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第四十九話 世さ来い祭り ―門出の波―

 安政四年八月六日――世さ来い祭りの最終日の太鼓が、港町の眠気をひと打ちで払い落とした。通りの端から端まで、まだ朝の潮が冷やした空気が漂い、屋根の端を撫でては、のぼりの端をわずかに震わせる。鳴子の木口は露を吸い、人の手に渡ればすぐ乾いて、軽い音で鳴る仕度をしている。


 浦戸の桟橋から少し離れた商人座の桟敷さじきに、私は案内された。潮は満ちの余韻を胸のあたりで静かに揺らし、浜の露店からは餅と煮売りの湯気が、煤の匂いと混じって薄く立ち上がる。遠く、停泊を続ける観光丸の帆桁が、朝の光を受けて水面に影を落としていた。


 佐野屋さのや萬助まんすけ、齢二十七――十九歳の時に叔父から木材卸商を引き継いで八年。浦戸から船を出し大坂へも盛んに移出させ、手広く商売を行った。しかし「寅の大変」の夜、津波が川沿いの材木庫を根こそぎさらい、倉の土台に残ったのは、ひしゃげた継手と泥にまみれた栓穴の跡ばかりだった。


 借財はかさみ、帳面は朱で埋まる。暖簾は残ったが、商いの息は細く、何度となく店の看板を裏返す寸前までゆき、また引き返した。塩と泥が混じった重たい匂い。あの匂いが、夜更けに一度でも胸の底で立つと、眠りは浅瀬のようにすぐ底を見せた。


 桟敷の下、札換所の幕が早くも上がる。木の机の上に、薄い小判形の木札が山になっていた。使われた札は屋台から受け箱に戻され、寄進の一割を集計箱から寄進箱に一度だけ移す。寄進箱の底は二重になっていて、下段にその日の祭勘定が落ちる。


 ――拍の工夫で、銭が場を巡る。私は目の前の小さな循環の確かさに、心底舌を巻いた。


 遠くで太鼓が二つ、法螺が一つ鳴り、汽笛のような長い音が港の壁に当たって返った。山の端から朝の光が伸び、港町の影がいっせいに短くなる。


 鳴龍丸を模した山車が、通りの角から現れた。双胴の梁は太い檜、追掛大栓継おっかけおおせんつぎで渡してあり、渡りの中に黒漆の螺旋らせん意匠が据えられている。船尾を飾る刃は黒く、香炉から細い白がたつ。波頭を刷った幔幕まんまくが風にふくらみ、藍の地に柏と方喰かたばみの葉が交互に息をする。


 高座の藩主・容堂公が扇をひらりと開き、光を返して閉じる。そのただ一度の動きで、群衆の肩の線がぴたりと揃うのをわたしは見た。上士のかみしもも、郷士の紋付も、町人の薄羽織も、漁師の裸身も――拍において、背丈は同じ高さになる。太鼓が三つ、半鐘が一つ、汽笛が短く答える。山車は角を切り、港町の背骨をゆっくりと進み出した。


 いつの間にか、すぐ前の空地に踊りの輪が出来ていた。子らの鳴子が左右で交互に色を作り、先頭の合図で一斉に打つ。私の耳に、昨日から耳慣れた節が入ってくる。誰かが唄いだすと、輪の外からもすぐに声が重なった。


 町と山から はく寄せ合い

 かしわ方喰かたばみ 袖に咲く

 鳴子叩いて かじあわせ

 世さ来い 世さ来い 舟出の波へ


 鳴子の拍が地に落ち、土がわずかに震える。腰を落とし、腕はかいに、歩はもやいを解く型に。通り全体が舟になって、角を切る。青海波の法被には柏と方喰が散り、上の紋と下の紋が同じ布地の呼吸で揺れる。拍が通ると、人の背丈は等しくなる。裃の列も、褌の列も、同じ高さで声が揃う。私は思わず、帯に挟んだ札を指で弾いた。


 柏は冬に古葉を抱いて芽を待つ。方喰は踏まれてもすぐ繁る。――上と下、古と新。二つの葉が同じ衣に咲く。


 これまで自分が見た“寄合”は、だいたい声が先に上ずり、算盤が後ろで折れていた。今日はどうだ。鳴子札というものが配られている。祭りの屋台でならどこでも使える引換札。銭の流れを一夜で地に留め、明日の市に渡す仕掛け。寄進の帳面にも、ただの善意でなく「口銭立替」の段がある。出す者が出しやすく、受ける者が返しやすい。商いの言葉で、祭りを立てている。それを仕切っているのは、上の者ばかりでも、下の者ばかりでもない。


 山車は浦戸の港町へ入った。家並みはまだ新しい板も古い板も混じり、人の背丈の陰が柵の脚の間を縫って走る。香のましろが、黒い螺旋を薄く包む。私は鼻に松脂と藍の香を吸い、ふと自分の掌の固い溝を意識した。――まだ生きている。木の眼は、まだ死んではいない。


「札、一枚で二つまでやきね」


 路地の角、露店の前で、子が鳴子札を一枚差し出し、蒸した饅頭を受け取っている。屋台の男は札を小箱に落とした。箱の底板が鳴らす音が、私の耳に届いて消える。昨日は初めて見る仕組みに戸惑っていた町人も、今日はもう慣れた手つきで札を使い回す。


「余った札は明日の新物市でも使えるとよ」。

 商人座の年寄りが隣で小声で言う。銭が一晩で地を離れない。地を回れば、明日も火が点く。私は目だけで拾い、心で頷いた。


 山車が動き出す。双胴の下に仕込んだ車は、六人の回しで角を滑らかに切る。香の煙がひと筋、梁の上で分かれ、通りの上で合わさる。高座の容堂公の扇が、少しだけ下座の方へ傾いた。背筋が、自然に伸びる。


 「寅の大変」以来、木は重かった。水を吸った板は、二人で抱えても沈む。乾くには、夏を二つは要る。借りた銭は乾かない。私は幾度も暖簾を畳む算段を胸の内で組んでは、翌朝に崩した。

 だが、港の口で黒い外輪の船が叩く波を見、鳴龍丸が水の筋を掴んで進むのを見て、重さの所在が変わり始めた。叩きの脈と、掴む筋。太鼓と螺旋。商いにも、同じものがあるのではないか――そんな考えが、胸の底で小さく育ちはじめていた。


 山車が通りの幅いっぱいに広がり、角でぐっと肩を切ると、群れの肩幅が一つになった。太鼓が沈み、掛け声が前に出る。二番は、男衆の低い声が土台になって立つ。


 いさなが跳ねる おらんくの池

 龍の喉元のどもと 嵐呑む

 綱をひとつに はくしのいで

 世さ来い 世さ来い 荒海あらうみ越えて


 “おらんくの池”――土佐の海をそう呼ぶ言い回しは、子のころから耳に馴染んでいる。けれど今日、その言葉の底に、外の海の匂いが混じった。潮が出入りし、舟が行き来し、外と繋がっている。だが、あの――寅の大変の夜――池は牙を剥いた。


 ふと、音が陰って、私の眼の前に濁流がよみがえる。――材の山が黒い山に変わった。縄が切れる音は太く、材がぶつかる音は鈍い雷で、倉の柱が一度だけ悲鳴を上げ、沈んだ。翌朝、泥の中で見つけた継手は、追掛の鼻がもげ、栓穴に泥が詰まっていた。私はそこにしゃがみ込み、必死に両手で泥をかき出した。


 だが、牙を剥く海しかないのではない。器で掴めば、筋が立つ。商いもそうなのだろう。叩いて景気で押すやり口では、外風が吹いたときにすぐに散る。掴んで、筋で押す。それを、今この場で目が腹に教えている。観光丸の外輪が叩く波の景気の良さ、鳴龍丸の螺旋が掴む水の手堅さ。叩きは人を昂ぶらせ、掴みは船を運ぶ。祭りは昂ぶりを“器”に入れて運ぶことだったのか。


 太鼓が、濁流を断ち切るように響いた。

 踊りの輪が、通りの広場に出て大きくなる。輪は三重に重なり、鳴子の三色が渦になって回る。太鼓が一段落ち、半鐘が二度、法螺が長くひと息。総踊りの合図。山車の香の煙が、朝の青に薄く溶けていく。私は、胸の底で言葉を拾った。


 夜明けの沖に 旗は立つ

 うしおに鳴らす 太鼓と汽笛きてき

 かしわ方喰かたばみ 肩を組み

 世さ来い 世さ来い 門出の波に


 歌が、勝手に口の裏に集まってくる。私は末席の端で、鳴子を一つだけ鳴らし、小さく唱い出した。私の声は小さい。けれど、隣の者が拾い、前の列の女が拾い、子の列が振り向いて笑って拾い、輪の外から輪の核へ、拍が伝わった。鳴子の音が一拍で揃い、通り全体がひとつの胸になって息をした。


 夕方が来るまで、唄は何度も繰り返され、人の波は寄せては引いた。容堂公の御座は最後まで崩れず、香の白は薄くなったり濃くなったりしながら、山車の後ろに細い尾を引いた。最後の一巡で、太鼓が少しだけ間を伸ばし、鳴子の音がひとつに溶けた。拍は止まらない。止めるのは誰でもない。続けるのは、誰でもない。誰かが明日、また最初の一拍を置けばいい。



 山車の龍が遠くへ去り、太鼓の脈と汽笛のひと声が、湾の水に薄く残った。藍の法被の背で柏と方喰が並び、鳴子の拍が途切れても、人の肩はまだ同じ高さで動いている。


 ――土佐が、一つに揃う。


 萬助は帯の内側にさした鳴子札を指でなぞった。刀は帯びぬ。けれど今日、帯の中にはもう一本の“綱”がある気がした。武士のことわりだけで世が進むのではない。商いのたくみで、人を飢えさせず、道を海へ通す――たみの手にも、世を押す拍は持てる。寅の大変で消えかけていた熱が、腹の奥で再びおこった。


(わたしにも、できることはないろうか……)


 ちょうど、通りすがった会所の貼紙が夕風に揺れ、目に留まる。


『世さ来い明け、新物市にて出島向け見本取立候』


 出島。異国へ通じる常の戸口、長崎。土佐に留まっていては、きたる新しい世で、拍は合わせられぬ。拍を合わせば、土佐は海の道で遅れを取らん。


「――土佐の産物を、外の海へ」


 木材だけではない。樟脳、和紙、茶、生糸。民として拍を打つ道は、いま掌にある。帯の札を指で確かめ、海の匂いをひと息吸う。


(門出の波は、もう動きはじめちゅう。わたし舟を出さんといかん)


 波の面に灯がひとつ、ふたつ映る。波の面に灯がひとつ、ふたつ映る。萬助は札を袂に納め、浜から会所の明かりへ向かった。世さ来いの拍は、祭りが終わっても、胸の底で静かに続いていた。


 夜明けの沖に 旗は立つ

 うしおに鳴らす 太鼓と汽笛きてき

 かしわ方喰かたばみ 肩を組み

 世さ来い 世さ来い 門出の波に


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