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第一章 登場人物紹介 其之壱

 ここでは、物語内の安政四年(1857年)、第一章終了時点での登場人物の略歴を紹介します。史実との相違点についても解説。年齢については数えではなく満年齢で記載しています。


朝倉あさくら 藤兵衛とうべえ(24歳)】★創作

◎出生:天保四年(1833年)


◎出自

 本作主人公。土佐藩・下士、朝倉家の長男。現在の高知市朝倉地区が屋敷地の由来。家屋敷は小規模ながら庭園と小屋敷あり。土佐藩における「地方郷士・下士」の典型例で、他家と比べると家格は低め。主に郷村の行政補佐や治安維持を担う。年貢の取りまとめや、村民の動員指揮、海防に関わる見回り、村の警備、港湾管理、近隣で一揆や乱闘があった場合の初動対応等々。


◎家族構成

 父・清兵衛、母・きぬ、長男・藤兵衛、次男・惣兵衛。


◎略歴

 安政元年(1854年)11月5日、安政南海地震(寅の大変)の直後に桂浜で発生した津波に呑まれ、異界オラゾへ転移。オラゾでの5年を経て、現実世界では1週間の経過として11月12日帰還。

 オラゾで現代から転移してきた高校生、楽助たち(主に貴彦)から学び、高校2年生程度の現代知識を有す。歴史的な重大事件についてもある程度理解している。

 様々な種族と交流したことで、異文化理解やコミュニケーション能力に長ける。鳥人ニアール族、竜人クネード族から独自の武技を習い、また異世界生物への対処などで実戦経験を積んでおり、「氣有理けあり流」と称す我流剣術・武技の腕前は師範レベル。千年近い寿命を持つイオネム族の賢者からは、政経学・地政学・心理学等様々な学問を学ぶ。

 吉田東洋の少林塾開設に合わせて入塾し、海と政をつなぐ「鞘」として立つ。鳴龍丸の実務と「場の先」を取る采配で土佐を動かす。

 安政四年(1857年)9月、参政付仕置添役に任命される。


◎史実との相違

 「参政付仕置添役」は架空の役職。



吉田よしだ 東洋とうよう(41歳)】★実在


◎出生:文化13年(1816年)


◎出自

 長宗我部家の重臣でありながら、山内家に迎え入れられた土佐藩・上士、吉田家の四男。庶兄の早世によって嗣子となる。天保十三年(1842年)、13代藩主・山内豊熈の進める藩政改革に参与し、飢饉対策、人事、法令改正、海防意見書の献策など幅広く藩政に関与していた。


◎略歴

 嘉永六年(1853年)、15代藩主・山内容堂によって参政に抜擢され藩政改革を主導。性急に改革を進めた結果、保守派の反発を招き、安政三年(1855年)の江戸藩邸での旗本殴打事件を契機に罷免され、現在の高知市長浜での隠居生活を余儀なくされた。

 長浜にて私塾「少林塾」を開き、藤兵衛ら開明派の人材を教授し、自らも影響を受けながら人間的にも成長し、保守派の三家老と和解。

 安政四年(1857年)9月、「鳴龍丸」と「世さ来い祭り」の功績をもって、参政として藩政に復帰する。


◎史実との相違

 史実の東洋は開明専断的な改革者として評価されつつ、強い推進力ゆえの反発も招いた。参政復帰は安政五年(1858年)1月で、復帰理由も藩内政局の転換・容堂の判断による。実際は保守派上層部との対立が長く尾を引き、文久二年(1862年)の東洋暗殺へと緊張は高まっていく。



淡輪たんなわ 治郎兵衛じろべえ(24歳)】★創作


◎出生:天保四年(1833年)


◎出自

 土佐藩・郷士、宇佐浦奉行・淡輪家の長男。土佐藩初期の総浦奉行・淡輪四郎兵衛の子孫。四郎兵衛の名を継ぐ八代目として、幼少の頃より藩校に通い、兵法・経世の学を修めながら、浦戸の実務を叩き込まれてきた。


◎略歴

 次期当主として実務を学ぶため、規模の大きい浦戸番所へ出役し、若くして奉行補佐に近い職を任されていた。清国の難破船から漢訳の海防書『海国図志』を手に入れ、海防に通じた開明派の東洋に託すべく少林塾の門を叩く。

 幼少より浦方の実務に従事した経験から、舟方の実技や潮見の能力に秀で、模型蒸汽船の短所を見抜いて、改善点である「双胴」と「螺旋羽根」を提案。鳴龍丸造船のきっかけとなった。長崎海軍伝習所では西洋船の操船技術を習得。

 武技は不得手だが、理性的で責任感や誇りは人一倍強い。


◎史実との相違

 初代・淡輪四郎兵衛および、その著書と推測される『淡輪記』以外は創作。

また、治郎兵衛の就任した「海陣奉行所」は架空の名称。史実では安政四年に山内容堂が藩内の海防部署を定めたと史料に記述があるが、正式な名称は不明。



万象ばんしょう細川ほそかわ よろず(61歳)】★創作


◎出生:寛政八年(1796年)


◎出自

 一見、20歳前後の女性だが、数々の科学機械を製作し、「からくり半蔵」の名で親しまれた「細川半蔵頼直」の記憶を宿した絡繰(からくり)人形。

 オラゾを創世した霊体種アシラの骸体シェルであり、アシラの記憶を持つ半蔵が、「全てを象る者」と名付け創り出した最高傑作。滅びを恐れた半蔵が「不老不死の肉体」として自らの死と共に起動するよう設定されており、目覚めた後は「絡繰屋敷」(岡豊山東麓の谷筋・長岡郡上末松村)で60年間絡繰りを作り続けていた。


◎略歴

 半蔵の記憶は有しているが人格は引き継いでおらず、極端な世間知らず。現世の技術では完全な骸体を構築するに至らず、「不死不老」ではなく、老化速度が常人の十分の一程度。食事や水分補給は可能だが、ほぼ必要ない。

 蒸気船改良に必要な機械加工技術を持つ職人を探していた治郎兵衛・昌造・良輔に出会い、協力要請に応じる。

 以後、東洋から名付けられた「よろず」を名乗る。周囲からは「細川半蔵の孫娘」と認識されているが、五十年来付き合いのある久礼田鍛冶衆からは、鍛冶の女神・「御炉守おいどもり金屋子かなやご様」としてあがめられている。

 常人の十数倍の膂力と全知全能たるアシラの知識を有するため、本作においては藤兵衛以上のチートキャラであり、扱いが難しい。

 安政四年(1857年)9月、土佐藩校・文武館の教授(機巧学担当)、海陣奉行所・造舟御用掛(造船部門の責任者)に任命される。


◎史実との相違

 岡豊山に絡繰屋敷は実在せず、細川半蔵頼直の死因や『機巧図彙』の発刊年の矛盾については詳細不明。江戸時代、女性エンジニアの存在自体が史実にはない。



坂本さかもと 竜馬りょうま(21歳)】★実在

◎出生:天保六年(1836年)


◎出自

 土佐藩・白札郷士、坂本家の長男。坂本家は質屋、酒造、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、非常に裕福な家庭。


◎略歴

 清国船が現在の香南市香我美町岸本沖に漂着した際に、藤兵衛と出会う。江戸修行から帰国したばかりで、ペリー来航を肌で感じており、藤兵衛のオラゾでの「異なる文化や価値観との共生」の経験に強い共感を示し、意気投合。以降兄弟分のような関係に。

 正式に少林塾の門下になっていないが、頻繁に出入りしており、持ち前の社交性で鳴龍丸建造や半平太の懐柔にも貢献。

 安政三年(1856年)11月〜安政四年(1857年)5月の半平太との二度目の江戸修行で、開国の必要性と異文化への興味を改めて強める。

 安政四年(1857年)9月、新世社・江戸詰探索方に任命される。


◎史実との相違

 史実では藩の官職には就いておらず、武市半平太と共に二度目の江戸剣術修行中。東洋ら少林塾の面々との接点も希薄で、思想的にも尊王攘夷に傾いていた時期。通商・海運を軸に実務へ傾斜するのは文久年間(1861年~)以降。



いぬい 退助たいすけ板垣いたがき 退助たいすけ(20歳)】★実在

◎出生:天保八年(1837年)


◎出自

 馬廻格の土佐藩・上士、乾家の長男。幼名は、猪之助。乾家は、山内一豊が掛川藩主時代に召抱えられた、古参上士の家柄だが、質実剛健を家風としていたため、食事は素食で退助の好物は鮎の塩焼きと半熟卵であった。


◎略歴

 公平さと正義感を重んじ、身分に囚われず下士・郷士とも自然に打ち解ける性格。

 江戸勤番から帰藩後、吉田東洋が長浜で開いた少林塾に加わる。現場采配の才を買われて「場のまとめ役」を担う。後藤良輔と組んで人材拾い(岩崎弥太郎・近藤長次郎ら)の推挙に動く。

 安政四年(1857年)9月、軍制奉行(藩内の軍事制度を一元管理する責任者)に任命される。

◎史実との相違

 安政二年(1855年)に江戸勤番として出府し、安政三年(1856年)に帰藩。安政四年(1857年)は土佐在勤の若き上士として武芸に秀で、のちの軍制面での台頭につながる素地を固めつつある段階。

 「軍制奉行」は架空の役職。



後藤ごとう 良輔りょうすけ後藤ごとう 象二郎しょうじろう(19歳)】★実在

◎出生:天保九年(1838年)


◎出自

 馬廻格の土佐藩・上士、後藤家の長男。幼名、保弥太やすやた。11歳の時、江戸藩邸で父が病死し、義理の叔父・吉田東洋に養育される。


◎略歴

 性格は温和だが、闊達で責任感が強い実務家。政略・調整役の才覚を見せ、藤兵衛の社交的知識に興味を持つ。

 乾退助と組んで人材拾いを担うとともに、「世さ来い」では寄進・鳴子札の勘定設計や触書の実務を取り回し、上士・郷士・町人を和で束ねる調整力を示す。

 安政四年(1857年)9月、幡多奉行(藩内西部の幡多郡を統括する郡奉行)に任命される。藩史上最年少での奉行職であり、異例の抜擢となる。


◎史実との相違

 史実では幡多奉行就任は安政五年(1858年)。



本木もとき 昌造しょうぞう(33歳)】★実在

◎出生:文政7年(1824年)


◎出自

 長崎の平戸藩士・馬田家の四男。12歳で本木家に養子入りし通詞家を継ぐ道を歩む。若くして小通詞の末席を勤め、安政元年(1855年)にはロシア使節プチャーチンとの下田での条約交渉の通詞を担当。


◎略歴

 潜在的な技術横断者(通訳・印刷・機械・鋳造)であり、異分野の知を結びつけて応用する多才な人物。

 嘉永七年(1854年)、江戸の土佐藩邸にて、藩主山内容堂に蒸汽船の実働模型を披見したことを契機に、安政二年(1855年)に土佐に招かれる。容堂に改良蒸気船の助力を請われ、少林塾講師を兼ねて「鳴龍丸」建造に携わる。

 当初1年間の滞留予定であったが、鳴龍丸建造と少林塾の面々に関わるうちに、自分の知識と技術を生かせる居場所を土佐で見つける。

 安政四年(1857年)9月、土佐藩校・文武館の教授(蘭語・機巧学担当)、新世社の通詞に任命される。


◎史実との相違

 史実では「日本活版印刷の父」として名高い人物。土佐での蒸汽船模型披見後、安政二年(1855年)に長崎奉行所で活字判摺立所の取扱掛に任命され、和蘭書や蘭和辞典の印刷刊行に取り組んでおり、その後、土佐藩との関わりはない。



武市たけち 半平太はんぺいた(28歳)】★実在

◎出生:文政十二年(1829年)


◎出自:土佐藩・白札郷士、武市家の長男。幼少より学問と武術に励み、若くして小野一刀流の達人として名が立つ。叔父は国学者の鹿持雅澄。坂本龍馬とは遠縁にあたる。


◎略歴

 新町道場を経営し、指導の中で尊王攘夷派の指導者として郷士・下士の間で名声を高めていたが、竜馬・藤兵衛・万象の策により、自身の欠点を見つめなおす。異国への知見を深める為に、安政三年(1856年)11月から竜馬と共に江戸修行へ。

 江戸修行では鏡心明智流を極め、坂本竜馬とともに鍛錬・時勢見分を重ねる。また中浜万次郎ら開明派の幕府関係者と交流し、「まず攘害・和夷を優先すべし」と志が精緻化。

 帰郷後、安政四年(1857年)9月、土佐藩校・文武館の頭取(藩校の責任者)、教授(剣術指南役)に任命される。


◎史実との相違

 史実でも安政三年(1856年)に江戸へ出て、鏡心明智流に入門し、まもなく免許を得て桃井道場の塾頭となる。思想面ではこの頃なお尊王攘夷色が濃く、塾頭格として諸藩の剣客と幅広く交わっていた。


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