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第一章 登場人物紹介 其之弐

岩崎いわさき 弥太郎(やたろう(22歳)】★実在

◎出生:天保六年(1835年)


◎出自

 土佐国安芸郡井ノ口村(現・高知県安芸市)の地下じげ浪人・岩崎家の長男。祖先は郷士であったが、代を下るうちに家運が傾き、曾祖父の代で郷士株を売却して地下浪人となった。幼少より近隣の私塾で読み書き・算盤を叩き込まれ、行商の実務や相場読みを体で覚える。安政元年(1854年)、19歳で江戸へ出て、昌平坂学問所系の私塾で学ぶ。


◎略歴

 上昇志向が強く、帳合いの速さ、粗利より回転を重んじて利を積む商法、役人相手にも理で押す胆力を持つ。

 安政二年(1855年)、喧嘩による父の投獄に抗議して役所の壁に「役人は賄賂で動き、裁きは好き嫌いで決まる」と落書し、自身も投獄。七か月後に釈放されるも、名字帯刀を剥奪され在所追放処分となり、土佐郡神田村で漢学塾を開いて近藤長次郎を門下に迎える。

 安政三年(1856年)、後藤良輔・乾退助の人材拾いにより見出され、鏡川筋の物流改善案を献じて少林塾に入門。

 安政四年(1857年)九月、新世社の長崎会所役に任命。


◎史実との相違

 史実ではこの時期、在郷で私塾を営み、少林塾入門は安政五年(1858年)。安政六年(1859年)には東洋の命で土佐藩の商務・長崎出張に関わるが、公費の遊興支出などの不始末で処分を受けるなど、若さゆえの失態が多い。



近藤こんどう 長次郎ちょうじろう(19歳)】★実在

◎出生:天保九年(1838年)


◎出自

 高知城下の饅頭商・大里屋おおりやの長男。 幼少より読み書き・算盤に長け、丁寧な口調で人を動かす“商いの声音”を身につける。家業手伝いのかたわら町年寄・商人座に出入りし、勘定・仕切り・口利きの勘どころを早くから覚える。


◎略歴

 安政三年(1856年)、岩崎弥太郎と共に少林塾門下となる。「世さ来い」にて河田小龍の助言を得て、寄進枠の設計、「鳴子札」流通と新物市の段取りを主導。商人座・町年寄・職人衆を和で束ねる表の顔として立ち回る。

 安政四年(1857年)九月、新世社の長崎会所役に任命。


◎史実との相違

 町人のため、この頃は名字がなく「饅頭屋長次郎」と呼ばれていた。河田小龍門下で学問修行に励みつつ、後の藩外活動や海外学習、軍事・航海技術習得の基礎を築いていた。少林塾に入塾したという確実な記録はない。



山内やまのうち 容堂ようどう(30歳)】★実在

◎出生:文政十年(1827年)


◎出自

 名は豊信とよしげ。土佐藩主・山内家の分家である「南邸山内家」の長男。嘉永二年(1849年)、先代藩主の急死により、嫡子が幼年であったことから本家の家督を継ぎ、第十五代藩主となる。嘉永六年(1853年)、吉田東洋を参政に抜擢して藩政改革に着手。人事刷新、財政再建、兵制・海防の整備を図る。幼少より漢詩・和歌・書画を好み、豪放磊落で酒を嗜む逸話が多い


◎略歴

 保守派の反発を受けて東洋をいったん罷免したが、師として敬慕し、改良蒸汽船の建造を託す。

 安政大地震の際、木材転売の献策を通じて、藤兵衛の才覚を認める。鳴龍丸建造を三家老に秘匿として才覚を試す裏で、幕僚への工作により建造公認を取り付けるなど、政治工作にも優れる。

 安政四年(1857年)、「鳴龍丸」披見と「世さ来い祭り」を後援し、藩内の上・郷・下を束ねる旗印とする。

 同年九月に少林塾の人材を登用して藩体制を一新し、江戸上覧・人材登用・海防整備を加速させる。


◎史実との相違

「容堂」は後年の号。安政四年(1857年)4月には増上寺火番役を命ぜられており、作中の“世さ来い”時期(同年8月)は江戸在府中と考えられる。藩体制の大規模刷新は、史実では保守派への配慮もあって思うように進まず、東洋の参政復帰も安政五年(1858年)。



小南こみなみ 五郎右衛門ごろうえもん(45歳)】★実在

◎出生:文化九年(1812年)


◎出自

 土佐藩・上士、小南家の長男。若くして小浜藩の儒学者・山口やまぐち管山かんざんに学んだ尊王家として知られた。嘉永六年(1853年)、容堂により側用役そばようやくに抜擢される。


◎略歴

 謹直で忠誠篤い人物として容堂の信任厚く、吉田東洋と対照的な気質をもつ改革の双翼の一方を担う。

 東洋と三家老との「和解の座」の取りまとめ役・場の整え役として、場を荒立てずに合意形成へ導く“橋渡し”の役回りを果たす。

 “世さ来い”準備〜本番にかけては、藩主側近として実務の段取り・警固や儀礼線の整理に立ち回る。


◎史実との相違

 史実でも上層近習・取次を務めたが、安政期の細部履歴や関与案件は一次史料が乏しく不詳な点が多い。尊王思想が強く、武市半平太の土佐勤皇党結成に際し、筆頭家老・深尾鼎らとともに加盟。のちの勤皇党弾圧局面で東洋と対立し、大目付を罷免された。



深尾ふかお かなえ 重先しげもと(30歳)】★実在

◎出生:文政十年(1827年)


◎出自

 山内一豊の代より筆頭家老を輩出した深尾家の分家の長男。10代佐川領主。嘉永六年(1853年)、主家へ養子入りして家督を継ぐ。安政二年(1855年)、奉行職に就任。


◎略歴

 安政三年(1856年)に筆頭家老となる。家老列の最年少ながら、実務の最終承認者として動く若手重臣。「場を整え、理を短く、手を早く」を旨とする。容堂の信任厚く、成果本位の現実主義だが、実務を先行させる東洋とは衝突も多かった。

 小南五郎右衛門の整えた席に臨み、三家老の一人として東洋との軋轢を収める。鳴龍丸の披見と「世さ来い」構想については、“荒立てず検証する”方針へ転じ、事実上の黙許から慎重な容認へと導いた。

 安政四年(1857年)九月、政務総宰(内政・財務の最高責任者)に就任。後藤良輔を藩史最年少の幡多奉行に推挙したのは、実は養父・東洋ではなく、以前より実務能力の高さを見抜いていた鼎であった。


◎史実との相違

 史実では、安政三年(1856年)に筆頭家老となった記録はなく、万延元年(1860年)に安政の大獄に関連して容堂と連座で蟄居、復帰は文久二年(1862年)。武市半平太の土佐勤皇党結成に際して、『土佐勤王党同志姓名附』に家老格筆頭として最上位に記名されており、東洋との対立も続いていたと推測される。



山内やまのうち 太郎左衛門たろうざえもん 主馬かずま伊賀いが 氏理うじさと(40歳)】★実在

◎出生:文化十四年(1817年)


◎出自

山内一豊の姉が嫁いだ伊賀家が称した宿毛山内家の長男。11代宿毛領主。安政三年(1856年)、「寅の大変」からの復旧で体調を崩した父の隠居により、家督および家老職を相続する。


◎作中の略歴

 淡輪治郎兵衛との会談により、祖名への責任を胸に据え、少林塾を訪問。吉田東洋が書き改めた漢詩「大震行」に触れ、災厄を“悔いの詩”ではなく“務めの誓紙”として読み直す視座に共鳴。ここで東洋の「上の理と下の熱を橋で束ねる」方針に深く同意し、確執の解消に応じるとともに、以後の復帰を後ろ盾として支える意思を明言。三家老の一角として、吉田東洋との “和解の座”を整える側へ回る。

 安政四年(1857年)九月、海防総督(海陣奉行所・舟手奉行・浦奉行を統括する海防の最高責任者)に就任。淡輪治郎兵衛の能力を高く評価し、海陣奉行に推挙した。


◎史実との相違

 宿毛山内家(伊賀氏)の当主として家老職にあったこと、代替わりの時期は概ね史実相当。ただし「海防総督」「海陣奉行所」などの官職名は創作。

 


五藤ごとう 主計かずえ 正保まさやす(49歳)】★実在

◎出生:文化五年(1808年)


◎出自

 山内一豊の代より譜代重臣であった五藤家の長男。第10代安芸領主。文政十二年(1829年)、内原野に陶工を招いて窯業振興を図った。


◎略歴

 殖産の理に明るく、利と数を束ねて物事を運ぶ実務家。拙速に断じない三家老の最年長として、東洋との「和解の座」に同席。終始おさえた所作で場を乱さず、要所だけを突く質問と視線で座を締める。

 安政四年(1857年)九月、殖産総監を拝し、産物見本の取りまとめと流通の幹線づくりを統括。あわせて藩直営の商務機関「新世社」の頭取となり、江戸・長崎の会所や通詞筋と連携して輸送・販路を束ねる要となる。


◎史実との相違

 内原野焼の草創期に関与した事績は確認できるが、安政四年(1857年)当時は家老職を弟の五藤内蔵助正身に譲っており、隠居の身。



かつ 麟太郎りんたろうかつ 海舟かいしゅう(34歳)】★実在

◎出生:文政六年(1823年)


◎出自

 江戸の下級幕臣・勝家の長男。父は勝小吉(自伝『夢酔独言』で知られる)。江川太郎左衛門英敏の海防講義に触れて海軍術に傾倒し、洋式砲術・測量・航海術・蘭語を実地で学ぶ。


◎略歴

 安政三年(1856年)9月、長崎海軍伝習所の講師として淡輪治郎兵衛・本木昌造を指導。

 安政四年(1857年)8月、観光丸で来土して浦戸湾に投錨し、「鳴龍丸」の走試(平均14ノット超)と艦上砲試(長距離射撃での高い命中率)を見分。双胴船体と螺旋推進の優位を評価し、山内容堂に江戸上覧を進言する。

 土佐側の実測記録を蘭海軍士官カッテンディーケとともに整理し、幕府への橋渡し役を担う。


◎史実との相違

 安政四年(1857年)8月の観光丸浦戸寄港は創作。実際には、江戸の軍艦教授所開設に先立ち、第一次長崎海軍伝習生徒を江戸へ送る練習航海を安政四年(1857年)3月に実施している。



【ウィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ(41歳)】★実在

◎出生:1816年


◎出自

 オランダ貴族家系の海軍将校。ハーグの名家カッテンディーケ家の出で、父ヤン・ウィレム・ファン・カッテンディーケは1841年〜1843年にオランダの外務大臣を務めた。若くして海軍に入り各地に勤務。長崎海軍伝習所の第2代教官団指揮官として来日し、日本側への蒸気航海術・操船教育を統率、観光丸の実地訓練にも関わった。


◎略歴

 安政三年(1856年)9月、勝麟太郎と共に長崎海軍伝習所の講師として淡輪治郎兵衛・本木昌造を指導。その後のオランダ商館での蒸気機関購入交渉では、密約を否定する商館長クルティウスに対し、鳴龍丸の試験・計測での特許検討を後押しする。

 安政四年(1857年)8月、観光丸で勝麟太郎らと来土し、鳴龍丸の実見・検分に臨む。東洋の島国が西欧に比肩しうる艦船性能を短期間で実現した事実に強い衝撃を受け、双胴・螺旋羽根の「特許オクトロイ」付議の後押しを約す。


◎史実との相違

 来日及び長崎海軍伝習所の教官就任は、作中より1年遅い安政四年(1857年)。同年8月の日蘭追加条約・付議協定について、草案からの治外法権条項の削除や「土佐浦戸」追加への関与が示唆されるが、史実では貿易の範囲緩和(出島限定→函館を追加等)が主で、浦戸開港や治外法権撤回は含まれない。



【ヤン・ドンケル・クルティウス(44歳)】★実在

◎出生:1813年


◎出自

 オランダ東部ヘルダーラント州アルンヘム出身のオランダ王国の外交官・法曹系官僚。国王全権委員として日本担当の最高位実務者を務めた。嘉永5年(1852年)に来日し、長崎の第168代出島オランダ商館長を兼ねる立場で対日交渉の前線に立った。


◎略歴

 法学に裏打ちされた行政・外交官僚。蒸気機関購入や鳴龍丸の検証に絡む交渉で、当初は密約に慎重な立場を取りつつ、実測・記録の説得力を前に特許付議の後押しへ転じる。


◎史実との相違

 史実では、安政二年(1856年)12月に日蘭和親条約を締結、続いて安政四年(1857年)8月に日蘭追加条約を調印し、長崎・函館での貿易を認めさせた。

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