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第四十六話 六人座ふたたび

 安政四年四月――江戸では蕃書調所が正月より本格的に開所し、洋書の解読と訳述が官の務めとして日の下に据えられた。築地の講武所には軍艦教授所が立ち、長崎で学んだ“海の理”が江戸へ遡上してくる。下田では異国奉行がハリスとやり取りを重ね、通商の話がじわじわと内政の畳を押し広げつつある。春は浅く、風はまだ塩の匂いを含んで冷たい。


 長浜・少林塾の講堂。障子に沈む光はまだ白く、縁の外では川風がひと筋、杉の葉を撫でた。

 座敷には小卓が二つ、すずりと筆が置かれている。正面の床の間には、東洋の七言絶句「大震行」の一幅が掛かる。起筆の墨がことさらに濃く、震災ののちに人心を立て直す言葉が、まだ温みを残して壁から滲む。対の壁には、中浜万次郎が江戸から送った世界地図。淡い海の青に太平洋の弧がゆるく張り、土佐沖のあたりに小さな朱の点。


 掛軸の前に座するのは吉田東洋。左右に後藤良輔、乾退助、朝倉藤兵衛。向かいに淡輪治郎兵衛、細川万、本木昌造。坂本竜馬は江戸修業中につき、代読の書付のみが机上にある。


 座の中央に東洋が膝を進め、目を伏せてから顔を上げる。

「先の六人座より、早や一年ひととせが過ぎた。皆、ご苦労であった。本日はこの一年の成果を確めたい」


 良輔が一礼した。眉の角度が柔らかく、声は低く澄む。

「まず、土佐に散在する才のすくい上げについて申しまする」


 卓上の名簿を指で押さえ、端だけを少し持ち上げる。

「このたび少林の門に岩崎弥太郎、近藤長次郎が加わりました。商才は“利”と“機”の両睨み。弥太郎は帳合いが速く、粗利より回転を優先して利を積む算段が立つ。役人筋にも臆せず、理で押す胆力あり。長次郎は人を動かす声音こわねを持ち、商人座・町年寄・職人衆の間を和で通す表の顔となる器、取りまとめのはらがありまする」


 乾退助が続いて前に出る。言い切る調子は軽やかで、語尾の芯は固い。

「二人とも、場さえあればまだ伸びる。長崎で油を吸わせること、推挙いたしたいがじゃ」


 さらに人材育成について補う。

 一つ、山間の人材探索は継続。まず、土佐西部尊攘派の指導者で、大石新影流の師範でもある樋口ひぐち真吉しんきちに目を付けた。砲術の心得もあり、剣術指南と併せて藩校での教授を取り付けた。

 一つ、藩校は読み書きの座学にとどめず、語学・政経・機巧・武芸の実学を導入すべし。


 東洋が「藩校の刷新の趣は、すでに殿へ進言いたしておる」と言い、視線を隣へ移す。

「治郎兵衛、次いで昌造」


 治郎兵衛が短く息を整え、切り出す。

「長崎での成果について申しまする。海軍伝習所にて勝麟太郎先生、蘭海軍士官カッテンディーケ殿より蒸汽船の操船実技を修得。鳴龍丸の双胴・螺旋羽根については、いまだ泰西にてもくらぶるべき物なき新型との所見。商館長クルティウス殿との交渉により、阿蘭陀オランダ本国にて“特許オクトロイ”の付議を取り付けております」


 昌造は紙束の角をそろえ、静かに一言を置く。

「付け加えまして、三点」

 一つ、三百馬力の機関、分割買付にて成約。部品は一月末に到着済。

 一つ、機関は遅延値引き後も入用いりよう超過いたすも、容堂公の裁可により御加増。

 一つ、双胴・螺旋羽根の特許は“世さ来い”での鳴龍丸実測を見て最終判断、との回答。


 東洋は詩幅と世界地図を順に一瞥し、扇骨を指先で一度だけ叩いてうなずいた。

「開国に備え、土佐産物見本を早々に商館へ送り付ける算段と致す。良輔・退助の献策に添い、見本が出揃い次第、弥太郎・長次郎を長崎へ差し向けよ」


「次、よろず


 万は鳴子の弦に軽く触れ、三色の音をひと拍ずつ確かめると顔を上げた。

「鳴龍丸の進捗は八分。機関据付に入れば完工段階です。オランダの買付機関を組み立てておりますが、自作の仮機関のような複式・表面復水ではありませんでした。披見にて燃料二〜三割節減の実績があります。同様の改良を施せば十四ノットは堅い見積にて、少々の猶予をいただきたく存じます」


 鳴子を座の中心に置き、「世さ来いの踊り、河田小龍先生の助力により、鳴子・衣装・段取りいずれも順調です」と続けて述べた。


 東洋が目の端をわずかに緩めた。

「ふむ。そなたの機巧は泰西の技にも勝る。双方、世さ来いまでに取り進めよ」


 藤兵衛は身を正し、ひと息置いて面を上げ、座の方へ向き直った。

「下士・郷士の尊攘を和らげる策、武市半平太の懐柔について申しまする。万殿の助力を端緒に、昨年十月より竜馬と共に江戸修業と称した形勢見分へ。両名が中浜万次郎と会見し、藩校刷新の折には出講の約を得ております」


 そこで竜馬からの文を開き、読み上げる。


「一書申上候。

一、半平太アギの儀、これまで攘夷最先ととなえきたりそうろうところ近来ちかごろは『づ攘害・和夷を本懐とすべし』の趣にこころへたる由、あい確かめ候。

一、右の趣にて帰国の上は、士子教導の役に適う者と存じ候間、相推挙致たく候。

 安政四年四月 坂本竜馬 拝」


 読み上げ終わるや、東洋はしばし文端を指で撫でた。

「上出来じゃ。折らず、曲げて通したいさおは、竜馬・藤兵衛・万にある。万次郎の帰国、すでに殿が老中・堀田殿へ内々に手を回しておる。半平太と共に土佐の礎を築く役となろう」


 そして最後に、自身が膝を進める。

「では、わしからは上士と下士との“橋”について申す。三家老とのかどについては、小南五郎右衛門と治郎兵衛、藤兵衛の助力を得て、謝すべきを謝した。殿を交えた鳴龍丸披見にて土佐の新しき道筋を示し、和解いたした。これよりは挙藩一致で推し進めて参る」


 さらに今後の要点を述べる。

 一つ、八月末より殿が江戸へ参勤出立にて、“世さ来い”は安政四年八月初旬に催す。

 一つ、幕府側招請は三名――蕃書調所・中浜万次郎、長崎海軍伝習所・勝麟太郎、同・カッテンディーケ。

 一つ、城下の者の心を浮き立たせ過ぎぬよう、祭の触書は二月ふたつき前に打ち出す。あわせて小龍作の瓦版を番所・会所に配す。


 言葉が座を巡ると、講堂の空気はいっそう引き締まった。外では川風がすだれをわずかに揺らし、遠くで時の鐘が一度だけ響く。暮れが早い。



 東洋はもう一度、座中を見回した。そのまなざしは、かつての刃の鋭さの奥に、包むぬくもりを宿している。


 誰かが継ぎの言葉を発するより早く、東洋は両手を畳につき、一同に深々と頭を下げた。


「皆よう働いた、改めて礼を申す。才を拾い、器をこしらえ、道をつけた。一人の力で大事は動かせぬ――わしはここで多くを学んだ。この先も、上に抗うでも下に媚びるでもなく、和を以て志を束ね、上の理と下の熱の“橋”として働く」


 礼の言葉が畳に落ちて、座の底に静かな熱がひろがった。


 良輔は、礼の言葉の底にかつての東洋の影を見た。理で人を斬り伏せてきた養父の変化が「橋」という一語に結ばれているのを感じる。――ならば自分は懐刀であればよい。刃はむやみに抜かぬ。要の一拍でだけ静かに切り結ぶ。そう心を定めた。


 乾退助は口の端だけで笑い、拳を膝で一度だけ握った。上と下の間に立つ役は、喧嘩を買うことではない――そう言われた気がして、見せる剣は鞘に収め、見せぬ剣を場の縄目に通すと腹を決める。

 

 治郎兵衛は舵輪を思い描く。橋を渡すには誰かが舵の“一本”を見張り続けねばならぬ。四郎兵衛の名に縛られるのではない。己が手で舵を執り、この国、この海を変える――短く、そう決めた。


 昌造は紙束の角を揃え、帳面の枠を心でなぞる。思えば平戸の生れが江戸の模型披見を端緒に、幾筋ものえにし手繰たぐってここに座っている。――縁は橋、言葉は板。通詞の役は板を並べ、隙間を塞ぎ、重みが来た時に一語で支えることだ。


 万は首を垂れ、鳴子の口に触れずにいた。人の礼に慣れてはいない。自分の“在りようあかす”、という志は半ばだ。――だからこそ、“器”に芯を入れるのは自分の務めだと、音のないところで静かに火が強まった気がした。


 藤兵衛は静かに息を納めた。異界おらぞで見た理と痛みを現世うつしよに織り込み、時を越えて自ら立ちうる国の“習い”を、先の世の仲間に遺す――先は未だ見えぬが、この一年で歩いた道は間違っておらぬ、と心の芯がわずかに温かくなった。



「――ここから四月よつき、土佐は胸を揃える。各々が受け持つ“骨”を詰めよ。言葉は短く、手は早く、心は乱すな」


 六人は同時に礼し、それぞれの束を手早く収める。戸口が開き、夕の風がひと筋差しこんだ。足音が廊下の板間に吸われ、ひとり、またひとりと出てゆく。


 講堂には、庭砂利の細い擦れが遠くを過ぎ、障子越しの白さがひと呼吸だけ薄くなって戻った。音の名残りは残さず、静けさだけが静かに居座った。

挿絵(By みてみん)

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