第四十五話 柏と片喰
安政四年一月。
梁の間を抜けた夕光が、斜めの帯になって床を渡った。細かな木粉がその帯の中でゆっくり沈み、時折、誰かの息に合わせるようにふわりと舞い上がる。舟渠の隅の一室、鉋の刃跡が残る杉板が十数枚、畳の上に整然と寝かされていた。
細川万は一枚を膝に抱え、口の厚みに指先を滑らせる。治具に通した弦を替えるたび、板の影がわずかに震えた。赤、黒、黄――三色の弦が順に喉元へ渡され、結び目が小さく締まる。指の腹でそっと打つ。
かつ、と乾いて高い赤。こつ、と芯の立つ黒。こっ、と柔らかく沈む黄。音は並ぶ。拍も置ける。だが、胸の奥に灯すはずの火が、まだ小さい。
「……何か、足りない」
万は板目の波を見つめ、思案の息をひとつ落とした。理は分かる。けれど、人の胸の理は、どこに置けば揃うのだろう。
戸口の方で、気配が柔らかく揺れた。
「おじゃまいたします、万さま。よう働きなさる――」
近藤長次郎が、菓子箱を胸に抱えて立っていた。日焼けした頬に、気兼ねのない笑い。けれど言葉は、丁寧な商いの調べで整っている。
「饅頭を、少し。熱うございますき、冷めぬうちにどうぞ」
「ありがとうございます。あとで鍛冶衆や大工衆にも」
万が礼を言うと、長次郎は鳴子板に目を止め、色の違う弦を一つずつ指先で弾いた。
「赤は下士、黒は上士、黄は民草……そう見えます」
「わたしにも、そう聞こえます。音は揃う。けれど――」
万は言葉を探し、静かに吐息を置いた。
「わたしは、人の情というものが、分かりかねます。どう鳴らせば、人が同じ方へ歩き出すのか。その“拍”の置き所が」
長次郎は、ふと目を細めた。まるで、波の筋を確かめるように。
「絵に聞くのが、ようございます。胸の中の拍は、図にすると見えることが、ようけありますき」
「絵に――?」
「私の絵の師匠、河田小龍先生のお宅へ、参りませんろうか。あの御方は、人の群れの線を描き分けなさる。鳴子の音にも、何か良き案を下さるやもしれません」
万は少しだけ迷い、頷いた。机の端で冷えた饅頭を一つ包み、外套を引っ掛ける。戸を閉めると、舟渠の外の風は、藍に似た匂いで頬を撫でた。
◆
築屋敷――鏡川の北岸、月の瀬橋の袂。細雪が静かに石畳を薄く均し、灯の影は川面に淡く滲み、落ちる雪片にほどけては消える。門をくぐると、障子の白が細長く続き、和紙の刷毛目と膠の艶が雪明りを受けて、冷たい光をそっと返した。
座敷の奥、屏風と画帖の向こうに、痩せた頬に穏やかな光を宿した三十路の男が、錦絵の下絵を起こしていた。
面相筆が静かに走り、朱の指示が摺り順と見当を拾う。脇には重ねた薄美濃の版下紙、小皿の色見本、盃に沈む雲母粉。筆洗いの水には、薄く藍が沈んでいる。
「小龍先生、近藤長次郎です。遅き刻に、かたじけのう存じます」
表口からの声と砂利を踏む音に、筆先が空中で一拍だけ凍り、余白の端にそっと墨を落として息を整える。面相筆を筆置きに返し、版下紙の角に文鎮を一つ置いた。袖口で雲母の粉を払ってから、静かに顔を上げた。
「こちら、岡豊で工をしております細川万と申す者――」
長次郎が座を正し、深く頭を下げた。女子を連れて夜更けに伺うのは本来ならはばかられること。小龍は一瞬、目を細め、座敷の端にいた小者を呼んで襖を半ば開けたままにさせ、場の手前を正すと、万の方へ視線を戻した。
「女子が工とな。美人画から出てきたようなお姿じゃが」
万は静かに会釈した。膝の上の手は白く細い。刃物に馴れた痕も、荒れもない。小龍はその手を一瞥し、ふっと笑みをやわらげる。
「工は手の荒れで決められぬ。眼と息が要る。――お座りなされ」
万が座に着くと、小龍は軽く頷いた。
「さて、何の用向きかな」
長次郎が口火を切る。
「先生、此度、新しい催しを立てております。殿の御密命にて、まずは内々に趣意を整えよとの仰せにございます」
ほう、と短く息を吐いた小龍に、長次郎は短く流れを述べた。
容堂公の内命を受け、東洋先生が「身分を越えて同じ拍で動く」祭りを浦戸で開く構想を起こした。これを一度きりの見世物にせず、土佐の上から端までを巻き込む“場”に仕立て、最後に皆で一拍を打つ“結び”を置く。その「結びの踊り」の知恵をお借りししたい。
「この”鳴子“を皆で打ち鳴らし、新たな世の迎えとしたいのです」
万は三色の弦を配した杉板を畳の上に差し出す。小龍は畳に差し出された板を一つ取り、耳の傍で軽く振ってから、親指の腹で口を押さえ、三色の弦を順に鳴らした。
「……よくできておる。田の鳴子は鳥を追ってばらばらに鳴く。しかし、これは人を呼び、揃える音じゃ」
「“慰め”ではなく“和合”。――上士も下士も、町人も山の者も、同じ拍で歩ける場を作りとうございます」
長次郎が付け加える。小龍は鳴子の口に指を当て、静かに頷いた。
「慰めは夜が明ければ薄れるが、和合は明日へ渡る。……拍を合わせる祭ならば人は歩く。流石は容堂公と東洋先生、面白き企みを考えなさる。――して祭りの名は?」
「新しき世を迎える祭り――“世さ来い”、と称しまする」
小龍はその名を一度、唇の内で転がした。
「――世さ来い」
二年前――安政二年に、土佐で『よさこい節』が大いに流行し、僧・純信とお竜の悲哀を謡う声が町々の夕に満ちたことは今も耳に新しい。
――だがあれは慰めの歌。この「世さ来い」は、和合の旗として掲げ直すべき名。小龍は鳴子をふと返し、三色の弦をよ・さ・こ・いの拍で試しに打つ。赤と黒と黄が一つに寄って、音はすぐ前へ出た。筆を取り、畳の端に大きく「世」の字を置く。
「名は旗じゃ。旗は、見せねば立たぬ。“世”を呼ぶ声はよい。口に出せば胸が前へ出る。ならば――」
「旧き舞では心に響かぬ。衣と器と行列で“新しさ”を見せて、耳で揃えるべし」
万は小さく頷いた。鳴子の口に添えていた指が、言葉に合わせて一度だけ息を吐く。
「まずは踊りの衣じゃ」
小龍は硯の水をひと撫でし、薄墨で素紙をすっと張った。
筆先が三つの葉を重ね、丸の中に三ツ柏のかたちを立てる。葉脈を一本だけ強く引き、葉先はわずかに上を向く。
「柏は冬に古葉を抱いて芽を待つ。代をつなぎ、家を守る“蔭”の徳。山内の家紋として、上に立つ者の責を表すに相応しい」
次に筆は花弁のような鋭い葉を七つ、風車に組む。中心は小さく堅く。
「これは片喰。踏まれてもすぐに繁り返す。長宗我部の家紋、七ツ片喰は、野に広がる勢い――再生のしるしよ。郷士・下士の“地の力”は、これで示す」
小龍は法被の裏表の輪郭を二筆で描き、柏と方喰の葉を散らして背へ置くと、地を藍で塗りこめる。薄墨で波を繰り返し、裾と袖口へ青海波を敷く。波頭は白で抜き、ところどころに小さな飛沫を散らす。
「背では柏と片喰が同じ衣に息をする。土佐は海で道を開く。地は藍、波は“船出”。――上と下が一つに見えれば、群れの胸は先に揃う。帯は生成り、袖は踊り用に少し詰める」
藍の青海波に散りばめた柏と方喰が馴染むのを確かめ、万が静かに言う。
「色が交わり、意味は一つに。――これで胸が揃います」
「うむ、では次に器じゃ。祭りには山車や神輿が欠かせぬ」
「それならば、素案はあります」
万象は懐から半紙を取り出し畳の上にひらりと広げた。白地に細い線で、二つの胴を梁で繋いだ骨組み。前はわずかに反り、後ろに黒い刃の意匠が一本、斜に据えられている。
小龍が身を乗り出し、覗き込む。
「……これは、船…いや、“蒸汽”の理を写した山車か。双胴に螺旋羽根――わしも万次郎から異国の船については色々聞いたが、このかたちは初めて見る。確かに“新しき世”の姿に相応しい」
「型は目を引きます。けれど――」
万は一拍置き、半紙の中央を指で押さえた。
「これだけでは、まだ器です。胸の火がまだ小さい。心の芯が要ります」
小龍は筆を取らず、目だけで笑った。
「言うた通りじゃ。器の芯――それを乗せよう。容堂公が座し、自ら先導なさればよい」
長次郎が拳を打ち、嬉しそうに膝を進める。
「御前を中央に高座、その前に双頭の龍を据えて“舳先”に見立てるがはどうです。三味線・尺八・太鼓を後段に載せ、曲で拍を置きながら練り歩く。脇は馬廻衆が固める。香炉を仕込み、煤の煙を流せば、遠目にも“蒸汽”が立つように見えますき」
万は半紙の余白に、手早く寸法の枠を描き足す。
「煙は香、汽笛は法螺と鐘。船尾の刃は黒漆で“掴む刃”を示す。胴は藍の青海波、梁には波頭を散らす」
小龍は墨を含ませ、半紙の“船”に衣を着せるように線を置く。
「異なる紋が同じ呼吸をし、藍の地に波を敷く――法被と同じ理を、この車にも通す。上と下が一つに見えれば、群れの胸は先に揃う」
長次郎が商いの声色で畳みかける。
「山車は浦ノ内の船大工衆に任せましょう。車輪は四尺半、回しは六人。太鼓は桶屋に張り替えを頼む。馬廻衆の手配は小南様に口入れ願いとうございます」
小龍は頷き、さらさらと“動く図”を描き増す。前段には鳴子を持つ子が二列、色を交互に。後段の台には三味線三人、八尺ひとり、太鼓二人。高座中央に御座、その左右に散らし紋の幔幕。側板には青海波の地に波頭を刷り、角の金物は焼き戻しの藍色で鈍く光らせる。
「謡は耳慣れた“よさこい節”で始めるが良い。二番より後は新しき節と調子にて世の改めを示す」
小龍は筆を洗い、淡い藍をもう一度だけ含ませ、図の余白に流れるように歌詞を書く。
町と山から 拍寄せ合い
柏と方喰 袖に咲く
世さ来い 世さ来い 船出の波に
「――これなら目と耳が揃う。絵と曲で“新しい土佐”を渡す」
小龍は筆先を止め、二人を見た。
万は半紙の四隅を押さえ、仕上がった素描をしばし眺めた。藍の地に、柏と方喰が溶け、龍の口から白が揺れ、煙が細く立つのが目に見えるようだ。
「……これなら火が入ります。器が心の芯を連れて歩く」
長次郎は店先の口上で運ぶ。声はやわらかいが、要を打つ。
「銭の道はお任せ下され。東洋先生から商人座へ内々に話を通して、阿波筋から藍と反物を仕入れる。三割は寄進、残りは祭明けの口銭立替えで払う段取り。商人座に屋台を手配させ、売上から二割を祭の勘定に回します」
図の余白に商人座の配置を書き込んだ。呉服・酒肆・菓子・焼物・乾物——屋台の並びが、川風の通りを塞がぬよう斜に組まれてゆく。
「また、鳴子と合わせて“全ての屋台で使える引換札”を売ります。こうれば手をかけて配らずとも、鳴子が皆の手に渡ります。札の余りは来年に繰り越し可。銭を“場に留める”仕掛けです」
長次郎はさらに畳みかける。
「最後に後日の市。大祭の翌朝を“新物市”に。祭で動いた銭を商いで受け止めます。祭は一夜、商いは日々。利の還りが大きいと分かれば、商人座も喜んで寄進に応じましょう」
ことばを置き終えると、小龍は筆を寝かせ、目を細める。
「触れは、町触に加えて木版摺りのちらしを合わせよう。“世さ来い 大祭”の題にわしが錦絵を描く。番所と会所で配り、祭りが迫れば一日二度の口上を触れ太鼓で回す」
小龍はさらさらと、行列の最終形を記して手を止めた。先頭の子らの鳴子が左右で交互に色を作り、職人と町人が同じ袖で歩き、中央高所の御座には龍を象る山車の煙が薄く立つ。
三人は座を正し、短く礼を交わした。外は宵の細雪が音を沈め、行灯の灯が川面に細く滲む。雪明かりがわずかに青を起こし、鳴龍丸を模した山車が先に立ち、人の群れの胸がひとつに揃う光景が、障子の白に薄く映った。




