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第四十二話 鳴龍丸披見

 安政四年十月十五日。朝の静寂がまだ水面みなもに残っていた。浦ノ内の入り江は、山の肩から降りる薄い靄に半ば覆われ、鳴無おとなし神社の鳥居が水鏡に赤く二度映っている。


 この社は二代藩主・忠義ゆかりの地である。社叢は息を潜め、扁額の影だけが靄に沈み、誰の気配もないのに――まるで見えぬ手が場を整えているかのようだ。


 風はいったん止み、波は小さく肩をすくめて、再び息を吸い直した。


 十五代藩主・山内容堂は、いつものゆったりとした歩幅で参道の玉砂利を踏み、鳥居の前で足を止めた。


 脇に、深尾ふかおかなえ山内やまのうち主馬かずま五藤ごとう主計かずえの三家老が並ぶ。遠巻きに側用役の小南こみなみ五郎右衛門ごろうえもんが控える。


 吉田東洋はそれより半歩前に出て、神前に静かに一礼した。


「殿。まずは目でお受け取りくだされ」


 東洋が言うと、社殿の陰から低い合図が一つ落ちた。鳥の羽音ほどの短い音。それに呼応して、対岸の木陰がゆっくり割れる。


 海へ突き出た鳥居の先。最初に主馬の眼が捉えたのは、水の線だった。青黒い帯の奥から水面を切り分ける二つの細い船体の影が現れる。


 続いて鼎の眼が、繋ぎ目へ寄る。双胴を結ぶ梁の結わえ、板の継ぎ、表板の張り。


 主計の眼は、欠けているものを見る。外輪の箱がない。帆柱もない。細長い煙突が一本、薄い煙を吸い上げる。


 木陰から押し出されたそれは、鳥居の沖を目指してゆっくりと進む。水の上に斜めの光の筋が走り、双の腹がその筋を縫うたび、波紋は叩かれず、整っていく。


「これが、符牒『波頭はとう』――鳴龍丸めいりゅうまるにございます」


挿絵(By みてみん)


 長さ十八間(約32.7m)、幅七間(約12.7m)。蒸汽船の中では小型とは言え、その見慣れぬ威容に三家老は、無意識に息を呑んだ。


 筆頭家老・深尾鼎は、帳面の行に落とし込む言葉を探す癖を抑えきれず、しかし先に出たのは素直な吐息だった。

「これを……土佐で拵えたと?」


 宿毛知行者・山内主馬が唸るように声を出す。長く土佐の西端の海を治めてきた目にも初めて見る型だ。

「……双胴とは、船底の据わりがえいのう」


 藩の舟手を仕切る御用掛でもある五藤主計は、普段なら数を先に置く男だが、目に呑まれて先に口が出た。

「外輪が無い――どうやって動いておる?」


 東洋が、容堂の顔を一度だけ見て、短く頷く。


「水の下に刃を置きまする。泰西にて“螺旋羽根スクリュー”と呼ぶ仕掛け。水を叩かず、掴んで進む」


 合図とともに、船尾の水面が一瞬、黒く切り取られた。覗き窓のように開いた板の奥、八尺(約2.4m)に及ぶ四枚翼の黒い刃が、ゆっくりと姿を見せ、すぐにまた水に隠れる。鳥居の下の水が、押されるのではなく握られて動くように、深いところから筋を立てる。


「これは――」


 主計の声がかすかに震える。


「浦戸番所御用手附・淡輪治郎兵衛の案にて。岡豊の工人・細川万の知、久礼田の鍛冶の手を束ね、石立の砲鋳所にて鋳た。――機関も仮にござるが、岡豊の工人の自作にて」


 東洋は、功を自ら名で釣らず、地で明かす。容堂がわずかに口角を上げる。


「仮機関ながら息は深い。蒸気を二度働かせ、吐いた息を冷やして水に還す。火を入れれば、浦ノ内の湾を一周して見せまする」

東洋は、その仕掛けを簡易に説明した。


 “興が乗った”万象が、全知たるアシラの記憶で造った仮機関は当時の単純機関でなく、複式表面復水型で、低出力ながらはるかに燃費・航続が向上したものになっていたが、その旨を知る者はいない。


 船は鳥居の前で姿勢を整え、短く低い息を吐いた。汽缶の奥から、海の底を撫でるような音が上がる。甲板のどこかで弁が開く乾いた音。続けて、音の輪郭が太っていく。炭の匂いだけがわずかに濃くなり、白い息が細く長く伸びる。


 やがて鳴龍丸が、鳥居の前で静止した。鳥居の赤が水に映り、その足元で、黒い十字がいったんだけ水底に影を刻む。容堂の顔に、少年のような光が一瞬宿る。


「これぞ、“新しき世”の姿じゃ」


 容堂のこの一語が合図になった。船尾で旗が振られると、機関の鼓動がひとつ詰まった。鳴龍丸は、まずゆるゆると進み、次いで息の深さに合わせて速力を増した。水面に外輪のような叩き波は立たず、螺旋がつかんだ細い筋だけがすっと伸びる。舵に返る震えは糸のようにかすかだ。


 やがて入り江に突風が入る。横浪半島の返し風で水に映る鳥居がゆらりと歪み、白い波頭が斜めに走った。


 双胴の船体に横波が打ち寄せるが大きくは傾かない。 二つの胴に支えられ、揺れの底でいったん止まり、すぐ戻る。重みが真ん中へ集まり直すのが岸からでも見て取れた。


「……揺れが小さい。砲の狙いが狂わん」

 主馬がぽつりと落とす。


 鼎は、帳には載らぬ利があることを認める口で言う。

外海そとうみの荒波にも耐えうるか…」


「黒煙が立たん。煤けが少ないゆうことは、炭の食いようが違う」

 主計は、内原野の窯を読んできた目で波と煙を量り、自分の言葉に置き直す。


 鳴龍丸は、鳥居を右に見ながら浦ノ内湾を半周し、沖の浅瀬を避ける角度で、ゆるやかに回頭した。船尾の刃は水の下に隠れたまま、羽音のない生き物のように、ただ水を掴んで押す。


 神前を一周し、社の前の仮の船着きへ戻る。艫綱が投げられ、杭に巻かれる音。機関の息が少しずつ薄くなる。水の渦がほどけ、鳥居の赤がまた静かな二重の影に戻る。


 しばし、誰も言葉を置かなかった。風の向きが変わり、社の木の葉が一度だけ揺れた。


 最初に口を開いたのは、鼎だった。声は低い。冷たさではなく、秩序を立てる者の責を帯びている。


「見事にございます。理も筋も、目に入るものに不足はございませぬ。……ただ――」


 彼は、容堂をまっすぐに見た。鳥居の赤が瞳の奥に細く差す。


「僭越ながらお伺い申し上げます。……いかなるご深謀あって、我ら三家老に秘されましたか。公儀の座を崩さぬ道筋を、この場にてひとことお示し賜れますれば」


 言葉は刃先を立てず、しかし芯を隠さぬ。座を崩すための問いではない。座を保つための問いだ。容堂は肩の力をわずかに抜き、少し笑った。笑いといっても、周りの空気を緩めるためのものではない。自分の胸の内の秤を、今この場で出して見せようという笑みだった。


「鼎。のう」


 容堂は鳥居のほうを見たまま、ゆっくり言葉を置く。


「公儀への算段はすでにある。密かに老中・堀田正睦には筋を通しておる。長崎へは海軍伝習所と阿蘭陀オランダ商館の名で公に通るよう、奉行所の筋にて手を置いてある。伝習で見たものは、見たと申せる形に。そのうえでじゃ」


 容堂は、三家老の一人ひとりを見る。深尾、主馬、五藤。三つの眼の奥に、それぞれ別の秤があるのを確かめるように。


「お主らの懸念は、見えておる。名分、手続、政の秩序。――そのどれも、わしは軽んじぬ。軽んじぬが、潮の間はある。潮を待たぬ大きな器が海に現れておる。わしは、その間に器を先に据えた。見せて、数で落とし、規矩で縛る。順はそれしかなかった」


 鼎は、容堂の言が軽口ではないと知る口で頷き、なお問う。


「なぜ我らへは告げられず、ここまでお運びなされましたか」


「試した」


 容堂はあっさりと言った。三家老の眉が同時にわずかに動く。


「新しき世に歩を合わせられるか。わしの企みに気づけるか。家を預かる者として、わしはお主らの眼を見たかった。……そしてそれは叶った」


 言葉は冷たくない。信を前提に置いた上での厳しさだ。五郎右衛門が息を足元へ落とす気配がする。主馬は刀の柄に触れもしないまま、戦の場のように姿勢を整えた。主計は、盃の縁を叩く癖を、自らの膝の上で堪えた。


「加えて申せば、この舟は“御前御覧”として公に大祭を開く。名目は長崎伝習の稽古披露。幕閣と長崎奉行へ手を回し、伝習所の御用掛と蘭館の士官も正客に招く。公儀の旗を立て、土佐の海で泰西の理をそのまま見せる。町も浦も同じ場で見る――見せて公に据えるとは、そういうことよ。」


 鼎は大きく目を見張り、そのあと静かに頭を下げた。主馬は胸の前に手を置き、短く言う。


「――ご慧眼、恐れ入り申した」


「道は、見え申した」


 主計が続け、容堂に向き直って深く礼をとる。容堂は頷き、手を軽く振った。


「よい。では、乗ろうぞ」


 それからの時間は、言葉を置き過ぎぬように、東洋が導いた。三家老と容堂、小南が一行となって、鳴龍丸に渡る。甲板に足を置くと、双胴の梁の上に立っていることが身で分かる。舟と舟の間に風が通り、下の水が近い。喫水は浅い。船べりの外の水面に、細い渦の筋が残っては消えていく。


「刃は水の下、息は鋼の中に」


 東洋は、甲板の縁に手を置いて、短く言った。船腹の中の通路を抜け、機関室の前で足を止める。鉄の管が蛇のように走り、冷たい海水がそこで息を変える。火を見る者、鋼を見る者。鼎は、蒸気がひと働きして冷やされ、もう一度力に変わるのを目で確かめた。


 操舵の場所では、舵角、回転、船の応えを東洋が示す。主馬は、その見張りの稽古の合理を、言葉の外で理解する。主計は、舵の手に伝わるわずかな重みの変化を、数字に置き換えられる感覚として胸にしまう。


 見学が一巡すると、容堂は甲板の中央で足を止め、空を一度見る。海鳥が二羽、鳴無の社の上を斜めに横切った。容堂は視線を戻し、東洋に目で合図した。


「――出すぞ。横浪の沖へ」


 鳴龍丸の息が深くなる。甲板の下で、刃が静かに回り、掴む筋が水の中に伸びる。鳴無神社の鳥居の影が、水の底にまた黒い十字を刻み、それがゆっくり崩れていく。浦ノ内の水は、外海へ通じる音を低く響かせ、やがてそれも鳴無の森に吸われた。


 三家老は甲板の上で、それぞれの想いで“鳴龍丸”という名の重みを受け取っていた。上士・下士・郷士・工人――顔を出さずとも、この船にはそれらの手が重なっている。


 主馬は、海を見て腹の内で定めた――「戦の間が変わる。城門ではなく海路を押さえた者が、国の呼吸を決める世になる」と。


 鼎は、秩序の秤を見据えた――「名分と手続を先に立て、民の眼前で理を示す。政は密から公へ――それが“新しき世”の作法か」と静かにうなずいた。


 主計は、算盤の先に広がる海を思い描いた――「火と鉄と人と算、この四つを束ねた者が藩の明日を買う。商いが政を引く世になる」と自分の言葉に置き直した。


 三つの秤は同じ側に傾いた。ここからが事始め。世を合わせるための始まりだ。鳥居の赤はもう一度だけ水に揺れ、やがて静かに立った。


 鳴龍丸は、南へ鼻を向けた。横浪半島の沖で、海は少し深くなり、風は一段冷える。容堂は袖を払って前に立ち、三家老は少し後ろで並ぶ。東洋はその横に立ち、短く一礼してから、舵の手にまた目を据えた。


 船尾の下で黒い刃が静かに回り、掴んだ筋が海の底に一本通った。


 この舟を世に運ぶための、第一の波であった。


挿絵(By みてみん)

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