける。江戸の中心で拍を乱させぬために。拍を乱すのは、外の異人でなく、内の人心だと知っている。
通詞が続ける。
「下田にて御沙汰を待たれよ。登城の儀は、追って申し渡す――とのことにございます」
待て、と言われた瞬間、彼の胸に冷たい笑いが転がった。堀田は言った。「時間は買われぬ。売るのはこちらだ」。その言葉が、今ここで形になる。帰して待たせる――時間を買うのは、こちらだ。売るのは、向こうだ。
彼は怒りを出さなかった。出せば負ける。彼はゆっくり頷いた。頷きは屈服ではない。息継ぎだ。外交官は、息継ぎを「同意」に見せる技を持つ。
「承知した。――ただし、伝えてほしいことがある」
通詞が身構える。彼は声を落とし、刃が見えぬよう刃を布で巻く。
「今日の船の技術。誰が造ったか。どの程度、数がある。――外輪が無いのにあの速さだ。もし数があるなら、沿岸の秩序そのものが変わる。私は条約だけを話しているのではない。通商とは、品を見て話すものだ」
通詞の目がわずかに揺れた。揺れは“通りにくさ”の合図だ。通りにくいなら別の道を探す。彼はさらに一言、軽く置いた。
「この国が多くの速い船を持つなら、速い品を運べる。運べるなら市は膨らむ。市が膨らめば条約の価値も膨らむ。――私はそれを本国へ知らせねばならぬ」
価値の話なら、日本は聞く。脅しは拒むが、価値は拾う。拾えば、こちらは席へ戻れる。彼はその理屈を信じた。信じるしかなかった。
通詞は頭を下げ、「申し伝えます」とだけ言った。言葉が短いほど、向こうが握っている。握っている者は短く言う。握られている者ほど長く言う。彼は、自分が長く言いそうになるのを噛み殺した。
その夜更け、書簡を折り、封蝋を垂らし、印璽を押す。蝋が乾くのを待つ間、彼は障子の向こうの気配を数えた。数えるのは癖だ。数えれば安心する。だが数えて分かるのは、ここが自分の居場所ではないという事実だけだ。
(もし、あれが十隻、二十隻と現れたなら)
海の優位は港の優位になる。港の優位は市の優位になる。市の優位は外交の優位になる。外交の優位は条約の条項を変える。条項が変わる――それは、合衆国の席が動くことだ。彼の国が、先に座った椅子を奪われることだ。
そして――戦争の常識が変わる。
大きな艦が強いとは限らない。
小さく速いものが、見えぬ足で近づき、当て、離れる。
追えぬ。止められぬ。守れぬ。
守れぬ海で、恫喝はただの空吠えになる。
彼は目を閉じた。閉じても白波が見えた。白い筋が二本、海を裂いて伸びてくる。裂け目に、誰の旗が立つのか。――その問いが眠りの手前で歯を立てた。
◆
翌朝、彼は江戸を出された。“追い立てられた”ではない。“送り出された”だ。送り出しほど屈辱的なものはない。礼をもって送られるほど、「ここはお前の場ではない」と宣告される。
品川から東海道へ。駕籠の外で、江戸の町はいつも通りに動いていた。魚売りの声。桶の水。子の泣き声。暮らしの拍が揃っている。揃っている拍は、脅しでは崩れない。崩すなら、別の拍を入れねばならぬ。彼は揺れる駕籠の中で、指先だけを固く握った。
下田へ戻れば、彼は待たされる。待たされること自体が、交渉だ。待たせる者は主導権を持つ。呼び出す者は拍を持つ。品川沖で奪われた拍を取り戻さねばならない。
だが、取り戻す道はひとつではない。
時間を買われるなら、こちらも買う。待つ間に情報を集め、裂け目を探し、楔を用意する。幕府が作った“強い日本”の像を、オランダの影で曇らせる。幕府内部の恐れを煽り、朝廷の不安を煽り、外様への警戒を煽る。煽り過ぎれば火が出る。火が出ればこちらも焼ける。だから、甘く煽る。友好という甘さで腹に残す。
駕籠の隅で、彼は自分に向けて一行だけ、崩れた書きつけを残した。通詞にも読めぬように、ただ記号のように。
――拍を奪うな。拍を握れ。
外で、海風が木を鳴らした。鳴りは小さい。小さいが、綱を擦る音に似ていた。品川沖の白波は消えた。だが、消えた後の海が元に戻らぬように、彼の頭の中の秤も元には戻らない。
ハリスは低く息を吐く。舌の奥に、鉄の味がした。
(毒を食らったのは、誰だ?)
遠くで車輪が軋み、鳥が鳴いた。江戸の拍は、奪わず、揃えてくる。その揃え方が、彼には何より怖かった。揃えられた拍の中で、異人は異人のまま、待たされる。
問いは答えにならぬまま、潮の匂いと一緒に、下田へ向かって流れていった。




