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第四話 進むべき道

 朝の光が障子を透かして差し込み、畳の上に薄い四角の影を落としていた。


 藤兵衛はその光を背に、硯を前にして静かに座していた。三日間にわたって書き綴った『おらぞ漂異録』の巻は、すでに脇に積まれている。今は新たな白紙を広げ、その上に一文字も記してはいない。


 ――これから、何を為すべきか。

 胸の奥で幾度も繰り返した問いを、今日は筆先に託して形にせねばならぬ。


 異界オラゾで五年、幾多の知識と技を得た。だが、それをこの土佐、この現世でどう活かすかは、己が定めるべき道であった。

 

 藤兵衛は筆を執り、ゆっくりと息を吐いた。


「まずは自らの名を上げ、立身出世をせばならぬ。下士かしとはいえ、藩士としての身分を活かし、才覚を示して藩政へ食い込む……」


 土佐藩では、長らく「上士じょうし」が藩政を独占してきた。

 上士とは、元をただせば山内家が関ヶ原の戦功により土佐に入国した際、他国から随行した家臣団である。彼らは藩主と共に新たな国を治める役目を担い、知行地を与えられ、藩の中枢を固めてきた。


 一方、もとよりこの地に在していた長宗我部家の旧臣や土着の一両具足たちは、その支配下に組み込まれた。


 山内家の譜代家臣である上士に対し、旧臣や郷士は在郷勤務を課され、農業や雑務を兼ねる半農半士として扱われることとなった。その多くは知行地を持たず、俸禄も僅少で、日々の暮らしを農や漁、内職で補っていた。家格の高い郷士の一部は城下に召し抱えられ「下士」となったが、上士と比べれば身分は低く、藩政から遠ざけられていた。


 表向きは同じ「藩士」であっても、その境界は深く、宴席や婚姻はもとより、城下での居住区までも厳しく分け隔てられていた。下士が上士に対して無礼を働けば、即座に処罰を受ける――それが常であり、日々のすれ違いですら緊張をはらんでいた。


 この厳格で不均衡な身分制度は、藩の安定を保つ一方、下士たちに鬱屈した不満を積もらせていった。


 だがここ十余年、世は少しずつ変わりつつある。天保の末期、下士の馬淵嘉平らが藩財政を立て直すべく立ち上がり、「おこぜ組」と呼ばれた改革派が一時は藩政を席巻したのである。


 結果として改革は保守派の抵抗によって潰され、「おこぜ組」は失脚したが、その働きぶりはまだ幼い藤兵衛にも深い印象を残していた。


 「下士であろうと才覚を示せば、藩政に参与できる」――その事実は、下士層にとって希望の灯であった。


 藤兵衛はさらに思考を巡らせる。


 立身出世のため、接触すべき者――


 ――坂本竜馬

 ――板垣退助

 ――後藤象二郎

 ――武市半平太

 ――ジョン万次郎


 かつて楽助や貴彦が語ってくれた先の世の歴史。その中に、刻まれていた名を思い起こした。

 今とは呼び名が異なる者もいる。だが、散り散りに聞き覚えた逸話を手繰れば、いずれもこの土佐で息づき、動き始めている者たちだと気づく。


 彼らはやがて、日ノ本という国の命運を左右する存在となる。


 先の世を知る者としての優位はある。だが同時に、その出会い一つが、大きな歴史の流れをも変えてしまう危うさを孕んでいた。


「わしは……どこまで踏み込むべきか……」


 藤兵衛はその事実を胸に、冷たい息を吐いて、ある名を筆録の頭に記した。


 ――吉田東洋


 今の土佐において、最も会うべき人物。否、会わねばならぬ人物であることは疑いようがない。その名は、下士の間にも知らぬ者はない。


 吉田家は、長宗我部家の重臣の血筋を引く家柄である。山内一豊が土佐へ入国した折、その才覚を請われ、三顧の礼をもって上士に取り立てられたと伝わる。以来、一族は代々藩政の要職を担い続け、藩中でも一目置かれる名門であった。


 若い頃から才気煥発で知られた東洋は、長崎へ遊学し、異国語と海防の学問を修めたと聞く。異国の知識に通じるのみならず、海防策においても深い識見を持ち、藩内で並ぶ者のない才覚と評判であった。


 帰藩後は藩校で教授を務めつつ、洋式砲術や船の改造に力を注ぎ、異国との応接にも関わった。やがてその才能を認められ、先代藩主・山内豊範、そして現藩主・山内容堂に仕え、参政という藩政の最高職の一つに大抜擢されたのである。


 上士にして異国の学問を学び、武断に偏らず開明を説く――その姿勢は、保守的な上士たちからは疎まれつつも、下士や若手藩士からは密かに慕われていた。


 だが今年三月、江戸藩邸での酒席において、藩士たちに無礼を働いた藩主筋の旗本を耐えかねて殴打したという。その一件をきっかけに、東洋は家禄を大幅に削られたうえ、参政を罷免され、藩政の表舞台から退いた。

 幕府への配慮もあったのだろうが、下士たちの間では「東洋先生は旗本に媚びず、藩士の面目を立ててくれた」と庇う声も多く、藩中の保守派がこれを好機と見て排斥に動いたのだと囁かれていた。


 以来、郊外の長浜にて蟄居を命じられているが、その門を叩く弟子や若者は絶えないという。藤兵衛は直接その姿を見たことはない。だが、藩の未来を憂う者にとって、彼が再び政に復帰することは悲願に等しかった。


「……あの御方にお目通り願うことができれば――」


 藤兵衛は深く息を吐き、膝の上で拳を固く握った。

 隠棲中の身ゆえ、直接会う機会は少ない。だが藩政に返り咲く前に接触し、その信頼を得られれば、後に広がる人脈も手に入るだろう。


 問題は、今の藤兵衛にとって東洋がまさしく雲上の存在であり、面識がないということだ。

 東洋は身分を問わず有能な者を積極的に登用することで知られているが、どこの馬の骨とも知れぬ者がいきなり門を叩いたところで、取り次いでもらえる保証はない。下手をすれば門前払いを食らうのが関の山であった。


「どう取り入るか……」


 藤兵衛は思案を重ね、同じ下士の同僚や、父・清兵衛と縁のある家格の者たちの顔を一人ひとり思い浮かべた。


 だが東洋へ紹介を頼めるほどの確かな伝手はなく、下士という立場では頼み込むにも限りがある。己の才覚を示す手立てを模索するものの、これといった妙案は容易には浮かばなかった。


 門を叩く覚悟を決めねばならぬ――そう心に刻みながらも、今はまだその時ではないと自らを諫める。まずは人脈を広げ、己が存在を世に知らしめることが先決だった。


 筆を置き、深く息を吐く。冬の静けさの中で、その胸の鼓動だけがやけに大きく響いていた。


 それが、自らの運命を大きく動かす出会いの前触れであることを、このときの藤兵衛はまだ知る由もなかった。

参考文献:『日本史籍協会叢書 第186巻 吉田東洋遺稿』『土佐遺聞録』

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