第四十一話 羊皮鉄心の狼
出島の橋の向こうで帆が一枚、向きを変えた。油のしみた床板は午下がりの陽を吸い、窓際の雲母ガラスが薄い光を返している。応接の卓には、西洋紙の束と太い羽根ペン、端に真鍮の角灯。外からは沖に錨を打つ鎖の金属音が、気まぐれに届いては消えた。
扉が開き、黒い詰襟の男が静かに現れる。髭は薄く、眼は冬の海のように澄んでいた。
「Goedemiddag……ごきげんよう」
蘭海軍士官、ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ。控えて、やや背を丸めた長身の男が口を開く。
「ヤン・ドンケル・クルティウスに……ございます」
重ねて一礼。出島オランダ商館館長――カピタン。言葉は丁寧だが、節々に日本語の覚束なさが滲む。
土佐側は二人。淡輪治郎兵衛、そして本木昌造。昌造は卓の端、控えめに帳面を開き、筆の先を軽く湿らせている。
「土佐藩主・山内容堂公より御内書でございます」
治郎兵衛は文筥を慎重に据え、金箔のわずか剥げた三葉の柏紋を相手へ向けた。クルティウスは両手で受けて目を通し、すぐに丁寧に畳んだ。
書の内容は「土佐藩による蒸気機関の直接買い付けをしたい」旨。
「拝見つかまつりました。――されど、本願の趣、長崎会所の御許可、いまだ承りません。De regel……規矩にて、会所を経ずしての契約、わたくし、いたし兼ねます」
言葉は柔らかいが、線はまっすぐだ。カッテンが横から小さく補う。
「本日は挨拶のみということです」
治郎兵衛は静かに頷き、しかしそこで引かなかった。
「では――ご挨拶のついでに、この図だけでもご覧くだされ」
袖から黒い紙筒を取り出す。栓を抜き、机上に白紙を一枚、もう一枚。その上に、墨色の曲線が現れた。双胴の船影。二つの細身の船体を渡す梁。そのあいだに、四枚翼の螺旋。梁の根に沿ってゆるい鞘のような整流の形。右上には小さく「喫水一丈半」と和様の字。
カッテンが目で線を追い、そのまま身を乗り出した。
「……tweelingromp(双胴)にschroef (スクリュー)。――これは、まさか……すでに造船中と?」
驚愕するのも無理はない。つい数日前に聞いた未開国の片田舎の若者の発想が、すでに形を成して動き出そうとしているとは、露ほどにも思っていなかった。
「船体はすでに上がっております。残るは機関の据付のみ。これはあくまで、土佐で自作可能な仮機関を前提にした最低限の設計。二軸とし、最新の蒸気機関を載せれば、貴国船を越える速力も――」
言い切る前に、クルティウスの視線がわずかに鋭くなった。だが声は丁寧さを保ったまま。
「速力は……いかほど、と?」
「十六ノット」
応接の空気が一瞬、固くなる。遠くの鎖がまた鳴った。カッテンは唇に指を当て、浅い笑いを堪えながら息を吐く。
「Zestien knopen?(十六ノット?) そのような速さを出せるはずが……――いや、根拠を聞きたい」
治郎兵衛は、紙の端を指で押さえ、小さな筆で短く線を引いた。昌造が横で筆記をやめ、視線を移す。
「和算にて申します。力は立方の開きにござる。馬力を上げても、速力は立方根。ただ、schroefを二軸にして四枚羽根を採れば、効きが少し上がる。ここで六分ほどの利得が見込めます」
筆の先で、四つの数字が白紙の端に置かれた。
三百馬力……十三ノット四分
四百馬力……十四ノット八分
五百馬力……十五ノット九分
六百馬力……十六ノット九分
カッテンが、ちいさく「ふむ」と言い、数字に指先を置いた。
「立方根……三乗則。――理は通っている。しかし、十六ノット以上とは挑戦的です。機関は?」
「こちらからお尋ねしたい。貴国の最新の蒸気機関、艦用の定格馬力、いかほどか」
治郎兵衛が問いを返すと、クルティウスは即答を避け、丁寧に濁した。
「わたくし、館長にて、工学の人にあらず。……ただ、本国には多々ございます。――Fijenoord、van Vlissingen……造船の者たち。出力のご所望、会所経由であれば、照会は最速にて」
代わりにカッテンが机上の図に目を落としたまま応じる。
「――戦列級の蒸気戦艦で常用十一〜十二ノット、proefvaart(公試)の好条件で十三ノット前後。平水・軽荷の条件なら十四に届くことはあるが……」
ここだ、と治郎兵衛は思った。藤兵衛と別れる朝に交わした言葉が、胸の底で鳴る。――規矩は守る。そのうえで、無理筋を押し、向こうの最速を引き出せ。
「では、規矩は守りましょう。会所も通す。ただ――Octrooi(特許)については、密に技術提供と契約を結びたく存ずる。貴国にも律令があるはず」
仄かな挑発。クルティウスは一瞬、瞳を揺らした。羽根ペンの先で紙をコトと叩き、小さく息を呑む。
「……Octrooi?(オクトロイ?)」
その語を眼前の日本人の口から聞いたことに、わずかに瞳に走る。横目でカッテンを見ると、士官は静かに頷いた。特許とそれに関する法律という観念を、この若者は正しく掴んでいる。クルティウスは襟口を整え、丁寧に言葉を選び直す。
「密約は、いたしません。会所を経、公の稟議の上にてなら、最速の実務、よき記録、確かな測定を、商館として提供いたします。それが、貴藩の先取を実質に護り、わが国の中立を守り、双方の益にかなう――ただひとつの道です」
言い切る声に、居並ぶ紙が微かに振動したように思えた。柔らかいが、動かない。治郎兵衛は、別の矢をつがえる。
「――商館を通さず、直に外国商人と契約を結ぶ者もある、との噂も聞きますが……」
カッテンが目だけで館長をうながした。クルティウスは浅く息を吸い、ゆるやかに吐く。近年、薩摩や長州の密貿易を疑う噂は、出島では半ば公然の秘密となっていた。
「承知しております。……しかし、わたくしは、ここを離れません。密はいたしません。――代わりに、合法の最速を、お約束いたします」
卓の端、昌造の筆がかすかに止まって、また動き出す。墨が紙に滲み、字の骨が立った。
治郎兵衛は、わざと間を置いた。窓の外で、帆の白が小さく動く。潮は満ちに向かっているのか、船腹の音がさっきより柔らかい。腹の底で、別の仕掛けが回る。無理を押して、相手に“道”を言わせた。ならば、こちらの妥協も見せる番だ。
「――承知しました。会所を通し、規矩は守ります。ただし――」
筆先が、図の脇にもう一つ、小さな箱を描いた。揚水機と小さく記す。梁の上には、予備品の箱。
「新造船の全容が、公儀に露わになりすぎぬよう、部品は分割で求めたい。名目は、採鉱用揚水機や工房の補機など、民生の形に。仮図面は――封緘のうえ御国へ持ち帰り賜りたい」
そこで一呼吸置き、治郎兵衛は継の矢を放つ。
「……貴国の造船術は卓越と聞き及びます。新しき技が先に他国へ渡ることを、貴国の王や民はお許しになりましょうか。いざその責を問われた折、カピタンのお立場は安泰にござるか――心配ゆえの申し出にて」
クルティウスは言葉を失い、わずかに喉を鳴らした。特許という語を、先ほど確かに耳にした時と同じ色が、瞳を掠める。カッテンは横顔を半ば伏せ、指で机の角を軽く叩く。沈黙が、埃のようにゆっくり落ちた。
「……カピタン」
カッテンが初めて、館長に向けて明確に言った。
「特例の検討に値します。港内試験で計測できます。横揺れ・回頭・停止距離・浅喫水――この図面が優るやもしれませぬ。封緘覚書を受け、本国で特許の先取だけでも――」
クルティウスは、卓の上の紙に視線を落とし、長く息を吐いた。丁寧な言葉が、少しだけ熱を帯びる。
「……承知いたしました。封緘して受領記録となし、本国へ回送。先取の時刻印として。部品の分割は――通常より時間がかかります。すべて揃うまで……四ヶ月、来年の正月ごろを目安に」
治郎兵衛がすかさず口を添える。
「かたじけのう存じます。――ただ、仮図面とは申せ、こちらより差し出す品にて、手付の意をもって、Voorschot(前金)を貴国通貨ギルダーにて若干頂戴いたしたく。さらに、技術提供の端緒として、機関本体の値をいささかのKorting(割引)にてお取り計らい願えませぬか」
重なる要求にクルティウスは汗をぬぐいつつ、首を振った。
「――前金をギルダーで、は前例なく。割引も、会所の規程に叶いませぬ。お支払いは会所精算にて、棹銅・代銀に限ります」
治郎兵衛は、用意していた終の矢を静かに放った。
「では遅延を見越して、boete(違約金)を契約にお入れくだされ。価格表はそのままにてよい。実質の調整となりましょう」
クルティウスは、はっとして治郎兵衛を見、そののちでゆっくりと頷いた。
「遅延違約……それなら、可能です。受入検査の測定値――回頭、停止距離、横揺れ(ローリング)、速力――に基づき、未達あらば、減額……条項に致します。会所の文言で、整えましょう」
昌造が力強く頷き、帳面に素早く書きつける。封緘、控、記録――三つの字が並び、墨が紙に沁みていく。
治郎兵衛は深く一礼した。クルティウスは封蝋の小箱を取り寄せ、卓上でゆっくりと指示を出した。
「モトキどの。――封緘の紙、二重で。控をこちらで保管、正本を本国へ。計測の器具――回転印、速力測、横揺計……貸与の稟議も、出しましょう」
「承知しました」
昌造が低く答える。控えめな顔の奥に、紙の匂いと鉛の色を愛する人の落ち着いた熱がある。
短い沈黙。出島の風がふっと通り、窓の雲母が微かに鳴った。クルティウスはふいに、海の方――廊下の先に揺れる蘭旗へ一度だけ目をやり、それから、治郎兵衛へ向き直った。
「タンナワどの。――あなたは、風のようにやわらかい。――しかし、鉄のようでもある。わたくしの日本語は、不自由ゆえに、よい言葉が見つからぬが……その強さに敬意を示します」
席を辞し、廊下に出ると、油と海の匂いがまた半分ずつ、鼻の奥に戻ってくる。出島の橋は細く、板は乾いて軽い音を立てる。手に持つ紙筒の中で、薄い墨の線がとても重く感じられた。
橋の袂で、昌造が小声で治郎兵衛に言う。
「上手くいき申したな。初対面のカピタンを相手に堂々たる弁舌でござった」
「いやいや――途中、万殿の算式を違えたら……と冷や汗をかいておりました。封緘、控、記録……まだ落とせぬ山場があり申す」
昌造は頷き、帳面の角を整えた。薄い風が紙の端を撫でる。遠くで、長い汽笛にも似た音――いや、これは風のいたずらか。二人は顔を上げ、港の色を見た。潮は、まだ満ちに向かっている。
雲の縁が鉛色に光り、港の口で小舟が二つ、向きを変える。鳴龍丸の図は、昌造の懐で静かに熱を持ち、墨の線が灯の下でわずかに光る。叩く波ではなく、掴む筋。目と数が、やがて海の上で答えに変わる。
港の鐘がもう一度鳴った。海は短く息を吸い、それから、夜へ滑った
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その夜、出島の帳場で封緘の式が行われた。朱の印は二つ、紙は二重。ひとつは土佐へ、ひとつはオランダへ。控えは商館の金庫に収まった。
カッテンはその薄い紙の上に指を置き、聖書の一文を低く呟いた。
「De waarheid zal u vrijmaken. (真理は汝らを自由にする)」
誰に聞かせるでもなく、たぶん自分の胸に。
――後年、ヤン・ドンケル・クルティウスの回想録の片隅に、小さな文が記された。
「日本において最も警戒すべき交渉人は、ジロベエ・タンナワであった」
ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケもまた、彼のことを「子羊の皮をかぶった狼」と語ったという。
評は辛辣だが、そこに蔑みはない。言葉の裏には、海で物を動かす人間同士の、薄い敬意がひそんでいた。
参考文献:『「日本オランダ商館アーカイブ』、『Proeve eener Japansche Spraakkunst(日本文典)』




