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おこぜの藤兵衛 ~幕末異聞 朝倉藤吾伝~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第二話 衝撃の異人

 九月朔日ついたち――品川沖。


 空は晴れているのに、光の底だけが薄く曇っていた。秋の入口を決めかねた霞が海面に薄衣を掛け、潮の匂いは御台場の土塁の石垣にまとわりついて、乾ききらぬ砂を舌の奥へ運ぶ。城下の木陰に蝉の声は残るが、海の上には代わりに、綱を擦るような帆綱のきしみが遠く響いた。


 品川の浜に仮設された上覧の御用場は、どこか祭の段取りにも似ていた。杭が打たれ、標柱が立ち、板の上に墨壺と尺と筆が揃えられる。だが祭と違うのは、笑いが無いことだった。声が低い。足音が乾かない。誰もが緊張を外さぬよう、胸の内の焦りを爪先へ押し込めて歩いている。


 標柱二本。測距杭。記録台。硯と筆。砂時計が三つ――白い砂の筋は、まだ落ちぬまま眠っている。杭の根元には見分役の足元を汚さぬよう藁が敷かれ、藁の上に粗末な布が掛けられていた。布の下は蘭式測程器。異国の理を“御公儀の手順”へ落とすための道具だ。


 御用場の上段には黒塗りの机がひとつ。机の端に置かれた砂時計の硝子は薄く、陽を受けて脆く光った。そこへ手を伸ばす者は、まだいない。触れれば割れる――皆がそう思っている。


 老中首座・堀田正睦は、その机の前に据えられた仮の高座へ上がり、扇子を膝の上で一度だけ畳んで鳴らした。鳴らした音は高くない。高くないが、人の呼吸はそれに揃う。彼はこの座を、討議の座ではなく、拍を揃える座として作っている。


 目の前の海は江戸湾であり、江戸の喉であり、幕威の顔である。そこへ外様の舟が入る。――速さは、海防の理より先に支配の理を刺す。


「――風は南。潮は上げ。よい。標柱、念を入れよ」


 軍艦掛・永井尚志が低く返す。声を張らない。言葉を飾らない。飾りは相手の拍に乗るためのものだ。


「はっ。往復二走、潮相殺。砂時計は三つ、返し役は二名で互いにる。筆は二列、片方は誤りの控え。記録は直に写しを作ります」


 細部に神が宿るのではない。細部に“責”が宿る。記録が残れば、責は掴める。責を掴めれば、旗は守れる。


 その「旗」を欲で見ている影が、台場の陰にいくつもあった。南紀派の老中・松平忠固は黙って海を見、扇の骨を指先で叩く癖が今日は一段速い。彼の胸にあるのは海防の理ではない。参勤は服従の儀――その道を海へ移すことは、道の口を変えることだ。口が変われば拍が変わる。拍が変われば世が変わる。世を変えるのは、いつも数字だ。


 下段で通詞役が声を潜めた。


「下田御領事ハリス、まもなく参る由」


 誰かが小さく喉を鳴らした。座の空気が一段重くなる。堀田は扇子をわずかに開き、また閉じる。風を送るためではない。己の呼吸の拍を座の拍に合わせるためだ。


 ほどなく、異国の影が二つ、列の端へ落ちた。


 ひとつは背の高い男――アメリカ総領事、タウンゼント・ハリス。黒い上着は仕立てが良く、立派な口髭を蓄え、汗を弾く布の光りがある。だが、その上等さはこの湿った海辺では妙に浮いた。汗を嫌う顔で汗を堪え、帽子の縁をいじりながら、目だけは海面の線を逃さぬ。礼は欠かさぬが、その礼は相手を同じ台に上げるためではない。相手を己の理の枠へ入れるために払う礼だ。


 もうひとつは長崎出島のオランダ商館長――ヤン・ドンケル・クルティウス。まっすぐ背を張り、表情は淡い。淡いが、緩いほど油断はしていない。視線は海へ向かいながら、海ではなく、人の目の動きと距離を見ていた。驚きを外に出せぬ緊張だけが、薄い顔の下にある。


 正睦は二人へ声を掛けるでもなく、ただ座の空気を整えた。整えるだけで、他人は勝手に意味を読み取る。


 ハリスは席順を一瞬で読み、通詞を介して言った。


「――本日、何を見せるつもりか。私には、条約草案の続きがある」


 通詞が言葉を継ぎ、正睦へ渡す。正睦は扇を閉じたまま、目だけで受けた。


「条約の続きは、見せた後でよい。……いや、見た後でなければ、話が合わぬ」


 静かな声ほど拒みがたい。ハリスは鼻で笑うつもりだった。だが笑いは出ない。出ないのは、彼の目の前に砂時計が置かれているからだ。交渉の時間を道具にする国は、弱い国ではない――その理屈が、彼の胸の底で小さく鳴った。


 ――とはいえ、彼の腹はまだ動かぬ。


 日本は未開国だ。武は古く、財は乏しい。西洋列強の艦隊が来れば折れる。折れる前に条約を結び、アメリカを“友”として先に座らせる。それが彼の筋だった。脅しは筋を通すための道具に過ぎぬ。相手が弱ければ筋は通る。


 一方、クルティウスは何も言わない。言わないが、胸の内で一度だけ砂を返した。


(見せる場に異国を呼ぶ、か――幕府は賢い。賢いが、危うい。賢い者ほど刃の柄を握りたがる)


 恐ろしいのは速さではない。速さが生む“口”だ。噂の口、利の口、欲の口。イギリスが嗅ぎつけ、フランスが嗅ぎつけ、ロシアが嗅ぎつける。嗅ぎつければ道具では終わらぬ。旗が裂ける。裂け目に、アメリカが爪を立てる――それが今日の危うさだ。


 台場の陰で、砂時計を運ぶ若い役人の手がほんの僅か滑った。硝子が鳴りそうになり、白い砂がふわりと揺れる。落ちる前に支える。支えた瞬間だけ、場が「落ちるもの」を思い出した。堀田は見て、見ぬふりをした。見ぬふりが、場を保つ。


 沖の霞が一本の線を割った。


「来ます」


 尚志が低く言う。誰かが息を呑んだ。忠固の扇骨が止まり、ハリスの眉がわずかに動く。クルティウスの瞳孔が一段だけ締まる。海の向こう、白い筋が走った。最初は鳥の腹のように小さい。だがその筋が海面を撫でるのではなく、引き裂いているのが分かった瞬間、浜の空気が変わる。


 白波が、こちらへ“伸びてくる”。

 帆ではない。外輪でもない。音が違う。低い。腹の底を撫でるような蒸気の唸りが、波の下から来る。潮の匂いに煤と油の匂いが混じり、鼻の奥が痺れる。


 やがて、双胴が見えた。


 梁で結ばれた二つの細身の船体。その間に薄い甲板。高い檣は持たず、余計な飾りもない。船体に外輪がない。代わりに、水を抱くような尾がある――螺旋羽根スクリュー


 その一瞬、ハリスの喉が乾く。


「…What is that— a steamship? (……あれは、なんだ――蒸汽船か?)」


 彼は自分の英語で問いを吐いた。吐いた瞬間、己が冷静を失ったことに気づき、気づいてさらに焦る。焦りは拍を乱す。拍を乱した者から、交渉の綱は滑り落ちる。


 鳴龍丸は標柱の手前で一度速度を落とした。落としたが、止まらない。止まらぬまま滑るように角度を変え、標柱と測距杭の線へ正しく乗った。まるで道が海に引かれているかのように。


「これは―――何を?」


 ハリスは自らの狼狽を面に出さぬよう、低い声で口髭の端に触れながら平静を装うが、隣に立つクルティウスはその指先の震えを見逃さなかった。


「新造蒸汽船の上覧である。土佐――南海にある藩が造ったものだ」


 トサ――通訳を介して正睦の口から出たのは聞きなれぬ地名。ハリスは戸惑いながらも、その船から目を離すことが出来ずにいた。


 尚志が手を上げる。


「――砂時計、用意」


 返し役が頷く。筆が宙で待つ。浜の拍が、ひとつに揃う。


「始めよ!」

 太鼓が一つ。どん、と腹に響く。

 

 鳴龍丸が、伸びた。


 水が割れる。波が跳ね、白い線が二本、肩を並べて走る。甲板の上の人影が風に押されて一瞬だけ細くなる。だが船は揺れない。揺れないから、速さがそのまま刃になる。刃が水面を舐めるのではない。水面を、切っていく。


 標柱を過ぎる。砂時計が返される。白い砂が落ちる。筆が走る。測程器の目盛を読む声が重なる。風と潮の補正の数字が、紙の上へ落ちる。


 片道を走り切り、沖で大きく回頭する。回頭に“溜め”がない。速度を殺さずに身をひねる。双胴の梁がねじれを受け止めている。

 戻ってくる白波が、先の白波の上へ重なり、さらに白くなる。浜の空気が薄くなる。息をするのを忘れる。


 往復二走。

 砂が尽きる。返される。尽きる。返される。


 最後の通過で、筆の先が紙を破りそうなほど力が入った。記録係の指が震える。震えるのは恐れではない。認めたくない真実が、数字になって落ちるからだ。


 尚志が紙を受け取り、目を落とし、正睦へ差し出す。


 正睦は扇を開かずに言った。


「読み上げよ」

 

 尚志が乾いた声で読み上げる。


「――平均、十四ノット五分」


 その瞬間、浜のどこかで小さく喉が鳴った。誰かの咳が出そうになり、出ずに飲み込まれる。砲口の蓋の下で、鉄が冷える音がした気がした。忠固の扇が、わずかに震える。


 ハリスの顔色は、目に見えて変わっていた。


 計測の数字を聞くまでもなかった。目に見えて速い。アメリカの艦船よりも、遥かに速い。自分が知る世界の秤が目の前で狂う。狂うのは秤だけではない。交渉の前提が狂う。脅しの効き目が狂う。


「……Is this really Japan’s own technology?(これは、日本の技術なのか?)」


 彼は通詞へ、いや通詞を飛び越えて、静かに手を叩くクルティウスを見た。疑いというより、すがりである。オランダの援助ならまだ筋が立つ。未開国が自力でこの速さを生むはずがない。未開国であってほしい。そうでなければ、自分の立つ場所がなくなる。


 クルティウスは、初めて口角を動かした。微笑でも嘲笑でもない。商人の“受け答え”だ。


「Maybe. (おそらくは。)Japanese waters, and Japanese ship.(日本の海、日本の船。)――And you are a diplomat.(――そして、あなたは外交官だ)」


 丁寧な言葉が、逃げ道だけを塞いだ。言葉は短い。だが、その短さの裏で、胸の内は密やかに熱を帯びていた。


(我々は――アジアの片隅で、世界の海軍力を塗り替える技術を得る)


 確信が、波の裏で硬くなる。速さは剣にも盾にもなる。密約を急がねばならない。まだ気づかぬうちに。気づいた時には遅いように。


 クルティウスは息を一度だけ整え、何事もないように海面へ視線を戻した。面は淡い。だが、淡いほど深い。――その深さに、ハリスだけがまだ気づいていない。


 ハリスは喉の奥の苦いものを呑み込み、言葉を重ねた。


「この船は、武装しているのか?」


 通詞が訳している間がもどかしい。尚志が一歩前へ出て、あえて平然と言い放つ。


「土佐より江戸までは四百海里余り。将軍家御直命にて急ぎ二日で参ったゆえ、本日は鉄砲・大筒の類は積んでおらぬ」


 その答えにハリスは口髭の端を押さえたまま固まった。四百海里を二日――、追いつけぬ。逃げ切れぬ。我が国の艦船は、ただの的になる。


 正睦が扇を一度だけ閉じ、ハリスへ向けて言った。


「見えたか、ハリス殿。日ノ本は、ただ脅しに折れる国ではない。折れるか折れぬかではなく、折れぬために器を拵え、手順を拵えておる」


 白波がまだ海面に残っている。残る白波は、言葉より強い。


 正睦は続ける。


「条約は話す。だが、話す机は、今ここで一段変わった。……これより先、“時間”は買わぬ。売るのは、こちらだ」


 これは契りだ。契りは縛りだ。縛りは主導権だ。彼の胸の内で、前提が一つ崩れた。

(この国は、私が知っていた国ではないというのか。――まさか、今までの時間稼ぎはミカドの勅許でなく、この船の完成を待っていたのか……!?)


 怖れが走る。怖れは兵の数ではない。速さだ。沿岸を二昼夜で駆ける速さ。距離が縮めば、圧が逆流する。圧を掛ける側が、掛けられる側になる。


 ――それでも外交官は崩れぬふりをせねばならない。


「……確かに興味深い船ではある。だが、条約は条約だ。通商は通商だ。海の速さと、国の約束は別だ」


 正睦は頷く。頷きは譲歩ではない。誘導である。


「別でよい。ならばこそ、今日呼んだ。――城下にて待て。話は、机で終わらせる」


 その「終わらせる」が、どちらの終わらせ方か――ハリスには分からない。分からないことが屈辱だった。




 鳴龍丸は沖で白波を畳み、静かに漂う。速さを畳める船は恐ろしい。速さを出せるだけならまだ分かる。だが、出した速さを収め、必要な時にまた出せる――それは道具ではない。意思だ。


 台場の柵の向こうで、若い役人が砂時計を持ち上げた。今度は滑らない。滑らないが、砂が一粒だけ硝子の縁に引っ掛かった。落ちずに残る砂は、未来の不吉に見える。


 尚志が低く言った。


「……これよりが難儀でござるな」


 正睦は扇を閉じたまま答えた。


「難儀は構わぬ。難儀は手で掴める。……恐ろしいのは、掴めぬ熱だ」


 遠く、江戸の城下の屋根が霞む。城下は人の熱で出来ている。熱は揃えば拍になり、乱れれば刃になる。


 正睦は今日、拍を揃えたつもりだった。だが拍を揃えれば揃えるほど、別の者が拍を奪いに来る。奪う者は外だけではない。内にもいる。忠固の沈黙が、台場の陰でじわりと動く。


 白波は消える。だが白波が消えた後の海は、前と同じではない。海が同じでないなら、政も同じではいられない。


 ――綱は、軋み始めた。

※史実の双胴蒸気船について

幕末の日本でも、重い蒸気機関を安定させ喫水を浅くする狙いで「二艘船(双胴)」の発想はありましたが、木造の連結部に機関振動と荒波の衝撃が集中して強度が保てず、実験的段階を出ませんでした。

欧州でも19世紀半ば以降、船酔い防止など安定性を目的に双胴蒸気船(例:ドーバー海峡航路の試み)が造られましたが、多くは外輪配置で、造波抵抗の増大と連結部の破壊が壁となり速力は概ね10〜11ノット止まりでした。

ゆえに「小型・浅喫水の双胴がスクリューで14ノット台を常用し、構造も破綻しない」という鳴龍丸は、当時の常識では“魔法”に等しい工学的飛躍であり――ハリスにとっては、恫喝の前提そのものを崩し、沿岸の秩序と交渉の席をひっくり返す“現物の脅威”となったのです。


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