第四十話 長崎二枚看板
安政四年九月、長崎。
朝もやが港の口を薄く閉じ、出島脇の伝習所は、海と陸の匂いを半分ずつ吸っていた。鐘がひとつ、低く鳴る。観光丸の汽缶が火を入れられ、煤の匂いが潮に混じる。桟橋に繋がれた外輪の船体が、ふい、と身じろぎして綱を鳴らした。
治郎兵衛と昌造は、伝習所の門前で一礼したのち、足早に桟橋へ向かった。板子の軋み、鎖の擦れる音、甲板から飛ぶ号令。日本語と蘭語が入り混じり、波の拍に合わせて行き交う。
「おう、お前さんらが土佐からって若いのか。はやいねえ。十月の手筈じゃなかったかい」
低く鼻にかかった声で、裾を払うように近づいた男がいる。紺の衣に羽織は簡素だが、目の奥がよく動く。
勝義邦――この場では勝麟太郎と呼ばれている。江戸・下町のにおいを引きずりながら、海の理屈に骨まで浸かった男。
「勝様。土佐の淡輪治郎兵衛、こちらが通詞の本木昌造でございます」
「よし、挨拶はそれでいい。まずは見るこった。海は言葉より順番だ。見る、やってみる、んで数える。そこからだ」
麟太郎はそのまま二人を観光丸へ導いた。外輪の箱を叩くと、板の向こうで水が鳴った。甲板では蘭人の士官が短く号令を飛ばし、日本の若者たちが舵輪・汽缶・外輪房の見回りへ散っていく。勝は歩きながら、ぽつりぽつりと経歴の端を落とす。
「おれは幕府の御家人だがね、江戸じゃ川船から見始めて、いまはここの稽古の采配も少しばかりやってる。いずれ江戸に操練所を拵える算段でさ。観光丸は、オランダの王様から拝領だ。外輪の癖とやらを、まず目で覚えな」
機関室の蓋が開き、火夫たちの影がちらつく。蒸気の音が、はじめは細く、徐々に確かな息になってくる。外輪が回り始めると、水面に横筋のような波が荒く走った。
叩く――そんな言葉がぴたりとはまる波だ。甲板の板が振動を伝え、治郎兵衛の足裏に、細い槌が連打されるような感覚が上がってきた。
「ようく感じな。この“脈”だ。外輪は海を叩く。風に舵を取られたとき、この叩きがね、時に力を逃がす。だから、舵と回転の呼吸を合わせるのが肝だ」
麟太郎は舵輪の脇に立ち、若者に目だけの合図を送りながら、舵角と回転の符号を組み立てていく。咽喉のよく通る号令が、蘭語の短い指示と交差する。甲板からは潮の匂い、機関室からは油と煤の匂い。船は岸を離れ、港の口へ向かってゆっくりと滑った。
その背後で、背の高い蘭人が静かに立ち止まって二人を見た。髭は薄く、眼は冬の海のように澄んでいる。
ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ。蘭海軍の士官で、若くして艦の指揮と航法の実務をくぐり、この長崎でも航海・機関・操艦の三つを“書き残す人”でもあるという。測量や航海日誌の積み重ねが骨になっている口の利き方だ。
「Goedemorgen.(おはよう)」
「G…Goedemorgen.(お、おはようございます。) Wij zijn uit Tosa.(われらは土佐から参りました)」
治郎兵衛は、舌の奥が少しこわばるのを感じた。紙の上では幾度も回した言葉が、海風の中では軽く吹かれてしまう。カッテンは微笑を作らず、しかし頷いた。
「Uit Tosa, goed.(土佐から、いい。) Vandaag kijken wij naar het rad.(今日は外輪を見る)」
外輪の“脈”は確かに見える。舵に伝わる震えと遅れ、その遅れの幅。麟太郎は、舵輪の縁に手を置いて、それを「目で数えろ」と言った。
「目で数える?」
「おう。耳じゃない、目だ。な、こうやって舵輪のスポークの一本を見張る。回転の拍と、波の拍と、舵の効き始めが、揃うか遅れるか。見張っていりゃ、身体の方が先に覚える。江戸で舟を回してた頃からの癖だ」
午前の訓練は、ひたすら、出して止める、右に振る、左に戻す。外輪の回転を少しずつ上げ下げするたびに、海は別の顔を見せる。岸壁に沿ってゆるく回頭するとき、水面の陰影が歪み、外輪の箱の下で水が粗く跳ねる。
治郎兵衛は、舷側から覗きこんで波の肌理を追い、頭の中で数の枠を組んだ。桟橋へ戻ると、麟太郎が肩で風を払うように笑う。
「お前さん、見張りが利いてる。人の舵の癖もよう見てる。こういうのはね、やってるうちに“言葉になる”。焦らねえでいい」
◆
昼、甲板に麦の匂いと、黒パンを切る乾いた音が立った。各自が腰をおろし、海を見ながら、短い昼餉に取りかかる。観光丸は微かな揺れで空気を撫でるだけだ。麟太郎はパンの欠片を指でつまみ、海へ投げた。
「腹が落ち着いたら、もう一輪だ。……なあ、カッテン、ちょいと話の時間を取ってやってくれねえか」
カッテンは頷き、甲板の影の少ない場所を選んで腰を下ろした。麟太郎は煙草入れを叩く。
「おめえら、腹の虫はどうだい。……カッテン、こいつは江戸の“いっぷく”ってやつだ。潮風の中で一服。悪くねえ」
麟太郎の江戸弁は、廻船問屋の帳場で鍛えたような調子がある。人を緩めるが、句の芯は甘くない。
昌造はあえて少し離れて座り、耳を澄ませた。通詞の昌造を介さず、治郎兵衛が自分の口で話す番だ。胸の奥が、軽く鳴る。
「Mijnheer(先生)、少し、お耳を。Ik wil iets vragen.(伺いたいことがございます)」
初めて外に出す蘭語は、喉の奥に乾きがあった。単語は覚えている。けれど、音の長さと、語と語の間の空白の置き方が難しい。
「言ってごらん」
カッテンの日本語は丁寧で、返事は蘭語より少し温い。
「Het rad…(外輪は)…het slaat het water.(水を叩きます) Bij wind… de kracht gaat soms weg.(風のとき、ときどき、力が逃げます)」
言葉の継ぎ目で、蘭語が少し滑る。だが、言わんとするところは伝わる。カッテンは視線だけで促した。
「Ik dacht…(思いました)als…(もし)het schip deze constructie had…(このような構造なら)」
治郎兵衛は、チョークで板の上に横に並ぶ二つの細い舟形を描いた。中央を連結する梁。その間に、後ろに一本の螺旋の刃を描き、矢印で回転を示す。
麟太郎が身を乗り出す。煙草の火が赤く細くなる。
「こいつぁ……双胴か」
「はい。tweelingromp(双胴)。舷の打つ波を抑え、横揺れを弱くします。間の下にschroef(螺旋)を置けば、水中の筋を掴みます」
言葉は出た。発音は粗いが、通じる。カッテンの眉がわずかに動いた。
「schroef……ふむ。外輪はrad、水面を叩く機械。schroefは水を掴む機械。理はそのとおりだ。だが、組み合わせる、か」
彼は甲板の影を見て、短く息を吸った。遠い海を一瞬、眼の底で引き寄せるような仕草。
「こりゃ、どっからの思いつきだ?」
麟太郎が先に問うた。
「土佐で本木殿が造った小型蒸汽船の披見に立ち会いました。外輪(rad)が叩く脈の奥で、水中の筋を掴む手応えが見えたのです。また、試しに二艘を梁で繋いだ折には、横揺れが片胴よりも収まりました。そこで、その間に“水を掴む刃(schroef)”を置く――叩くより掴むという次第にございます」
カッテンの目が丸くなった。驚愕というより、測る目に驚きが混じる色。
「Ditを……日本の片田舎の若者が、思いついたのか」
言ったあとで、彼は自分の日本語が失礼に聞こえるかと案じたのか、言葉を継いで微笑んだ。
「失礼、敬意だ。良い“目”だ。筋が見える目を持っている」
麟太郎が煙草を揉み消し、乾いた声で笑う。
「こいつぁ面白れえ。叩く波は景気がいい、掴む波は腹に落ちる」
甲板を渡る風が少し強くなった。港の外で帆を畳む音が鳴り、遠い鐘が一度だけ響く。
「ところで」
甲板に描かれた螺旋の矢印を指でなぞるカッテンに、治郎兵衛が蘭語で問いを投げた。
「Bestaat er al zo’n schip in Europa?(欧羅巴に、すでにこうした船はありますか)」
語尾が震えた。
「……Niet dat ik weet.(知らないな)」
すこしの間をおいてカッテンが首を振った。
「…De schroef is alom.(スクリューは、いま、広く使われている) イギリスでは、十年余り前から、外輪の艦と綱を引いて、その力を比べた実験があった。schroefのほうが、海では手堅いが、まだ主流ではない。それは疑いない。だが――」
視線が別の線に移る。二つの細身の船体を渡す梁。
「tweelingromp(双胴)の発想は昔から湖や小舟であるが、schroefと組んだ軍艦は、わたしの知る限り、まだ存在しない。だが理には合う。横揺れが小さく、喫水を浅く保てる。保守と材が揃えば、試してみる価値はある」
麟太郎が上半身を起こし、甲板の線を指で弾いた。
「てえしたもんだ。お前さん、絵が早え。言葉が追いつかなくても、手が間を埋める。…カッテン、これは面白え話だ。外輪の“脈”は、見てのとおりだ。風で舵が抜けるときがある。スクリューは水を“掴む”。双胴は目で見せねえと通りにくいが、筋は通る」
カッテンは頷き、紙片を折らずに返した。
「Schrijf het op.(書き留めなさい) 目に見える図と、短い文で。言葉が足りないなら、図が助ける」
昌造が黙って近づき、蘭語と和語の帳面を開いた。語をきれいに並べ、脇に小さな字で注を添える。活字の人間の目は、紙に触れると水のなかに入った魚のように、生き生きとする。
「rad…(外輪) schroef…(螺旋) tweelingromp…(双胴)」
小声で繰り返すと、カッテンが笑わずに褒めた。
「Uw uitspraak is helder genoeg voor de zee.(海では十分だ)」
午後の訓練は、さらに実地に寄った。麟太郎は舵と回転の合図を、短い言葉で切り分ける。江戸の川筋で育った男の号令は、舟の癖と人の癖を一緒に見ている。
「舵、ほんのちょい右。…よし、回転二つ落とせ。…止め。…舵戻せ。――こういうのはね、身体に覚えさせる。お前さんら、紙ばかり見ちゃいけねえ。海は紙のとおりにならねえ」
「はい」
治郎兵衛は、舵輪のスポークを一本だけ見つめ、甲板のわずかな震えと、舵の重さの変わり方を、目で数え続けた。外輪の波紋は、やはり“叩き”だ。水面の肌を粗くして、船を押し出す。風が斜めから刺すと、その粗さが一瞬だけ、舵の言葉を聞かない。
(ここで、掴む羽根が、船の後ろの深いところにあれば――)
思考が先へ滑ろうとしたとき、麟太郎が声を落とした。
「考えるのはいい。ただな、今は外に出すな。口は堤だ。海の水は、止めどきが大事だ」
「心得ております」
「よし」
夕刻、港の口から戻ると、観光丸は蒸気を抜いて静かになった。見張りの交代、後片付けの掛け声、鎖の音。空は薄い柿色で、出島の屋根に鳥が一羽、止まっていた。
短い打合せの場で、麟太郎は手短に言った。
「明日もこの繰り返しだ。見て、やって、数える。…それとだ。カッテン、あしたの休み時間に、もういっぺん、話を聞いてやってくれ。言葉の稽古は、毎日やるのがいい」
「Goed」
解散の後、甲板にはもうほとんど人影がなかった。海が一度、深く息をする。治郎兵衛は、折り畳んだ紙片を懐に戻し、観光丸の外輪房の外板を掌で軽く叩いた。叩けば、叩いた音が返る。掴めば、掴んだ感触が返る。海と船と人の、力の道筋が、日ごとに一本ずつ増えてゆく。
――浦戸で見た小さな蒸気船のかすかな音が、耳の奥に残っている。浅い水が嫌う船の腹、潮の行き来、砂の嫌がる声。そこから拾い上げた線を、今度はこの異国の言葉で、異国の海の“理”に渡してみる。渡して、通るかどうか。
桟橋に降りると、勝がふいに横に並んだ。海風で前髪が持ち上がる。江戸の顔をした海の男は、視線だけを遠くに投げた。
「おい、淡輪。お前さん、まだ若けえ。若えってのは利だ。利が大きいってことは、損も大きい。だから“場”を外すな。ここは長崎だ。出島だ。日本と異国の真ん中にある、薄い板の上だ。…板から落っこちねえで、遠くまで見ろ」
「はい」
「いい返事だ。…それとな、今日言った図、あれはおもしれえ。おれはこう見えて、面白えもんが好きだ。江戸の連中にも、面白えもんは通る。通すには、目と数だ。お前さんの手は、目を持ってる。数は、そのうち身体に入る」
麟太郎はそれだけ言って、踵を返した。歩幅は大きく、足取りは軽い。
甲板の上から、蘭語の短い号令がまたひとつ落ちてきた。海は、夕去りの色を深くしていく。紙片の線は、懐の内で静かに熱を持ち、言葉の欠け目をゆっくりと照らしていった。




