第一話 綱の戒め
蝉は高く鳴いているのに、風の端だけが海の匂いを含んでいた。朝倉家の井戸桶へ落ちた水滴が、波止のさざめきのように輪を広げる。縁側の影は短く、畳の目は湿気を吸って、なお乾ききらぬ。
藤兵衛は一歩ひき、机の上の紙束へ目を落とした。端は幾度も捲られて柔らかくなり、墨の黒はところどころ灰を噛んでいる。脇には荷造りの麻縄がひと巻き。結び目の癖が、まだ手の中に残っている――江戸へ運ぶものが増えたからだ。
表紙に置いた六文字。
『おらぞ漂異録』
帰還して間もない頃、これは己を保つための記録だった。異界で見たもの、学んだもの、殺し、救い、迷い、選んだもの――書かねば土佐の湿りに呑まれる気がした。だが、いま筆が向かう先は少し違う。己を繋ぐためではない。誰かへ渡すための文になりつつある。器の作り方と、拍の揃え方と、そして――抜けば血の出る真実を、どう鞘へ収めるか。
藤兵衛は紙束の隅に、ひとつだけ新しい書付を挟んでいた。朱の印。急ぎの便。江戸城の白波がこちらへ伸びている合図だ。「上覧」の二文字だけで、縄の端が引かれる。
藤兵衛は筆を取り直し、綴じの中ほど――万象の項へ指を滑らせた。
――万は器にして人。人にして器。理を持ち、情を欠き、情を学びつつある。異界の骸体とは、魂の器にて、器の魂なり。
万象の名の横には、彼女が「万」と呼ばれるようになった事情も添えてある。世に知られれば騒ぎの種になる。だから文は二重にした。読める者には読めるように、読めぬ者にはただの奇談に見えるように。真実は刃だ。抜けば血が出る。鞘へ収め、必要な時にだけ抜く――己は、その鞘である。
さらに奥の綴じには、誰にも見せぬ頁がある。アトラフラウの灯、アトラウェネスの光、水底の賢者イオネムの言葉。二アールとクネードの戦乱で滅びた世界の、滅びと再生の輪。
藤兵衛はそこへ、誓いを刻み直した。
――滅びは器の欠け目から入る。欠け目を放れば、正しき者ほど刃を抜く。刃を抜かせぬため、まず拍を揃えよ。
筆を置き、藤兵衛は机の端の麻縄を指で撫でた。結べば固い。固すぎれば切れる。緩ければ解ける。――これから結ぶのは、ただの荷ではない。海の向こうと、江戸の旗の下と、土佐の腹を、ひと筋に繋ぐ綱だ。
隣の頁には、双胴蒸気船の項がある。鳴龍丸の構え、梁の組み、螺旋羽根の角度。試走の手順。標柱二本をどこへ立て、砂時計をいつ返し、蘭式測程器の目盛を誰が読むか――道具の癖まで書きつけてある。
砂時計のガラスは薄い。返す手が拙ければ、砂は畳へこぼれる。こぼれた砂は拾えぬ。藤兵衛は異界で、こぼれたものの重さを嫌というほど見た。
頁の中央に、ただ数字。
『十四・三』
十四ノット三分。墨の点は軽い。軽いが、軽さゆえに恐ろしい。人の足の世界に生きる者には、ただの黒だ。だが海では、その黒が白波を連れて権威を追い越す。
筆を置くと、藤兵衛は刀の柄頭を一度だけ押さえた。呼吸を整える癖は、勝浦浜から帰ってからずっと残っている。津波に呑まれ、五年を異界で過ごし、現に戻った時――土佐は七日しか経っていなかった。己は年を食い、世は食っていない。時間の歪みは奇譚ではなく、責の形だ。
成果を数えるのは易い。だが、数えた瞬間に次の刃が見える。
鳴龍丸。
万象は「世界の器がひとつ段を上がった」と評した。カッテンディーケの眼は、驚愕のあとに冷えた算を宿した。勝麟太郎の笑みは、潮風に晒した刀のように薄かった。誉め言葉ではない。――手綱を探す者の顔だ。
速すぎる舟は、縛られる。縛られぬなら奪われる。
江戸湾に鳴龍丸が白波を立てれば、公儀の権威が“目で見える理”に塗り替わる。だから公儀は必死になる。制御しようとする。その必死は、土佐が幕政の中心へ躍り出ることを、否応なく認める必死でもある。
旗は御公儀。器は土佐。拍は江戸が打つ。――江戸はそう言い切り、言い切って手綱を握りに来るだろう。
握らせてよい所と、握らせてはならぬ所を、こちらは先に分けねばならぬ。
武市半平太。
世さ来いの喧噪の裏で、半平太の熱は少しだけ形を変えた。熱が冷めたのではない。向きが変わった――。異界で貴彦から聞いた先の世。土佐が土佐の血で濡れる未来の匂い。新町道場の夜、稽古のあとの湿った床、門弟の息がひとつに寄る気配――あの熱が刃へ移る匂いだけは確かだった。
藤兵衛は「避ける」と決めた。熱を殺さず、向きを変える。斬らせず、掴ませる。攘夷の言葉を、守りの言葉へ編み替える。半平太が変われば、半平太に引かれる者たちも変わる。少なくとも、暴れる前に一拍、考える癖を植えられる。
世さ来い祭り。
上と下の拍が、あの三日でひとつになった。太鼓の合図に合わせ、上士の草履も郷士の足袋も、町人の裸足も同じ土を踏む。鳴子は手の先で鳴るだけでなく、人の胸を同じ速さに揃えた。踊りの輪が広がるほど、身分の言葉は薄まり、代わりに「次は誰が手を回す」「札を渡す」と拍の指図が行き交う。
藤兵衛はその“残り方”に、ほっとしたのと同じだけ背筋が冷えた。
――この拍を、器から法へ。法から習いへ。
容堂が城中で言った言葉が蘇る。祭は旗。旗を立てた以上、器を拵え、数を言葉に。外へは海で道を拓き、内へは法と学で道を整える。東洋は参政へ復し、藩校は文武館へ改められる。士だけでなく郷士・町人・工の才も拾う。新世社を興し、産物の見本取立から長崎・江戸の売捌まで筋を一本に束ねる。
そして――自分の名が呼ばれた。
参政付・仕置添役。
裁可の取次、施行の督促、部局の継ぎ目の調え。参政・家老の横に付く役。刀で押すな、言葉と数で通せ。叩くより掴め。鼎の声が重なる。「理を短く、手を早く」。東洋は言った。「海と陸、上と下、学と市――橋を掛けよ。鳴龍丸の“掴む”理で、藩政を運べ」と。
だが橋を掛ける先は、土佐の内だけではない。海の向こうにも、橋は伸びる。
阿蘭陀の特許――密約。
藤兵衛は、そこだけはまだ漂異録に書き込んでいない。言葉にすれば、金の匂いが先に立つ。金の匂いは拍を乱す。己が欲しいのは、銭そのものではない。藩の赤字を少しでも軽くし、兵と学に回す余白――それだけで足りるはずだった。
だが、浦戸で見たカッテンディーケの眼の奥には、もっと大きな海が映っていた。潮の向こうを先に見て、先に手綱を探していた。器が速すぎれば、欲する手は増える。欲する手が増えれば、噂は匂いを帯びる。匂いは人を呼ぶ。利が立てば、旗は寄り、刃も寄る。
だから、これは利の話ではない。縄の話だ。誰が結び目を握り、誰に端を渡すか――それを誤れば、白波は祝言ではなく騒擾になる。
藤兵衛は筆先を宙に止め、あえて書かなかった。まだ名を与える時ではない。まだ、拍を乱す段ではない。
『漂異録』を綴じる麻縄の結び目を指で押さえる。固く結べば切れる。緩ければ解ける。ちょうどよい締めは、手の中にしかない。
藤兵衛は机の端に小さく墨点を打った。己だけが分かる印。ここは“綱”の章とする。交渉の結び目を書き、綱の端を誰に渡すかを決めねばならぬ。
目指すものはひとつだ。
日ノ本の血を、流させぬ。
黒船が来る。条約が迫る。将軍家の病は重く、後継を巡って公儀は裂ける。外を急げば内が崩れ、内を立て直そうと遅らせれば外が押し寄せる。綱は細い。そんな中で鳴龍丸は速すぎる。速さは救いにもなるが、同じだけ刃にもなる。
誰かに否があるわけではない。あるのは個々の「想い」だ。だがそれらが交わり熱を帯び、刃になる時、誰もが血を呼ぶ選択になり得る。
藤兵衛は唇を噛み、机の縁を指でなぞった。木のささくれが、指の腹にわずかに引っ掛かる。
己が出来るのは、未来を当てることではない。未来の筋を変えることだ。貴彦の話は“史”ではなく“匂い”に過ぎぬ。細部は分からぬ。だが匂いを避けるには、匂いの元を断たねばならぬ。刃を交える前に言葉を交え、言葉を交える前に数を揃え、数を揃える前に場を保つ。
――鞘として立つ。
藤兵衛は漂異録の余白に、短い箇条を打った。己の戒めとして。
一、腹は土佐が持つ。 ――握られる前に制す。
二、拍を揃える。 ――熱を殺さず、向きを変える。
三、器を法へ運ぶ。 ――見せて、印判へ落とす。
四、利は場に留め、明日へ渡す。――札の理を日々へ移す。
五、異界の密は抱く。 ――必要な時のみ開く。
最後の一行を書き終えた時、庭の外で声が弾けた。惣兵衛の、よく通る笑い声である。
「藤兵衛は、また机にかじりついちゅうかえ!」
続いて、戸口の影がすっと伸びる。坂本竜馬が先に立ち、惣兵衛が後ろから覗き込み、もうひとつ――人の影のようでいて、人の影ではない静けさが、縁側の光を少しだけ曇らせた。
「万も来た。早う江戸へ行く支度を始めんといかんぜよ。浦戸で皆が待ちゆう。参勤の荷積みから上覧の段取り合わせで、猫の手も借りたいがやき」
竜馬は軽く言ったが、眼の奥は海の色をしていた。ふざける時ほど真剣な目をする――藤兵衛はそれを知っている。
万象は縁側へ上がると、机の上の紙束に視線を落とし、首を傾げた。指先が麻縄の端に触れる。結び目を確かめるように。
「お上は“龍”を欲しがるでしょう。騎乗しようとする者は、まず手綱を探す。――こちらが先につけて、結べばよいのです」
言い終えると、万象は何事もなかったように、庭の木陰へ目をやった。情の色は薄い。だが、薄いからこそ迷わぬ算がある。
藤兵衛は紙束を一枚ずつ揃え、丁寧に紐で括った。記録は鞘の内へ納める。抜くのは、必要な時だけでいい。――江戸の白波の前で、抜かねばならぬ時が来る。
立ち上がると汗が背を伝った。だが心は乾いていた。乾いた心は、拍を聞き取れる。
竜馬が肩越しに庭を見やり、冗談めかして言う。
「江戸っ子の脚と話は、土佐とは違うてごじゃんと速いぜよ。けんど、鳴龍丸の白波の速さ――どっちが先に人の胸を揺らすか、見ものやき」
藤兵衛は笑わなかった。ただうなずく。速い言葉は胸を煽る。速い舟は世を動かす。煽られた胸は、刃にも旗にもなる。だからこそ、拍を奪うのではない。拍を揃えるのだ。
庭先で惣兵衛が足を鳴らした。はやる気持ちを隠し切れぬ音だ。
「兄上、荷はもう半分揃えましたき。竜馬さんの分も――」
「惣兵衛、竜馬の荷は軽うてえい。あの男は口と足で済ますきに」
竜馬が笑い、惣兵衛もつられて笑う。笑いが先に来るのは、怖さを知っている証拠だ。
藤兵衛は刀を確かめた。抜かぬために差す刀。抜かせぬために差す刀。江戸へ持って行くのは刃ではない。刃を抜かせぬための、言葉と数と段取りだ。
門へ向かう前に、藤兵衛はふと立ち止まり、麻縄の結び目を見た。結び目があるから綱は綱になる。結び目があるから、揺れがほどけずに済む。――だが結び目は、いつでも切れる。
異界で見た滅びが胸を掠める。滅びは一瞬では来ない。拍が乱れ、疑いが巡り、器が割れ、旗が裂ける。裂ける瞬間にはいつも大義が添えられる。「止むを得ず」という言葉が、最後に人を殺す。
だから――血を減らすには、剣より先に拍を揃えねばならない。
藤兵衛は息を吐き、門の外へ視線を伸ばした。江戸へ行く。器を見せ、旗の下で拍を握り、血の匂いを風上へ追いやるために。鳴龍丸の白波が運命の面をひっくり返す前に――まず己の手で、拍を打ち込む。
縁側を降りる足が畳の拍を刻む。三人だけが知る異界の灯は、胸の奥で静かに揺れた。
舟と舟を結ぶ綱――舫は揺れを風にしない。風を刃にしない。
藤兵衛はそのまま門を出た。




