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第四十七話 世さ来い祭り ―上下の拍―

 安政四年八月四日。


 夜の白さがほどけはじめるころ、浦戸の桟橋には、一隻の巨大な船が停泊している。


 長さ二十九間(約52.7m)。黒い外輪箱が両舷に張り出し、甲板中央の太い煙突が一本、低く灰を帯びた煤煙を細く吐き上げ、風向きに応じて三本マストの帆桁の間を斜めに流れていく。船体はもやいを取り、岸に身を預け、ときおり短く蒸気を抜く。船影は朝の背後に山のように居座っている。煤と油のにおいが、早朝の潮の薄塩にまじって鼻の奥をくすぐる。


 観光丸――長崎海軍伝習所の練習艦で、阿蘭陀オランダ国王から贈られた外輪蒸気船である。甲板の船尾側では、裾の短い外套を羽織った勝麟太郎が腕を組み、若い蘭人士官カッテンディーケが双眼鏡を外し、手の甲で日差しを遮って湾口を静かに指した。長崎を発して土佐までの往復を練習航海と定め、鳴龍丸の検証と祭りの見分を兼ねて停泊していた。


 砂の浜は「黒船」と「異人」を一目見ようと、早くから人で埋まっていた。漁師のふんどし、町人の薄羽織、郷士の紋付、かみしもの列――足もとは藁草履と下駄と裸足が一緒くたに砂を沈め、番所の前には見学柵、医師詰の箱、火消の半纏はんてん、槍の控え。露店の天幕がまだ半分だけ上がり、餅の湯気がふわりと立っては、潮風であっけなく流れていく。


「父ちゃん、何か来ゆうで――」

 一人だけ沖の方を見ていた子が、親の袖を引いた。


 なぎの水平線に、白い筋が一本、すっと伸びた。

 たたきの横筋ではない。海の深みに道を刻む、絹糸のような長い澄んだ筋。


 朝日を背に、双胴の影がぐっと濃くなる。丈は観光丸に及ばぬが肩幅が広い。船体の中央部から突き出た煙突が白い蒸気を噴き上げ、船尾に掲げられた三ツ柏の旗が日に白く、短く光って消える。


 甲板のどこかで機関鐘が一度、鋭く鳴った。


 人々の身体が一斉に振り向き、肩の線が揃う。足の向きが変わり、砂の上に見えない拍子が走った。裃の列の端で小姓が喉を鳴らし、鍛冶の衆が思わず腕を組み直す。子どもが背伸びをし、母親がその襟首をつまむ。


 船は身をわずかに傾け、桟橋へ斜に寄せてくる。外輪が海面を叩く観光丸と違い、船尾の螺旋スクリューが掴む水の筋は、泡の尾を細く長く引く。舷側の鋲の列が、朝の光を一つずつ受けては渡していく。


 機関鐘が「止め」を短く打つ。螺旋の息が一度おち、惰力で桟橋へ吸い寄せられる。寄せに入る身のこなしは、短く速い。船首の綱が砂上の杭にかかり、ギイ、と低い木鳴りが岸へ染みた。


 浜に広がるどよめきの中、船体の中央、煙突の前に設けられた白布の御座に、藩主・山内容堂が立った。潮風を受けてひるがえ緋縮緬ひちりめんの裏地の薄羽織。金糸の羽織紐が揺れ、懐からはかすかに麝香じゃこうがほのかに匂う。


 その出で立ちが、ちょうど二年前、この浦戸での蒸汽船模型披見と同じ装いだと気づいた者は少ない。


 容堂は扇を一度だけ胸の前で傾け、声を張る。


「――見よ」


 静けさの中、湾全体にことばが当たって返る。


「眼前に広がる、この大海おおみを」


 遠くの水平線の先を扇が指した。潮風に露店の湯気が散る。


「世の習いは、いま大きく変わろうとしておる」


 医師詰の箱蓋がそっと閉じられ、槍の穂先が一斉にわずかに沈む。勝は腕を組み直し、カッテンは双眼鏡を下ろして、鳴龍丸の船尾ではためく三ツ柏の紋をじっと見た。


「古きしがらみに固執すれば、潮の流れに取り残される。今こそ土佐が一つになり、大海へ漕ぎ出さねばならぬ」


 砂の上を風が渡り、子の足あとに小さな渦が立つ。御座の白布の端が、潮風に揺らぐ。御座の背で、伝声管が低く鳴った。


「そのための舟を造った。名は――鳴龍丸」


 どこからともなく、おお――という小さな波が起きる。


「龍のごとく世を鳴らす。未だ泰西にも無き新しき舟じゃ」


 鍛冶の衆の肩が大きく張り、町の女衆の目が丸くなる。裃の列の奥で、老臣が扇を胸に寄せた。


「工人・郷士・下士・上士――力を合わせ、新しき世の形を示した」


 列のあちこちで、見えない綱が胸の真ん中に渡された気がした。秩序は崩れず、熱だけが一段上がる。


「これを神輿みこしとして、いまより三日――祭りを開く」


 太鼓が大きく一打。


「――“世さ来い”。皆の心を一つにし、土佐の門出を祝おうぞ!」


 鳴龍丸の船尾で半鐘が打ち鳴らされ、観光丸が噴気ふんきでひと声だけ応える。

 太鼓・半鐘・噴気、三つの音が、砂に、舷に、胸に、順々に落ちた。歓声が波になって寄せ、すっと引き、また寄せる。


 停泊する観光丸は西の影のように静まり、そこへ滑り込んだ鳴龍丸の黒と白が、朝日の中でくっきりと立った。新しい拍は、湾の水と人の胸に、ゆっくり、しかし確かに入り、“世さ来い”の祭りが始まった。




 たに 甲太郎こうたろう、齢二十一。


 南学の家――儒学者・谷秦山の血を引く小姓組格の上士は、儀礼の目で浜を一瞥した。見学柵、番太、火気改め、医師詰。段取りは整っている。だが彼の胸の拍を奪ったのは、秩序ではなく一艘の舟だった。


 蒸汽船――泰西の舟のことは学んでいたつもりだった。ゆえに観光丸の外輪が海面を叩くのを見ても、思っていたほどの驚きはなかった。だがその後に、双胴の鳴龍丸が水の深みに螺旋の筋を通すのを見て、自身の学んできた「図の理」と、目の前で起こる「物の理」とのへだたりに、ひそかな眩暈めまいを覚えた。


 文武ぶんぶ講筵こうえんが始まった。まずは浦戸湾での本船披見。

 皆が見守る中、鳴龍丸は湾内をゆっくりと進み、静かに止まった。そして船体を徐々に回していく。船員が澄んだ声で読み上げる。


「速力五より停止、惰走十七間……回頭、右二十度――」


 船尾には、羽板の角度指標が掲げられ、角度の板が一目でわかるように掲げてある。機関鐘が鳴り、羽板と回転、その組み合わせで船が曲がる。風旗がわずかに揺れるたび、角度板の札が一枚、二枚と返り、その音を合図に人が動き、舟が応える。藩校の兵書ではなく、数がその場で人を動かし、舟が答える。


 甲太郎は袖の内で拳を握った。己の指が白くなる。藩校で「右に出る者がない」と言われた自負が、いま海風の下で静かに覆った。


 続いて岸の講筵。白布の下、大きな木桶の中で、黒い小さな螺旋が回る。掴む水が、糸のような渦になって目に見える。説明役は、岡豊のたくみ、細川万――女である。もう一人は平戸出の通詞、本木昌造。甲太郎は一瞬、眉を上げて、すぐにそれを収めた。


 万は言葉少なく、指先で水の道を示す。爪の白が水の揺れに沿って細く光り、その軌跡だけで流れの芯が浮かぶ。


「外輪は叩く。螺旋は掴む。叩けば波はすさび、掴めば筋が立つ。舟が軽いときは叩きも利く。けれど、外海で風を受けたとき、掴む刃が船尾の深いところで支えてくれます」


 昌造が穏やかに継ぐ。手元の白墨が短く鳴り、板書の文字が水と結び付く。


「双胴は横揺れを抑える。梁が、舟と人の拍を合わせる“柱”。――これなるは鳴龍丸の連結梁。揺れ幅は片胴の六分。砲の安定も遥かに増しまする」


 甲太郎は二人の横顔を見た。女の工が理を立て、他藩の通詞が数を置く。その場に、上も下もない。舟が答え、海が頷く。長らく講釈の語として受け取ってきた「実学」が、手触りと水音を伴って眼前に在る。


 見学柵の外には、裃も褌も、町娘の薄衣も、皆同じ肩の高さで並んでいた。講筵の触書には「身分にかかわらず参集可」とある。藩校の堂では決して見ぬ文言。甲太郎は、胸のどこかで古い躊躇が剥がれるのを感じた。


 最後に吉田東洋の短講。扇の骨が一度、指で鳴る。音は高くはないが、座の隅々まで通った。


「見る。数える。備える。――この三つをに合わせよ。見せて胸を揃え、数で腹を据え、備えで背骨を通す。“学”は“器”に通さねばならぬ。器は“世”に通さねば、ただの飾りじゃ」


 言葉は短く、余白が深い。甲太郎は息を呑んだ。藩校で筆を走らせ、書院で句を繕う日々では味わえぬ響き。ふと、父から聞いた昔語りを思い出す。


 ――南学は“忠君愛国”と“実学”。忠の芯は天子にあり、実の道は田畑と舟路に在る。

 忠と実。二つの柱を、どう地に立てるのか。


 祖の谷秦山は、土佐の田畑と舟路を拓き、学を村里の仕事に降ろした。机上の学ではなく、民の汗に通う学。

 ――異国の理を呑み込み、己の器で返す。この場こそ祖の理の“今”に違いない。彼はその事実に、遅れて衝撃を受けた。自分が座で学ぶうちに、土佐はすでに海で学び、工場こうばで試し、器に仕立てていたのだ。


 背後で観光丸の外輪が、低く一定の脈を刻んだ。甲太郎はその音に合わせて、ゆっくりと拳をひらいた。脈は必要だ。だが、掴む筋がなければ、風に押されればすぐ散る。土佐という舟を外に出すには、叩きと掴みを併せ、見せる旗と動く器を両立させねばならぬ。


 甲太郎は膝を正し、胸の内でただ一行を書き足した。

 ――実学を世に通す“橋”となる。ここが始まりだ。




 中岡なかおか 慎太郎しんたろう、齢二十。安芸郡・北川郷の庄屋見習い。


 さとでは洪水で田が荒れ、凶作が続いた。疫病が子をさらい、囲炉裏の火が弱る年が二度三度。慎太郎は自分の地を担保に借財し、米を買い集め、官の倉の米を開けと直訴に走った。郷の不満は胸の底で濁り、「こんな世を変えねば」という熱だけが、手足を動かしていた。


 ――山間の庄屋衆にも参加の触れが回り、その熱を抱えたまま来たのが、この祭りだ。


 浦戸の浜は人で黒い。褌の漁師、紋付の郷士、裃の上士、薄衣の町娘。身分で並びは違えど、押し寄せた波の前では皆が同じ背丈に見える。焚かれた湯気と餅米の匂いに、潮の塩が混じる。遠見の櫓の上で、番太が短く合図を送った。


 慎太郎は初めて異人というものを間近に見た。観光丸の甲板に立つ蘭人たち。背は高いが、目は海のように澄んでいる。手の甲の油で指節が黒く、笑わぬが、怒ってもいない。鬼ではない。同じ人じゃ。胸のこわばりが、潮に溶けるようにほどける。


 鳴龍丸は今まで見たどの舟よりも速かった。泰西の舟に引けを取らない。外輪の脈ではなく、螺旋の筋で進む双胴の舟。慎太郎は鼻で煤と油の匂いを吸い込み、誇りに思わず笑いがこみ上げた。

(――土佐の舟も、負けちゃあせん)


 浜の一角では鍛冶の見世物。真赤に焼けた地鉄に刃金を合わせ、槌が打つたび火花が藍の空に散る。小柄の親方が無駄口を叩かず、合いの手だけで弟子を動かす。鉄の匂いに子どもが目を丸くし、裃の上士が無意識に身を乗り出す。歓声が、身分の境をまたいで同じ高さで上がった。

(村の鍛冶も、同じ火を見ゆう。あの槌の拍が、ここでは世の拍に繋がっちゅう)


 隣では、女の工――細川万が絡繰からくりりを見せていた。小さな木の舟が水槽の中でくるりと回り、豆の歯車が光る。子らが笑い、母親が手を打ち、男衆が唸る。万はほとんど表情を変えない。けれど指先だけが、機巧の芯を触っている。女でも、こうして器をこしらえる。

(郷の婆さま方が藁細工で家計を支えるのと同じ理や。理に、男も女もないがじゃ――)


 露店の陰で、土佐訛りの商人が「鳴子札」の使い方を説明しているのが耳に入る。祭りの屋台ならどこでも使える引換札だという。銭を場に留め、明日の商いに繋ぐ工夫。慎太郎は、札と同時に渡された鳴子を片手に思わずうなった。

(郷の市でも使える。米が動けば、喧嘩は減る。喧嘩が減れば、役人も動きやすい。……工夫で世は変えられる)



 御前剣術仕合。

 容堂公の前での上士と下士の混じった仕合は、最初こそ空気が固かったが、打太刀・仕太刀が三合、四合と交わすうち、拍が合ってきた。裁きが公正で、旗が曲がらない。勝った者が礼をし、負けた者が膝を正す。秩序が熱を殺すのではない。熱を器の中で息させる。竹の打突が畳に落ちるたび、観衆のざわめきがすっと引いて、また寄せる。慎太郎は無意識に手の甲を握った。



 浜の端で、田野学館のころ世話になった武市半平太の横顔を見つけた。高い背は、今は剣の先ではなく、人の拍を見ている。半平太の視線の先には、鳴龍丸の艫羽板の角度札と、綱を操る若い手。慎太郎は深く息を吸い、胸の奥に熱と理を折り重ねた。


(尊攘の旗は下ろさぬ。けんど、怒りだけで押す世では、良うならん。同じ拍で歩く形――それが、求めちょった“新しき世”じゃ)




 太陽が傾き、海の筋が長くなる。観光丸は停泊を保ち、鳴龍丸の機関は浅い息で静かに脈を打つ。


 文武講筵の白布は巻かれ、浜の仕掛けがひとつずつ片付いていく。人の波はまだ途切れない。

 谷甲太郎は藍の袖を正し、学を器に通すと心に書き付ける。中岡慎太郎は、郷へ持ち帰るべき拍を確かめるように鳴子を一度、腰で鳴らした。


 祭りは、まだ始まったばかりだ。

挿絵(By みてみん)


参考文献:『谷干城遺稿』、『土佐維新史料輯 六(書翰篇)』

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