第四十四話 もう一人の帰還者
安政三年十一月、江戸・本所南割下水。
湿りを帯びた潮風が、干し網の匂いと混じって長屋の棟を撫でた。日暮れの空は鈍い灰に落ち、運河の面に灯の影が震えている。伊豆韮山代官・江川英敏の江戸屋敷の二階には、紙の音と、鉛筆のこすれる微かなざらつきが絶えなかった。
借り住まいの部屋の中央に据えられた長机の上には、測桿、砂時計、四分儀、羅針盤、端に積まれた洋書と数表。紙端には、羅針の方位と太陽高度から正午の緯度と経度を求める計算式が、整然と並べられている。その傍らに、煤の匂いの付いた若者が一人、袖をたくし上げて筆を運んでいた。
中浜 万次郎――異国帰り。土佐の浜を離れて海を渡り、言葉と技術を持ち帰った男である。
階段を二段上がったところで、軽い足音が一つ止まり、もう一つがその後ろにぴたりと重なった。戸口で姿勢を正し、二人は同時に名乗る。
「土佐の坂本竜馬です。こちらは、武市半平太」
「ご無礼仕る」
万次郎が顔を上げ、筆を置いた。黒い瞳の奥に、潮の色が一瞬揺れた。
「おお、土佐の。……坂本様に、武市様。よく来られました。容堂公よりご来訪の旨、伺っちょります」
江戸言葉に土佐の音がわずかに混じる。机の上の紙を一枚、ふわりと横へ滑らせると、そこには細かい数字がぎっしりと並んでいた。方位、時刻、潮。記号は英字、注は和語。海の数が、二つの言葉で結ばれている。
竜馬は目ざとく机の端の紙束を見て、首を傾げた。
「それは何の書ながです? 異国の帳面かえ?」
万次郎が紙を一枚そっと横へ滑らせ、穏やかに笑う。
「お上から訳を仰せつかっちょります“ボーディッチ”言う航海の本でございます。海で道を取る算用と規矩が詰まっちょりましてのう。太陽の高さや方位から船の居場所を割り出すやり方、潮の読み方――土佐の沖でも役に立つ理屈でございますき」
竜馬が「ほう」と息を漏らす。万次郎は筆を置き、束を軽く整えた。
「清書はまだ先が長うございます。けんど、骨はもう見えちょります。……今夜は、何をおたずねで?」
竜馬が背中で半歩、後ろへ開き、武市半平太に視線を送る。半平太は、静かに一礼した。背丈は高く、声は低い。
「……おんしは潮に流されて、黒船の国に住みよったと聞いた。異国の政について、教えてもらいたい。刀でない作法で国の拍子を揃えると聞いた。これは、まことか」
万次郎は頷いて立ち上がり、壁に立てかけてあった簡易の黒板を引き寄せた。白墨で四角を描く。大きな四角の中に、小さな四角をいくつも区切り、上に“合衆”と書き、その右に“州”。さらに別の場所に円を描いて“人民”。線で結び、矢印をいくつか置く。
「アメリカいう国は、州と合衆が二段重ねに載せちょります。州には州の掟、合衆には合衆の掟。てっぺんに王様はおりません。かわりに“大統領”を、州ごとの票を積んで選ぶがです」
「……票、で」
「ええ。わしも最初はたまげました。人が自分の名で印をつけるがです。刀で奪うがと違うて、票は遠うても国の拍子を曲げますき。選に漏れた者は、次にまた刀取らず、紙と口で争うて決め直します。裁きも、役人ばかりでなしに、陪審いうて町の衆が座に加わります。新聞という報が毎朝、街角で売られ、政のありさまを声にしちょります」
竜馬が首を傾げる。
「新聞ち、瓦版のようなもんですろうか?」
万次郎は指を一本立て、穏やかに笑った。
「似いちゅう所もあるけんど、肝はだいぶ違います。瓦版は一枚刷りで、見世物や騒ぎの触れが多うて書きっぱなしじゃ。新聞は日毎や週ごとに定めて出して、版元が名を賭けちゅう。編集の者がおって、報せと意見を分け、読者の投書も載す。誤りゃ訂正も出す。寄合や選挙の前には、紙面が人の腹を動かすがです」
白墨の先が、円から円へ、すべるように動く。半平太の目は、線の交わる一点一点を追い、呼吸が半拍遅れる。一拍の沈黙が、胸の奥の堅い石に触れて、音もなく落ちた。
「君を頂くのに、刀でなく票でと……」
「刀は近うば切れる。票は遠うても国を曲げる」と万次郎は静かに継ぐ。
「刀の道理は国を守るに要ります。けんど、国を続けるには、票の道理も要るがです」
竜馬は早耳の笑いを一つ噛み殺した。
「船の規矩に似ちゅう。舵の角度と回転の拍――それが揃うて、船は曲がる」
半平太はしばらく黒板を見つめていた。やがて、静かに息を吐く。彼の中の“拍”が、ほんの少し、位置をずらした。
「……もう一つ、よろしいか。新聞と申すは、誰が掌に置く。言葉は、誰のものか」
その声色には、さきほどまで微かに混じっていた“元漁民”を下に見る硬さが抜け、問いそのものを確かめる調子が宿っていた。
「誰のものでもあり、誰のものでもない。売るは商人、書くは記者。けんど、読むは人です。人が読み、人が怒り、人が笑い、人が動く。……時に嘘もある。けんど、嘘と戦う手立ても、やはり言葉ながです」
太い顎に手を当て考え込む半平太を、竜馬が押し退のける。
「半平太、おまんの話の番は終いじゃ」
そして、爛々とした目で問いを続ける。
「中浜先生のことは、土佐の小龍先生から、よう聞いちょります。けんど、直接、お話を聞きたいがです」
竜馬の食い気味の言葉に、万次郎は懐古の表情で窓の外、暗い運河の先を一瞥した。それから湯呑をそっと置き、指先で湯気を撫でるようにして頷いた。
「――ほんなら、直接に申さしてもらいましょう。河田先生には、わしの口からも、ようけお話し申しましたき」
河田小龍は、東洋が土佐に戻った万次郎の取調べを行った際に世話役をした藩士――本業は狩野派の絵師、饅頭屋長次郎こと近藤長次郎の師でもある。小龍は万次郎と自宅で起居を共にし、万次郎に読み書きを教えつつ、小龍は英語を学んだ。二人は身分を越えた友と呼べる間柄であった。
小龍が、万次郎から聞いた話に挿絵を加えて書いた『漂巽紀略』は諸大名の間で評判になり、万次郎が幕府直参として取り立てられるきっかけとなった。
万次郎は黒板の横、壁際の地図に指を当てる。海の筋をなぞる指が、ところどころで止まり、また動き出す。
壁際の地図に歩み寄り、細い白墨で土佐沖から南へ弧を引く。
「十四の時分でございました。土佐の浜で鰹を追うちょった最中、急な時化にやられて、舟ごと孤島へ流れ着きました。食うもん言うたら、雨水と海鳥。火も心細うて、日と夜の区別だけ数えよった――そんな有様で」
白墨が、小さな点を一つ打つ。
「そこへ、米国の捕鯨船が通りかかりまして。船頭がわしらを拾うてくれました。わしはその家で世話を受け、英語の読み書きと算術、それから航海の技を少しずつ学ばしてもろうて、また海へ出ては鯨を追い――そんな暮らしをしちょりました」
竜馬の目がますます光る。半平太は静かに腕を組み、息を一つだけ深くする。
「日ノ本に戻んたらどんな扱いを受けるか分からん、このまま米国におったらえい言うて、ようけの人から引き止められました。――けんど、心は、ずっと土佐へ帰る道を探しよりました。金鉱掘りで金を稼いで、大海を回り、南の島へ渡り、願うて願うて、とうとう琉球へ上がらしてもろうたがです。そこからはお上のお取次ぎ。薩摩に回され、長崎に回され、やがて江戸へ――そこで、ようけお尋ねを受けました。異国の言葉と海のこと、見たもん聞いたもんを、こじゃんと申上げて、ようよう土佐に戻んてきました」
万次郎は白墨を置き、こちらに向き直る。土佐訛りが柔らかく出た。
「けんど、その後は、通詞や測量の手伝い、航海書の訳を仰せつかりまして、いまは蕃書調所のお務めを拵えているところでございます。……荒い波と、細かい数と、ようけの人の情けで、ここまで連れて来てもろうた――そういう身で」
竜馬の口からぽつりと、言葉が漏れた
「……まるで藤兵衛のようぜよ」
万次郎が首を傾げる。
「藤兵衛とは?」
異界オラゾのことは他言無用である。竜馬は半拍だけ目を伏せ、言葉の置きどころを決めて顔を上げた。
「朝倉藤兵衛いう、塾の同志です。”寅の大変“で大波に呑まれて行方知れずになりました。けんど、七日後に戻んて来た。藤兵衛は……先生と同じ“新しい息”が、胸の中にあります」
異なる世界へ流され、そこで数多の知と技を修め、身を立てながらも、強い意志を胸に故郷へ還ってきた――その二人を、会わせてみたい。竜馬は強くそう思った。
半平太が怪訝に横目で竜馬を見る。竜馬は続けた。
「土佐では、東洋先生が少林塾で門弟を育てよります。土佐から日ノ本を変えるいう心づもりです。先生が土佐に戻んて来てもろうたら百人力。若いもんに、海の数と外の理を、どうか教えたってつかあさい」
万次郎は、照れたように眉を和らげ、言葉を丁寧に選んだ。
「……戻りたい気持ちは、ようけあります。土佐は、わしの浜ですき。けんど、今は直参でございます。正月早々に蕃書調所が本格開所になりまして、英語と航海術の教授を命ぜられちょりますきに。すぐにというわけには、なかなか参りません」
竜馬は大きく頷いた。声の調子は落ち着いているが、目の奥は走っている。
「道は、わしらがつけます。容堂公から老中・堀田様へ――時節が来たら、東洋先生が筋を置く。先生が土佐へ戻んて来られるよう、手続はこちらで拵えますき」
万次郎は真顔で礼をとった。
「ありがたいことでございます。道がついたら、わしも土佐の若いもんに、票の話も潮の話も、図と数も、ぎっちり教えさしてもらいます」
竜馬はそこで、懐から巻紙を抜き出した。机上にすべらせてひらくと、墨の線が海の匂いを帯びて立ち上がる。
「――なら、まず見てもらいたい。この舟を土佐で拵えよります」
万次郎は、二つの細胴をつなぐ連結梁と、艫に据えた螺旋に視線を落とし、指先で艫羽板の角をそっと押さえた。瞳に、遠い海の鈍い光が宿る。
「双胴にスクリュー――米国でもこのような舟は見たことがありません……土佐に、ここまで“目”の通った図があるとは」
脇で半平太が、はっと息を呑む。
「――竜馬。なんなら、これは。わしは初耳じゃ」
竜馬は、いたずらを見つかった子のように笑い、しかし声は真面目だ。
「言う前に“見せる”を先にしたまでじゃ。おまんが“攘夷”に気を取られゆう間にも、“土佐”は先へと動きゆうがよ」
万次郎は短く頷き、図の水線をなぞりながら、ゆっくりと言いおいた。
「この舟は、間違いなく異国に立ち向かう力となるでしょう。わしも及ばずながら、いずれ必ず土佐のために力をお貸しいたしたい」
三人の間に、海の匂いのする沈黙が落ちた。外では潮が返し、運河の灯が細かく砕けて、またすぐ一つに戻った。
こののち――中浜万次郎の紹介で、二人は蕃書調所に通った。儒学者の古賀謹一郎は政体書の図を教え、蘭学者の箕作阮甫は西書の地理・統計の扱いと、語の標準を手渡した。
それからは長崎海軍伝習所の勝麟太郎の伝手で、軍艦掛・永井尚志に異国の制度の筋を聞いた。
そうして幾度も異国の知と技に触れるうちに、武市半平太の志は、攘夷の旗をそのままに、まず“攘害”――無用の衝突を避け、被害を減らす――、次に“和夷”――異国の知と技を取り入れて備えを厚くする――これらを優先すべしと、ゆるぎなく転じていった。




