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第一章 登場人物紹介 其之参

中浜なかはま 万次郎まんじろう(30歳)】★実在

◎出生:文政十年(1827年)


◎出自

 土佐国幡多郡中ノ浜村(現・高知県土佐清水市中浜)漁家の三男。天保十二年(1841年)に遭難・漂流して鳥島へ漂着し、米捕鯨船に救助されて渡米。ニューイングランドで英語・数学・測量・航海術を学び、「ジョン・マン(John Mung)」の名を用いる。

 嘉永四年(1851年)に琉球経由で帰国後、幕府に出仕し、通訳・英語教授・航海術指導に従事。


◎略歴

 安政三年(1856年)11月、江戸で坂本竜馬・武市半平太と面会。米合衆国の統治制度を具体的に解説し、武市の攘夷思想の軟化に影響を与える。二人を蕃書調所へ繋ぎ、開明派の学者層から学べる導線をつくる。

 竜馬が示した鳴龍丸図面を“米国にも例を見ぬ”水準と評価し、土佐に力添えする意志を表明。

 安政四年(1857年)9月、土佐藩校「文武館」教授(英語・航海術)および新世社の通詞に就任し、江戸・長崎との交易、技術連携の要となる。


◎史実との相違

 帰国後は江戸で幕府の通詞・英語教師として活動しており、安政期に土佐藩校の正式教授や藩直営の商務組織の通詞を兼ねた事実はない。なお、江戸から吉田東洋へ世界地図を送った件は史実に基づく。



河田かわだ 小龍しょうりょう(33歳)】★実在

◎出生:文政七年(1824年)


◎出自

 土佐藩・下士、土生家の長男。祖父の生家河田家を継ぐ。幼少より南画家・島本蘭渓に学び、弘化元年(1844年)、吉田東洋に従い京に遊学、京狩野家九代目の狩野かのう永岳えいがくに師事。学問面では岡本おかもと寧浦ねいほ奥宮おくみや慥斎ぞうさいらに儒学を学ぶ。帰朝した中浜万次郎に聴き取りを行い、絵入り記録『漂巽ひょうそん紀畧きりゃく』を著した。


◎略歴

 城下の築屋敷に住し、近藤長次郎の案内で万象と会し、「世さ来い」の総仕立てを助言。鳴子(三色弦)の意匠検分、法被の地を藍・背に「柏(山内家)+方喰(長宗我部)」で散らす図案、青海波の採用、山車(鳴龍丸意匠)の外装・行列設計、木版摺り触れの制作まで“目と耳を揃える祭”として具体化した。

 安政四年九月、土佐藩校「文武館」教授(絵画)に任命。


◎史実との相違

 土佐を代表する画人・知識人で、万次郎の聴取記録『漂巽紀畧』や交友は史実だが、長次郎以外の少林塾の面々との交流は記録にない。また、土佐藩校の講師となった史実はなく、当時の藩校で美術を正式科目として教える運用も創作。



樋口ひぐち 真吉しんきち(42歳)】★実在

◎出生:文化十二年(1815年)


◎出自

 土佐国幡多郡中村(現・高知県四万十市)の郷士・樋口家の長男。大石神影流の剣客(皆伝免許)。江戸や長崎で西洋砲術を学び、とくに高島秋帆・佐久間象山の系統に通じる。帰郷後は中村で道場を開き、門弟は千人に及ぶ。


◎略歴

 第一章では名前のみの登場。土佐西部の尊王派の指導者的存在であったが、急進的な攘夷には慎重であった。安政三年(1856年)、交誼があった坂本竜馬を通じて、後藤良輔と乾退助の要請に応じ、藩校での教授を承諾。

安政四年(1857年)9月、土佐藩校・文武館の教授(剣術指南役)に任命。


◎史実との相違

 身長180cm超の巨躯で大石神影流の達人と伝わる。郷里での指導後、幡多郡・香美郡、さらに高知城下町奉行配下で下役を歴任したとされるが、藩校教授就任は創作。坂本龍馬が16歳で四万十川改修に関わった頃、中村で唯一の剣術道場主として稽古を勧め、諸藩情勢や海外事情にも目を開かせたとの伝聞もある。



たに 申太郎しんたろうたに 干城たてき(20歳)】★実在

◎出生:天保八年(1837年)


◎出自

 土佐南学の儒学者・谷秦山の後裔に当たる土佐藩上士・谷家の四男。藩校では儒学・朱子学・陽明学に秀で、「右に出る者はない」と称された。


◎作中の略歴

 安政四年(1857年)8月、「世さ来い」に参加。浦戸での鳴龍丸披見・文武講筵に立ち会い、外輪と螺旋の差、双胴の据わりの良さなど――“数で動き、器で応える”実学に衝撃を受ける。南学の家に生まれた学の誇りを保ちつつ、「学を器に通し、器を世に通す橋となる」決意を固める。


◎史実との相違

 史実では安政六年(1859年)に江戸へ出て朱子学・儒学・軍学を学び、帰郷後に藩校・致道館で史学助教授となる。武市半平太の影響で尊王攘夷に傾倒し、吉田東洋と激しく対立する。



中岡なかおか 慎太郎しんたろう(19歳)】★実在

◎出生:天保九年(1838年)


◎出自

 土佐国安芸郡北川郷(現・高知県安芸郡北川村)の大庄屋(郷士)・中岡家の長男。庄屋見習いとして、度重なる洪水・凶作の現場に立つ。安政二年(1855年)に田野学館で武市半平太と出会い、尊王攘夷の影響を受ける。


◎略歴

 凶年に自らの土地を担保に米を買い集め、官倉開放を直訴するなど郷の救荒に奔走し、世の不条理に憤りを深める。

 安政四年(1857年)、「世さ来い」に参加。観光丸の外輪に対して鳴龍丸の螺旋が“掴む筋”で前進する理に胸を打たれる。御前仕合の公正さ、鳴子札の仕掛け、万象(細川万)の実演を目にして、「同じ拍で歩くための形と仕組み」の必要を悟り、攘夷の熱に“理と器”を重ねる転機となった。


◎史実との相違

 北川郷の庄屋見習いとして救荒に奔走しながらも、武市半平太の影響で尊王攘夷運動に傾倒し始めていた時期。文久元年(1861年)に土佐勤王党へ参加、のちに吉田東洋の尊攘派弾圧により脱藩することとなる。



佐野屋さのや 萬助まんすけ(27歳)】★実在

◎出生:文政十三年(1830年)

 

◎出自

 高知城下・浦戸筋の材木卸「佐野屋」の若主人。十九歳で叔父より暖簾を継ぐ。浦戸の川岸に材木置場と筏場を持ち、安芸・仁淀方面の山林から杉・檜・樟を筏流しで集め、浦戸で荷揚げして大坂木場・江戸方面へ移出する。大坂では幕府御用材木商・信濃屋和三郎と親交を結び、同人を伴って土佐へ戻り、材木町の諸木屋と組んで土佐の山地で製材を行い、大坂や山陽方面への移出を拡大した。


◎略歴

 安政元年(1854年)、「寅の大変」で川沿いの材木庫が津波に流失し、多額の借財を抱えて商いが逼迫。以後も暖簾は守るが、重い材と滞る資金繰りに苦しむ。

 安政四年(1857年)八月の「世さ来い祭り」最終日、商人座桟敷から山車行列と総踊り、札換所の運用を目の当たりにし、太鼓の“叩き”と鳴龍丸の螺旋が水の“掴む筋”で進む違いを商いに重ねて覚醒。三箱(受け・集計・寄進)で鳴子札を循環させる仕掛けに深く感心し、「銭を場に留めて明日へ渡す」勘定の理に確信を得る。

 会所掲示「出島向け見本取立」に触発され、材木単品の勝負から樟脳・和紙・茶・生糸等との混載・回転重視へと商いの舵を切る決意を固める。


◎史実との相違

 安政六年(1860年)に長崎貿易の気運が高まると、外国人と接触して樟脳・茶・生糸などの交易を図り、土佐藩庁への納入目的でライフル銃の輸入にも関与したと伝わる。さらに、政変で都落ちした三条実美ら尊王攘夷派公卿が太宰府に集うと、諸国の志士と交流し資金援助を行った。



朝倉あさくら 惣兵衛そうべえ(18歳)】★創作

◎出生:文政十年(1827年)


◎出自

 土佐藩・下士、朝倉家の次男。元服して日が浅く、兄・藤兵衛の手伝いとして郷村の行政補佐(年貢取纏めの補助、番所伝令、海防見回りの雑務)に従事。温和で几帳面、手際よく立ち働く性分。

 

◎略歴

 安政元年(1854年)、岸本沖の異国船漂着の報を受けて、兄・藤兵衛と共に検分へ向かう。

 安政三年(1856年)、少林塾に入って間もない新参として、鳴龍丸建造・運用の裏方を学ぶ。甲板の見張り、投索・綱取り、測桿そくかん係の手元など実務で腕を上げ、場の拍に合わせて動く勘が育つ。

 坂本竜馬が朝倉家に入り浸っていた折に深く交友し、二人目の兄のように慕っている。近藤長次郎とは同年輩で気が合い、商い勘定や段取りの所作を学ぶよき友となる。

 安政四年(1857年)8月、「世さ来い」では見学柵の警固補助・札換所の伝令・甲板当直を務め、裏方で滞りを出さない働きぶりを見せる。

 作中に記載はないが、安政四年(1857年)9月、少林塾門下の取り立てに際し、新世社・江戸詰探索方手習(竜馬の補佐)に任命される。



久礼田くれだ 久光ひさみつ(55歳)】★創作

◎出生:享和二年(1802年)

 

◎出自

 長岡郡久礼田(現・南国市植野)の土佐打刃物鍛冶衆の棟梁。天正十八年(1590年)の小田原征伐に際し、長宗我部元親が土佐へ伴った相州鍛冶の系譜に連なる家。


◎略歴

 万象の要請に応じ、浦ノ内の舟渠で鳴龍丸建造に参画。スクリューの鋳造及び接合鍛造を担当する。

 万象を「炉の口に立ち火を鎮める鍛冶の女神」として崇め、幼少期から容貌が変わらぬ“不老”も神性として受け入れている。

 作中に記載はないが、安政四年(1857年)九月、鳴龍丸建造の功により郷士に取り立てられ、海陣奉行所・舟手鍛冶方総代に任命。この折、居住地名にちなみ「久礼田」を姓とする。


◎史実との相違

 『長宗我部地検帳』には長岡郡周辺に三百九十九軒の鍛冶屋の存在が記録されるが、個々の鍛冶師の動向は史料乏しく未詳。



吉光よしみつ 左近さこん(26歳)】★創作

◎出生:天保元年(1831年)


◎出自

 久礼田の土佐打刃物鍛冶衆の若頭。徳治元年(1306年)に大和国から土佐へ移住した刀鍛冶・五郎左衛門吉光の流れを汲む末裔。


◎略歴

 万象の要請に応じ、浦ノ内の舟渠で鳴龍丸建造に参画。スクリューの刃を受ける中央胴ハブ及び各種金属部品の鍛造を担当する。

 作中に記載はないが、安政四年(1857年)9月、鳴龍丸建造の功績により、郷士に取り立てられ、海陣奉行所・舟手鍛冶方総代手付(久光の補佐)に任命。この折、祖名にちなみ「吉光」を姓とする。


◎史実との相違

 祖である土佐国最古の刀工・吉光作の短刀が九州国立博物館に所蔵されるが、後裔の系譜について確実な一次史料は乏しい。


 以上が、安政四年八月の土佐に息づく二十七名です。


 朝倉藤兵衛独りでは、歴史は動かせない。数多の生き方が折り重なり、互いの呼吸が合った瞬間、拍子ひとつが潮目を変える。これは、上と下、海と陸、古と新をまたぐ“橋”の物語です。


 名は肩書にとどまらず、役は旗であり、器であり、拍である――“世さ来い”で揃えた拍は、いま紙と印判へ、法と習いへと移ろいはじめました。

 鳴龍丸は海の道を、文武館は学の道を、新世社は利の道をひらき、海陣奉行所の笛は外へ、城下の算盤は内へ響く。


 次章より舞台は土佐を離れ、江戸と長崎へ。

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