第四十三話 鳴龍回頭
横浪半島の岬が、陽の光で刃のように細く見えた。潮は引きの名残をゆるく曳いて、沖へ出るほどにうねりが深くなる。鳴龍丸の中程には白布の御座所が設えられ、殿さまと三家老、東洋先生が座している。音は少ない。汽缶の息だけが、まだ小さく胸を鳴らす。
私の名は朝倉惣兵衛、齢十八。少林塾に入って日は浅い。兄上に誘われたのだ。兄上は藩校に通っていないにも関わらず、昔から学はよくできたが、剣の腕は並であった。しかし、弟の自分から見れば頼りになる自慢の兄であった。
そんな兄上は「寅の大変」の折に、相撲勧請を見に行ったまま行方知れずとなった。七日経っても屋敷に戻らず、津波に呑まれ亡くなったのだと葬儀を済ませ、墓石を建てて拝んでいたところ、ひょっこりと帰ってきた。
生還した後の兄上は、何もかもが変わっていた。変わったといっても、声色が別人になったわけではない。笑い方も、叱る前の黙り方も、昔の兄上のままである。
けれど、立つ場所と物の見方が違っていた。戸口に入るとき、人の輪に加わるとき、兄上はまず場の息を聴く。潮の行き来を測るように一拍おいて、それから短く要を言う。その一言で、人の動きがすっと揃う。勝負で先を奪う人ではなく、場の先を取る人になった――そう感じた。
自分の墓石を前に兄上は「墓はそのままでえい」と言った。形ばかりの固執ではない。あの石の前に立つと、“残った者の側の責”が胸に立つ――兄上はそういう顔をしていた。墓は庭の端に残り、盆の折には今も線香が上がる。
数ヶ月前、兄上に手を引かれ、私は少林塾の門をくぐった。塾の人々に会って、また兄上の変化がよく分かった。
上士の後藤良輔さまは誰に対しても温和で、数と記録の話を私にも分かるように噛んでくださる。乾退助さまは同じく上士であるが、現場の段取りとなると私のような新参にも目配せしてくださり、時に弟のように声を掛ける。
そして、細川万さま。女子ながら舟渠を仕切る工人で、機関の音を聴き分ける耳と常人ならぬ膂力を持つという。
多くの時を浦ノ内の舟渠に籠り、私の前に現れることは少ないが、初めてお見えした時はその儚い美しさに思わず息をのんだ。鍛冶衆が敬って「金屋子さま」と呼ぶのを耳にすると、胸のどこかがひやりとし、同時に、兄上と似た深い気配をわずかに覚える。なぜ似ているのかは分からぬ。ただ、何か同じ根を持つように感じた。
兄上は剣の腕においても“並”とは言えぬものになっていた。どこで身につけたのか分からないが、“氣有理流”という聞きなれぬ流派を会得し、退けば乱れず、進めば無理がない。
しかし塾の中で、剣を誇らない。昔の兄上なら、打ち合いの約で真っ先に前へ出たろう。今は違う。人の拍と拍の間を合わせ、言葉を一手先に置く。
東洋先生の鞘――そういう評判を耳にしたとき、私は腑に落ちた。刀を納める鞘は、抜き身より目立たない。けれど収めどころを失えば、刀は途端に人を傷つける。兄上は、あの大難から戻って、鞘になる道を選んだのだろう。
私は兄上のようにはいかぬ。稽古で打ち込めば肩は上がり、帳面に向かえば字は踊る。それでも兄上に言われたとおり、目で数え、数で心を落ち着かせる練習だけは怠らぬと誓った。
旗の意味、舵輪、波の肌理――そういう小さなものを一つずつ掬ってゆけば、いつか兄上の背に手が届くかもしれぬと、私は信じている。
甲板の役は五つ。船尾の指揮台に兄上。測角と記録は良輔さま。甲板のまとめは退助さま。機関は万さま――だが、万さまは女子であることを知れると面倒だと言って、機関室からは出てこられない。伝声管と機関鐘でやり取りする。わたくしは投索と見張り、巻き取りの手。兄上はふとこちらへ眼を寄越し、唇だけで言った。
「惣兵衛。舵輪の手は一本だけ見張れ。眼で数えるがじゃ」
「はい、兄上」
殿さまの御前は張り詰めていた。筆頭家老の深尾さまの視線は秩序をなぞるように静か、宿毛の家老・山内さまは海面と桁の据わりを見るように細い、舟手家老の五藤さまは紙と筆に落ちる数の行き先を見ている。
東洋先生が起ち上がって一礼した。 「ただいまより、外海の息をご覧に入れまする」
号令が短く渡る。汽缶の火が強まり、機関鐘が一度、鋭く鳴った。艫羽板の角度を合わせる鈍い音が船の骨を伝う。外輪ならば叩いて押し出すが、うちは艫の螺旋で水中の“筋”を掴む。鳴龍丸は桟橋を離れ、岬を斜めに見ながら沖へと出た。
良輔さまはいつもの調子で、丁寧に数を言う。
「速力、五。針路、南東。波、二。風、西寄り一」
上士でありながら誰にでも温かい。私のような下士の新参にも、言葉を崩さないで教えてくれる。乾退助さまは対照的に、現場の風で話す。
「惣、綱は足もとへ。巻くとき腹で取るがや、腕で取ったらいかんぞ」
弟分を気にかける兄貴分の気配がありがたい。万さまの顔は見えない。機関室の扉の向こうで、鉄と油の匂いとともに、短い鐘の音だけが返ってくる。
岬の先を過ぎると、風の筋が変わった。右舷の海が黒く沈み、横浪が一段高くなって寄せる。御座所の白布がわずかに鳴った。兄上が低く言う。
「波が高い、見張れ――」
その刹那、舵輪が軽くなった。手一本に置いた眼が、空回りを見た。舵鎖の閂が軋み、どこかで折れる鈍い音が続いた。
舵の手応えが抜け、船首が、潮に圧されて岩の多い浅瀬の方へすべっていく。足裏に、甲板の軋みが薄く走った。
東洋先生の息が、ほんの一つだけ止まる。御座所の奥で、その右手が膝の上で小さく握られ、すぐにほどけた。深尾さまは扇骨を半ばで止め、目だけが舷の黒さを測る。山内さまは身を半寸前へ送り、柵の綱を探る指がわずかに震える。五藤さまは筆の穂先を紙から離したまま、数を言い足すのを忘れた。
兄上が殿さまの御前に向き直り、深く一礼した。
「只今より――操船の妙をお目に懸けまする」
言い終えるやいなや、声が甲板に落ちる。
「回転半――止め――逆一。艫羽板、右、十五。右舷、海錨用意。良輔、距離と漂いを読め」
機関鐘が三度、間を変えて鳴った。伝声管の向こうで返事はない。ただ、螺旋の息が命じたとおりに短く変わる。万殿は、音で返すのだ。退助さまの声が甲板に通る。
「海錨、用意! 惣兵衛、綱を取れ。二呼吸待て――放れ!」
合図と同時に投げる。重みのある錨が水へ入り、綱がするすると伸びる。やがて曳索が張って、右舷の前方に目に見えぬ爪が、海の中にひとつ掛かったような手応えが来る。同時に、艫で螺旋の筋が右へ寄る。艫羽板の角度が、水の掴み方を片寄らせるのだ。甲板の鳴きが「脈」から「筋」へと変わる。叩くのではなく、掴む。船の揺れが変わり、膝がその違いを先に覚えた。
良輔さまが、短く、はっきりと言う。
「距離、三町半。三拍で回頭始まります」
兄上は頷きもせず、舵輪の空回りを一度だけ見た。
「惣兵衛、綱を腹で持て。退助、もう半歩先じゃ。よし」
小さく打ち合わせの声。螺旋が逆に回り、艫羽板が右に角を取ったまま、船尾そのものが右から押されて左へ流れる。右舷前方で海錨が一瞬しゃくり、曳索が弾いて――船が、見えない一本の縄で引かれたように、ゆっくりと回り始めた。海錨が回転の中心を作り、後方の螺旋がその周りを押し回す。舵輪は空を回っているのに、船は穂先を中心に回転し始めた。
右舷の前へ伸びた綱が、その先で水の中の岩にでも引っかかったように固くなり、鳴龍丸の鼻先をそこへ結びつける。そこを支点に、船尾の螺旋が右側に偏った筋で船の後方を押し、船体がその支点のまわりを、縄を片手で振り回す如く、すべっていく。舵がなければ曲がれぬ、と思っていた私の思い込みは、海の手触りで裏返った。
御座所からは声がしない。殿さまは扇を胸の前に持ったまま、ただ一度だけ、その扇をゆっくり傾けた。深尾さまは眉をほんの少し寄せ、山内さまは海面の筋を、五藤さまは兄上の号令の間を、それぞれに見ている。
回りきる前に、兄上の声がまた落ちる。
「逆を止め、微速。艫羽板、戻せ。――退助、海錨、回収」
「おう、惣、巻け!」
曳索の水が重い。腕ではなく腹で受け、足で引く。退助さまは綱のたゆみを見て、私の手の位置を半寸だけ直す。万さまは機関室で、艫羽板を零の角に戻し、回転を常用に滑らせる。
良輔さまが御前に向き、簡潔に言上する。
「――只今の操法、舵故障の際の披見にて。速力、針路ともに戻り申した」
東洋先生がうなずいて受け、言葉を継ぐ。深尾さまが扇骨を指で押して、短く言った。
「見事。規矩は――」
「規矩は、後にて整えまする」
兄上が即座に応じる。
「まず“場”を保ち申した。応急の操舵具を組みまする」
応急、と聞こえた時には、良輔さまはもう舵柄へ向かっていた。舵鎖が切れて舵が利かなくなれば、舵柄へ直接、滑車を当てて綱で引く――。退助さまが小滑車と綱を持って走り、私はそれを受けて舵柄の穴に通し、甲板上へ戻す。二人の手は、言葉より先に動く。兄上の短い号令が、それぞれの手の長さに合わせて落ちる。
「右、引け――緩め――左、引け」
舵輪は空のままだが、今度は甲板の綱が言うことを聞く。船はまっすぐ、岬から離れる針路に戻って、息が深くなった。私は初めて息を大きく吐いた。膝の震えが、遅れて来た。
御座所から、殿さまの声が一つ。
「――よう整うた」
その一言が甲板の隅々まで伸びて、綱の毛羽立ちの一本一本まで寝かせていくのを感じた。東洋先生の肩から、わずかに力が抜ける。兄上はそのまま舵柄の綱を二度三度引いて、手応えを確かめてから、ようやくこちらを見た。視線の端で、ほんの少しだけ笑ったのが、私には見えた。
万さまは、扉の向こうで何も言わない。だが、機関の息は、さっきまでよりもさらに静かに、深くなっている。
良輔さまは筆を取り、今日の数を紙に落としていった。「速力」「漂い」「回頭の拍」。御前に渡す言葉の形に整えていく。兄上は綱の端を締め落としながら、退助さまにだけ聞こえる声で言った。
「舵鎖の閂は替えを取れ。材は今のより一段、硬いものを。万殿には、艫羽板の蝶番も見てもらえ」
「承知した」
退助さまは返事をして、私の肩を軽く叩いた。
「惣、よう巻いた。怖かったか」
「……少し、いえ、だいぶ」
「だいぶでえい。怖いときは、数を先にする。眼で数えたら、手は勝手に動くがじゃ」
兄上が私の方へ顔を向けずに言う。
「惣兵衛。いまのが“場の先”じゃ。戦で先を取るのとは違う。場を整えて、先に声を置く。それで人が動く。人が動けば、事は動く」
「はい、兄上」
兄上――朝倉藤兵衛は、もはや私の知る兄上ではない。寅の大変で死にかけて生きた兄上は、あの津波の中で、何か別の“理”の手触りを拾ってきたのだろう。剣の腕も並だった人が、いまは東洋先生の“鞘”になって、海で先を取る。
御座所では、深尾さまが短く東洋先生に言葉をかけ、山内さまが海図を指さし、五藤さまが段取りを整え始めていた。「見せる」「数」「規矩」――三つの順が、御前の手の中で形になっていくのが、遠目にもわかった。殿さまは扇を畳み、静かに立ち上がる。船は、岬の外の青へ真っ直ぐに入っていく。
兄上が最後に御前へ向かって、静かに言った。
「舵の故障、幸いにて披見と相成りました。先々、いかなる風にも、場を外さぬよう励みまする」
殿さまは、目を細くしただけで答えた。言葉は要らぬのだろう。数は、怖れを溶かす。数は、手の震えを止める。目で数え、数で人を落ち着かせる――それが、兄上の“鞘”だ。
静かな刻が過ぎていく。うねりはあるが、甲板の軋みはもうない。横浪の岬が背中に遠くなって、鳴龍丸は外の青へ出た。風は少し冷たくなった。
甲板の上で、私は舵を見張り続ける。機関室の扉の向こうで、短く澄んだ鐘の音が一つ鳴った。万さまの返事だった。音はすぐに海へ溶け、鳴龍丸は何事もなかったように、静かに進み続けた。




