表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
49/55

第四十八話 世さ来い祭り ―走砲試録―



 安政四年八月五日。世さ来い祭りは二日目を迎えた。


 浦戸の朝は、昨日よりもいっそう澄んでいた。観光丸は停泊の姿勢を崩さず、帆桁の影を水面へまっすぐ落としている。鳴龍丸は湾の中央で白い息を細く吐き、機関鐘の合図に合わせて回転をひと目ごと確かめる。


 岸の見学柵の外に広がる人波は、まもなく始まる新型蒸汽船の「見せ物」を心待ちにしている。だが、鳴龍丸に乗る者たちにとって、それは「見せ物」ではない。幕府に対して土佐の技術力をあかす場であり、オランダに対して出島商館で密かに取り交わした特許オクトロイを取り付けるための検証である。


 長崎海軍伝習所の勝麟太郎は腕を組み、舷側の影に寄り添う砂時計を見下ろす。


「まずは“走り”だ。土佐の“じつ”ってやつを、見せてもらおうじゃねえか」


 傍らで蘭海軍士官ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケが、真鍮の器具を一つずつ拭い、目盛りに針を合わせていく。


 測距の縄が岸から水へ斜めに渡り、桟橋側では蘭式の測程器ログが冷たい金属の光を返していた。浜の標柱二本のあいだに基線を設け、往復二走で速力の平均を計る。


 鳴龍丸の甲板では、朝倉藤兵衛が、風の匂いを一度嗅いでから、船尾にはためく三ツ柏紋に目をやる。肩越しには淡輪治郎兵衛。その眼は、海のように澄んで動かない。


「鳴龍丸、発進準備よし」


 藤兵衛が低く言うと、機関鐘が一度、短く甲板に落ちた。艫羽板が角を取り、螺旋スクリューの息がわずかに深くなる。


 機関鐘が「前進一杯」を二打。主弁が開く瞬間、甲板の下で蒸気が一段、太く唸った。艫の螺旋が最初の一噛みを水に入れる――その一拍、鳴龍丸はすこし沈んでから、ぐっと腰を伸ばす。外輪の叩きのような跳ね上がりはない。噛み、牽き、抜ける。双胴の肩が水を二枚の刃で割り、舷の鋲が朝日を点々と渡していく。


 機関房では、細川万の手がバルブのハンドルを半寸送る。復水器が海水で静かに冷やし、冷たい息を吹き込むように音を変え、圧力計の針がもう一段、右へ寄る。


 螺旋の回転が半拍ずつ上がるたび、船は肩口で風を掴むように速度を増していく。波頭の切れ目が長く、細く、真っ直ぐに延びる。


 観測台の砂時計が返り、測程器の示した数値に目を落としたカッテンの声が、風を切った。


「――14.5ノット!?」


 長崎の商館で治郎兵衛が提示した仮図面では、三百馬力で十三ノット四分との試算だった。それさえも机上の空論に思える数値だったが、さらに実測で上回るとは想像もしていなかった。この排水で十四ノット越えは、造船大国の海軍士官である彼でさえ聞いたことがない。


「そのまま――二走目、逆風、入り!」


 鼻先をわずかに落とし、逆の白旗を噛む。向かい風が舷を叩くが、双胴の肩は暴れない。螺旋の音がひと段低く太くなり、船は押し返す壁を掴んで前に出る。甲板の振動は細かい針から滑らかな帯へ。


「二走目――十四・三!」


 往路、記録。復路、記録。計算盤の上で数が組まれ、紙に落ちた。

「平均――十四ノット、わずかに上」


 勝は舷の外で風を吸い込み、目尻だけで笑った。


「こいつぁ、観光丸の倍は速え。あっちは叩きの景気はいいが、風と波でここまでの足は出ねえ」


 カッテンは横目だけで麟太郎を見た。彼の頭の半分は、いまの数字と工作の精度に釘付けだ。三百馬力の機関――あれに表面復水の改良が施されていた。凝縮の管が無駄なく立ち、蒸気を凝縮して給水に戻す。燃料は必ず減る。オランダでも、こんな清潔な組み方を地方の工場こうばでやる例を知らない。一体、この技術をどこから得たのか……




 朝の白さがまだ水面に残る浦戸の湾口に、白旗を載せた一間(1m)四方の木箱が三つ、いかだに縛られて等間に並んだ。


「次は双胴の据わり、あかしてご覧に入れ申す」


 双胴の肩が、水の上で静かに構えを取った。

 鳴龍丸の砲座の上には藤兵衛が立つ。木箱との距離はおよそ十町(約1㎞)。


「十射にて、三つ、全て射てみせまする」


 そう宣言した藤兵衛を麟太郎とカッテンは懐疑の目で見るほかなかった。十町とはいえ、最新のアームストロング砲を用いても、足場が不安定な艦上砲撃の命中率は一割から二割未満。三割当てるなどまず不可能。砲撃の効果は命中よりも敵を威圧する心理的な側面が大きかった。


 万と鍛冶衆が組んだ回転砲台は、軸の据わりが驚くほど滑らかだ。砲は石立砲鋳所で一基だけ特別に前装施条砲ライフルカノン。そして砲身の脇に細いさおで固定された望遠標準鏡。いずれも藤兵衛と万が異界オラゾの知識をもって製作した器である。

 

 藤兵衛は頬付けをせず、まず左目で風旗を、右目で鏡の十字を覗く。神経を研ぎ澄ませ、耳と肌で風の流れを感じとる。


 この艦上砲撃を成功させるためには、異界オラゾで鳥人ニアールたちに教わった「風読み」だけでは不可能だ。


 藤兵衛は彼らの三つ目による空間認識能力の高さに発想を得て、「三点測量」と呼ばれる、三つの基準点から三角形の辺と角度を計算して着弾点を特定する方法を考案した。


 まず、六分儀で基準点の間の角度を測定し、三角関数を用いて正確な距離を特定。試射の着弾時間と距離から弾速を求め、砲の最適な仰角を「アシラの全知」で万が即座に算出し、治郎兵衛が浜で培った「潮見」で波と海流によるズレを補正、最後に藤兵衛が「風読み」で微調整を行う。

 湾内の三点をあらかじめ距離を計測しておき、木箱を乗せた筏は水中の重りで動きを最小限に留め、旗を立てることで風を読みやすくする。


 それらあらゆる準備を整えたうえで、オランダと幕府に、衝撃をもって鳴龍丸の性能を知らしめるに値する砲撃距離は、十町。それが、藤兵衛と万が算出した数値だった。


「潮はわずかに下げ、右に渦巻く」

 治郎兵衛が潮目を読み、藤兵衛に伝える。浜の両端には二つの三脚に軽い測角器――三点の線が、頭の内でひとつの“芯”に結ばれる。


「九町十間――一千間、的三。角三度二分、右へ風二目」

 万がそれを聞いて無言で砲の仰角を少し上げてから頷く。「――角、四分上げ。よし」と退助の声が砲側で拾い、良輔が浜の測標から「風・潮・距離、据え直し無し」と短く返す。小さな合図旗が一度だけ震えた。


「一射、標定――」

 控えの太鼓が、打突のように一つ鳴った。同時に轟音と火門の閃きが響いたが、反動は双胴の揺れに吸われ、甲板がわずかに吐息する。


 白旗の真横、箱の手前に大きな柱状の水が立った。観衆のざわめきの前に、藤兵衛の声が速く落ちる。

「一目上げ戻し、四分。風、半目右。――次」


 即座に次弾が装填され、二射目。水柱と共に白旗が根元で折れ、木箱は粉々に吹き飛んだ。麟太郎とカッテンの目が大きく見開かれる。浜の歓声より早く退助が「砲耳よし、回転五度左」と呼ぶ。


 四、五、六、七――


 八射目で木箱は三つとも、木屑を薄く水面に散らして沈んだ。見学柵の向こうで裃の列が一度波打ち、漁師の褌が同じ高さで揺れる。


 麟太郎は腕を組み直し、短く笑った。

「……たまげたぜ。船が座ってやがるみてえだ」


 カッテンは笑わない。だが喉の底で小さく息を呑んだのが、麟太郎には分かった。

(八百ヤード(約730m)を越えれば、箱の角に当てるのも難しいはずだ――ましてや船上で……。螺旋で“掴む”ことと、双胴の“座り”が、この静けさを作っているというのか)


 彼は視線だけで砲台の下を見た。回転台の軸受は単純で、しかし工作が正確。望遠標準鏡は小銃の理を砲へ移したもの、そして浜の二基――三角測量を、この距離で砲に“重ねる”者たち。西洋で知る理屈はそれぞれある。だが、ここまでまとめて“戦場の器用”に落とし込んだ例を、彼はまだ見ていない。


「Voldoende.(十分だ)」

 カッテンは短く言い、視線を機関房へ移した。扉の向こうから伝声管が小さく鳴り、いつものように音で返した。


 麟太郎は肩の力を抜き、煙管キセルをくわえながら、藤兵衛に言った。

「将軍家の御前で、見せてはどうだい。容堂公に伝えよう。薩摩は船も砲も銭も早い。だが、この舟は薩摩の昇平丸の比じゃねえ。江戸で鳴らせば、とんだ騒ぎになる」

 その言葉の裏には、高い技術力を背景に軍備拡張を進める薩摩藩への牽制になるかもしれないという思惑が感じ取れた。


 麟太郎が甲板の中央で号令をまとめ、藩士たちと手続きを交わしている間に、カッテンはそっと甲板縁に寄り、治郎兵衛を呼んだ。

「Jirobei.(治郎兵衛)本日の全記録……本国に送る。長崎会所には正式に上げるとして、君の言う“付議”――特許オクトロイの件だ。この数字があれば、密約の筋も、必ず通るだろう」


 声は低い。平均速力十四ノット越え、艦上砲撃命中率三割以上――カッテンは報告書に描くべき数値を思い浮かべながら、悪寒に近い衝撃を覚えていた。


 二百五十年、国を閉ざしていた東洋の島国が、つい先日手にしたばかりの技術で西洋を上回る性能の船を造った。この報告書の数値を本国の議会は信じるだろうか。

 たとえ信じずとも、その事実はカッテンが脳内に描く、五十年…いや、十年先のこの国の姿を末恐ろしいものに見せていた。



 試験の終わりを告げる半鐘が鳴り、鳴龍丸は息を浅く戻した。甲板では藤兵衛が砲側の蝶番と締具を確かめ、万が伝声管の向こうで冷却水の流れを落ち着かせている。回転砲台の足元に落ちた小さな真鍮の削り屑を、昌造が拾って袋に入れた。


 浜の中央の御台から全てを見届けた容堂は、満足げに桟橋に並ぶ民衆へ振り向き、声を張った。

「――鳴龍丸、砲試、走試とも、上々じゃ。数は “言葉”にせんといかん。江戸へ持っていき、土佐の名を、海の上で鳴らすがじゃ」


 喝采は一拍遅れて起き、すぐに大きくなって湾の崖に返った。裃も褌も同じ高さで手を打ち、観光丸の甲板でも蘭人が無表情のまま手袋を叩く。どこかで誰かが鳴子を一度だけ鳴らし、音は波に吸われて消えた。


 カッテンは最後にもう一度だけ船尾を見た。黒い刃が水の中で回り、白い糸が真っ直ぐ延びる。双胴の陰影は厚く、しかし軽い。彼は心の底で静かに結論を下す。


(今日を“見た者”として書き残す。――この国を侮ってはならない。土佐で、世界の線が一つ、書き換わったのだ)


 二日目の“世さ来い”は静かに締めくくられた。



 これより二十四日後の安政四年八月二十九日。幕府は長崎にてオランダと日蘭追加条約及び付議協定に調印する。


 それは日ノ本が外国と最初に結んだ通商条約であった。これにより長崎出島に限定されていた貿易制限が緩和され、まずは函館での貿易が許可された。


 しかし、その草案にもともと記されていた「治外法権」の文言を「裁判権の俗人主義」に直し、「順次各所の港を開く」の付議条項に「浦戸」を追加したのが誰なのか、記録にはない。


 ――ただ、この日の報告書だけはオランダ本国に残った。

※安政4年(1857年)時点の蒸汽船性能について

最速級の蒸汽船としては1856年に大西洋横断最速記録を持つペルシア号の平均速力14.15ノットが挙げられます。

ただし、ペルシア号は2気筒900馬力の外輪船であり、さらに平均速度を出しやすい条件は外洋のほうが揃いやすく、浅水影響で船体が沈み込んで速度が落ちやすい浦戸湾で鳴龍丸(単気筒300馬力)が記録した14ノット越えは、短距離とはいえ世界最速級と言っても過言ではありません。


参考文献:『法令全書 第1巻』附録「自嘉永七年至慶応三年各国条約書」、『締盟各国条約彙纂 第1編』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ