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序幕 「御厄介」

 安政四年八月十五日―――江戸城。


 御用部屋の障子は、まだ半分しか明けられていない。残暑の湿りが畳に沈み、几帳面に並んだ座布団の縁が、薄い光を拾う。黒塗りの机の上で、砂時計がひとつ――音もなく返された。


 佐倉藩主、老中首座・堀田ほった正睦まさよしは、扇子を握ったまま書付の端を親指で押さえた。紙は昨夜の露を含んだように重い。目に入るのは、太い筆で二度、上からなぞるように書かれた数字――


『十四・三』


 砂の白い筋より先に、城の胸の拍だけが早くなる。


 (この速さの舟を……土佐が、か)


 書付には手順が添えられていた。浦戸湾に標柱二本、往復二走。砂時計、蘭式測程器。風と潮の相殺。署名――勝麟太郎、W.H.ファン・カッテンディーケ。


 下手で筆硯を整える若い書記の手が、ひとつ滑った。硯の縁に指先が当たり、墨がわずかに揺れる。落ちる前に持ち直す――その一瞬だけ、部屋が「落ちるもの」を思い出した。


 『新型蒸汽船を海路参勤にて上覧仕りたし』――土佐からの申し入れは、御用部屋の湿りを一息で冷やした。老中格の合議が、いま始まる。


 正睦は扇子を胸の前に横たえ、視線を障子の外へ流した。陽はまだ柔らかい。だが、その柔らかさの裏に刃のようなものが潜むのを知っている。


 ――先々月に急死した前の老中首座・阿部あべ正弘まさひろが、初めて土佐藩主・山内容堂と対座した折のこと。


「天下の政治を一身に受けられ、御心労さぞかしと拝察いたす」


 容堂は礼の定型をさらりと述べたあと、声を落として笑った。


「いや、かく申すは表面のこと。たくさんの馬鹿大名の相手にてお気楽なことと存ずる。ただ、土佐のみは今後少々御厄介になりたい」


 老練な正弘は眼尻だけで笑い、畳に扇の先で小さく円を描いた。後で正睦にだけ洩らした。

 ――土佐守は即座の応答で若年ながら侮りがたき名論をする。


 正睦はその場で冷や汗を押さえきれなかった。だが今、同じ汗が背を伝うより早く、指先が書付へ戻る。


 その「名論」が、いま紙の上で数字になっている。



 廊下から足音が吸われ、老中たちの裾が潮の匂いのようにひやりと流れ込む。座が揃うより早く、言葉の前に思惑が揃ってしまうのが江戸城だ。


 上田藩主、老中・松平まつだいら忠固ただかたが、最初に声を放った。南紀の息が濃い男だ。眉は太く、声は穿つように重い。


「十四ノットだと。ペリーの黒船ですら十ノット程度。外様の土佐ごときが、いつの間にそれを造れたのだ。噂に毒されたか、誇大な夢に憑かれたか」


 疑いは数値への不信だけではない。一橋派の容堂へ向けた牽制が、言外に立っている。


 軍艦掛・永井ながい尚志なおゆきが、低く受けた。声を張らない。手順で詰める声だ。


「署名は勝と蘭軍士官カッテンディーケ。計測は長崎伝習所の教本どおり。往復二走、風と潮の相殺、砂時計の返しも記録に残している。――噂だけでここまで整いませぬ」


 尚志は紙束の下から別の書付を抜き、机に置いた。寸法、推定出力、そして粗い図。外輪ではない。艫の螺旋。双胴は梁で結ばれ、横揺れを抑える意匠が見える。


 忠固の眉がわずかに動く。


 法令・制度筋を預かる老中・脇坂わきさか安宅やすおりが、扇を立てた。言葉が規矩の匂いを帯びる。


「だが、いまは外の風聞が騒がしい。英仏が広東カントンで砲声を上げたと申す。ハリスもそれを楯に、下田で条項を卓上に並べてくる時分だ。幻と真が絡む折、数字だけを信じてはならぬ」


 その名が出た瞬間、畳が一段重くなる。誰かが小さく喉を鳴らした。


「勅許はどうする」――座の端、寺社伝奏筋に通じた者が、吐くように言う。

「将軍家の御容体も、日ごと……」――別の者が、言葉を飲む。


 正睦は扇骨を指先で一度だけなぞった。


 ――米国との通商条約は避けがたい。正弘が敷いた「和親を足場に通商へ」という道は正しい。だが、下田の米国領事ハリスは一歩先を急がせる。「日ノ本に自らを護る力はない」と、保護の名で首に縄を掛ける。領事裁判権、関税の自立を奪う条項……呑めば幕威は剥げ、拒めば黒い艦影が品川へ現れる。


 しかも将軍家定は病み、後継は未定。一橋ひとつばし慶喜よしのぶを推す一橋派か、徳川とくがわ慶福よしとみを推す南紀派かで、座の空気は毎度裂ける。朝廷は勅許を求め、これを粗略にすれば尊攘の火が上がる。


 外を急げば内が崩れ、内を立て直そうと遅らせれば外が押し寄せる――綱は日ごと細くなる。


 (もし真なら、ハリスの前提が崩れる。「日ノ本は無力」――そこを折れる)


 尚志が、もう一つ帳面を開いた。蘭語の余白に和の注が入る。筆跡は一定だ。


「昨年末、勝の紹介で坂本・武市と申す土佐藩士二名が、蕃書調所に異国の制度の筋を聞きに来ております。図面と教本の照らし合わせと見ます――少なくとも、独り善がりの夢ではない」


 忠固が短く吐いた。


「仮に真でもだ。旗は誰が持つ。見せる旗が土佐なら、幕威はどこへ行く」


 その一言で、座の拍が止まる。何を見せるかではない。誰の名の下で見せるか――江戸城の合議は、いつもそこへ戻る。


 小休止を促す鐘がひとつ。幕僚たちは席を立ち、外縁で水と塩飴が配られる。




 襖の二つ向こう、南紀派の小座敷に忠固と安宅が寄った。声は低い。刃先は隠さない。


「参勤は服従の儀だ。陸路で汗を見せ、御公儀へ額を擦り寄せる。それを海路の高速上覧に変える――誰が主役か、一目で知れる」


 安宅が囁く。


「土佐の背後に外夷の影があるやもしれませぬ。露西亜ロシアか英国か。あれほど短期間に異形の高速船が出来る道理がない。一橋とも通じる。政変の兆し……」


 忠固は首を振った。


「影の名は今は問わぬ。問うべきは江戸湾だ。江戸の目鼻の先を外様の船が高速で走り回る。台場の砲口は誰に向く? 上覧の名で示威をやられてはたまらぬ」


 側近が砂時計を運ぶ手を誤り、畳に砂が少しこぼれた。忠固の扇が一度だけ畳を打つ。


「叩くべきものは叩く。しかし風が変わった時に足を取られては遅い……」


 半鐘。合議へ戻る合図。忠固は扇を畳み、座へ戻った。



 御用部屋に再び人が並ぶ。蘭式測程器と一緒に持ち込ませた机上の砂時計が、返された。白い筋が落ち始めた途端、皆の視線が言葉より先に前へ寄る。


 首座の正睦が扇子を一度だけ仰ぎ、軍艦掛の尚志に頷いた。


 尚志は静かに立ち、紙束を二つに分けた。


「土佐より、数字に加え、四つの申し出が届いております」


 座の背がわずかに前へ傾く。


「一つ、同型の双胴蒸気船を御公儀のために建造。費用三万両のうち、一万五千両は土佐が持つ」


 ざわ、と波が立つ。勘定方の者が思わず目を丸くする。火の車の勘定が、ひと呼吸だけ息を吹き返す。


「二つ、上覧の折は兵具を載せず、鉄砲大筒は積まず――示威の意図なく。三つ、海路参勤の試行――浦賀までの海路を用い、陸路の負担を軽減。四つ、計測と見分は勝・カッテンディーケ立会い。手順と記録は御公儀へ納め、以後の海防編成に資する」


 財政と海防の席から、抑え切れぬ声が漏れた。


「三万両の舟を半値で……!」

「蘭国への発注も伝習所の費用もかさんでおる――まさに渡りに舟」


 慌てて安宅が扇を立てる。制度の言葉が、今度はさらに硬い。


「費用折半とは耳ざわりは良い。だが、海路参勤を一度許せば、恒例と相成るは時の問題。薩摩や長州にも示しが立たず、宿場の仕組みは崩れる。これは支配の骨を揺るがす。鉄砲・大筒は積まずと申しても、見せること自体が武ぞ」


 尚志は、言葉を選ばずに押し返した。冷たいほどの実務。


「土佐は、陸路参勤の入用を省き、自前の舟で道中を運び、先々の出費を軽くする算段にございましょう。ゆえにまず、御用舟を一艘献じて“道の口”を開く――手筋としては見事にございます。……加えて申し上げる。上覧の“旗”は御公儀にございます。旗をお間違えなきよう」


 御用部屋に見えない楔が打たれる。忠固は黙したまま、袖の内で拳を握った。


 下座の勘定筋が、堪えきれずに囁いた。

「一万五千両を土佐が持つとなれば……この申し出、無碍むげには出来ますまい。御台所おだいどころも火の車にて……」


 別の者が、喉を鳴らして言葉を継いだ。旗本筋の耳だ。

「金だけではござらぬ。土佐守の室は、薩摩の姫――島津の妹と聞く。内に引き入れねば、外で結ばれた折が厄介にござる」


 老中首座・堀田正睦は、扇子を静かに置いた。阿部正弘の笑いが、もう一度胸に浮かぶ。


(論は論として、旗は旗として握る)


 合議の声が一度、底へ落ちた。畳の下で大地が呼吸をしている。


(器が真であれば――交渉の主導権を取り戻せる。ハリスの前提、すなわち「日ノ本は無力」が崩れる。条約の条項を引き上げ、時を稼ぐ“神風”となるやもしれぬ)


(偽であれば――土佐を切る。外様の示威を許した罪、江戸湾の騒擾、海防の不手際――すべてを容堂へ押し付ける。……いや、旗を握っておれば、器はいつでも取り上げ得る)


 正睦は扇子を折り、膝の上で扇骨を軽く鳴らした。音は高くない。だが、座の隅まで届く。


(神風は、待つものではない。見せて起こすものだ)


 顔を上げる。目の奥に刃が一本、静かに立つ。


「――老中首座として決す」


 座が息を止める。


「上覧、即許。浦賀より品川沖へ入る道筋を整えよ。勝には沙汰を飛ばせ。測距、標柱、見分の手順、一刻の遅れもならぬ」


 忠固の扇が、わずかに震える。


 正睦は言葉を切らずに続けた。


「そして――ハリスを呼べ」


 誰かが息を呑む。尚志が一歩、前へ出る。


「下田のハリスを、上覧へ?」

「然り。土佐の舟が真なら、御公儀の旗のもとで諸外国へ見せつける。偽なら、その場で土佐を縛る。毒を食らわば皿までじゃ」


 正睦は最後に、言葉をもう一つ置いた。


「旗は御公儀。器は土佐。拍は江戸が打つ。見せて交渉を起こす。――これが御政道じゃ」


 御用部屋の外、半鐘が二度鳴った。


 合議は次の段取りへ雪崩れ込む。品川台場へ測距杭と標柱の手配。砂時計と記録台。蕃書調所へ通詞の差配。勝へは飛脚を二重につなぎ、長崎には蘭館へ通報。品川御台場の兵は「兵具を載せざる上覧」の触れを受け、砲口の向きと蓋の手順を改める。


 そして――別の机で、薄い紙が一枚、押さえられた。

 「下田御領事ハリス、至急江戸城へ召し出し候」


 尚志が文言を確かめ、朱印の位置を指先で示す。筆が走り、封がされる。

 御用部屋坊主が書付を抱え、廊下へ小走りに出た。


 正睦は膝の上で両手を合わせ、短く息を吐いた。


(土佐守、受けて立つ。旗は、こちらが掲げる)


 障子の外で蝉が一段高く鳴く。砂は尽き、返され、また落ちる。

 見せる海防へ――江戸が動き始めた。

挿絵(By みてみん)


※容堂と阿部正弘との「馬鹿大名の相手にてお気楽なことと存ずる。ただ、土佐のみは今後少々御厄介になりたい」のやり取りは史実です。この時、容堂は藩主になりたての24歳。幕府の事実上のトップに対しても臆しない、破天荒な性格を示す逸話の一つですが、同時に容堂は「阿部殿は幕府第一の人物」と称え、深く敬服していたとも伝わります。


参考文献:『安政武鑑』、『御用部屋日記』、『堀田正睦日記』、『日本開国史』、『日本滞在記』

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