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第三十九話 平太の鏡面

 板間に、闇のしじまが染み入る。油と木の匂いが冷えて沈む。縁には竜馬と藤兵衛だけが黙って立ち合い場を見守っている。音は少ない。庭のどこかで虫がひと声だけ鳴き、やがて止んだ。


 向かい合う二人の背丈の差は、目にも明らかだった。半平太の身は六尺(約180㎝)。肩も胸も骨組みが広く、踏み込みの寸法が大きい。対する能面の剣士は、五尺(約150㎝)の影。身体の線は細い。後ろに束ねた長い髪が秋風でわずかに揺れた。


 その面――「平太へいだ」は、褐色の地に硬い陰影。眉は跳ね、目は細く切られ、口は小さく開いて歯がのぞく。笑っているのか、怒っているのか、定まらぬ半端の口許。


 無声音の前に、半平太はふと、自身の姿を見た。剛直、自負、退かぬ意志。面の底から突き出る刃が、己の胸の内を鏡のように映す。


 ――いや、違う、と半平太はすぐに思い直す。これは己ではない。ただ、己がいつも頼みにしてきた芯を、無感の色で塗りつぶして見せる仮の顔だ。


 竹刀を握り直す。右足の親指に重みを寄せ、息を一度だけ深く吸う。後の先で取る。相手の出を待つのではない。出を誘い、その「先」をこちらが奪う。半平太の剣は、そうして勝ってきた。


 「平太」は、棒のように立っていた。構えと呼べるものはない。柄に添えた右の指がわずかに緩い。左の手は軽く添えるだけ。板間の節を踏んでも、音が立たない。


 竜馬の指が、縁で小さく動いた。藤兵衛の視線が、一拍だけ半平太の足を見て、すぐに面へ戻る。


「――いくぞ」


 半平太の踵が静かに浮き、送り足で半身が滑る。刃筋は正面。誘いの面を打つ寸前、手の内を小さく返し、打ち気を小手へ落とす。相手の反応をもらって、胴へ流す仕掛けだ。だが。


 触れた瞬間、響きが立たなかった。竹が当たっているはずなのに、乾いた音が出ない。能面の剣士の右掌の中で、柄の根が半寸だけ転がり、左の足裏に重さが落ちたのが見えた気がした。


 打ちは弾かれず、力だけが床へ吸われる。重みだけが、遅れてこちらの膝へ返ってくる。半平太は膝の裏で一瞬、土台が揺らぐのを感じ、すぐさま半歩退いた。


(……音が消える。受けも弾きも、どこへ吸わせた)


 「平太へいだ」は追わない。変わらずに、ただ立つ。その静止には、虚勢がない。板がきしまぬ。足の置き場が、見えないまま動いていない。


 面の影で、よろずの胸がわずかに上下した。面の裏に潜む眼は、半平太の呼吸を数えている。

(先ほどの誘いと返し。少林塾の面々とは質が違う。芯の強度が一段上。さすが、自ら道場を開き、人に教えるだけの腕がある――)


 半平太は受けの構えを厚くする。盾の剣。中段の刃を相手の面前に置く。相手が打てば、当たりを壁に変えて、返しの面を即座に打ち落とす。間合いを半拍潰すのが肝要だ。右足が静かに出る。呼吸は沈む。来い、と器を置いた瞬間――。


 「平太」の竹刀が、上から柱のようにすっと降りた。打つというより、そこに垂直の重さが立つ。竹が板に触れたわけでもないのに、板が一枚、深く沈む気配が足の裏に走る。当たりは柔らかい。だが、次の瞬間に肩から腰へ、ずしんと凄まじい重量が沈んで返る。半平太の肘がわずかに折れ、盾が歪む。


(何じゃ――!? 受けの壁が、地へ吸われゆう!)


 額の汗が耳の後ろを伝い、背へ落ちる。半平太はそこで足を止めず、当たりの重さを利用して左へ抜けながら狙いを上に変え、面を返しにいく――が、返す先がない。支点が、最初から相手の手の中にない。指の中にあるのは空気のような軽さ。打つ線が、見つからない。


 一方、万の心はわずかに高揚していた。

(面白い。これで潰されないとは――すこし、興が乗ってきました)


 半平太は一旦離れた。呼吸を整える。二合で分かった。後の先が空転している。相手は、こちらが置く「先」を見てから踏んでこない。置いた器そのものを、重さの道でずらしてくる。ならば――。


(ならば、隠しておいた手で、先を奪い返す)


 三合目。半平太の掌の中で、竹刀の節がしなる。絡め取り――これまで見せていない手だ。


 盾の構えから、相手の柄をくの字に封じ、送り手で捻り下ろして空いた線へ打つ。絡めの支点は柄頭ではない。柄元の、一点。そこで噛ませ、封じる。相手が上から重さを通すなら、その重さを支点にして巻く。勢いで落としてやれば、腕の芯が一度抜ける――そこへ面。勝負はそこで決まる。


 送り足が滑る。間が詰まる。竹刀が触れる寸前、手首の角度を半寸変える。へし折るのではない、絡める。ここで噛む――。


 支点が消えた。

 触れた瞬間、その一点がどこにもなかった。「平太」の柄の根が半拍先に転がり、上からの重さがさらに深く落ちる。半平太の手の内が、一度空になる。空気を握った指が、ふっとほどけそうになる。それでも噛み直す――が、遅い。


(――その技、そのままお返ししましょう)

 万は手筋を見切り、逆位相で半平太の竹刀を絡め取る。肘が曲がったところを、上から膂力で圧し潰した。


 圧倒的な剣圧に支点を巻かれて、竹刀の柄が指を離れて飛ぶ。乾いた裂け音。竹が空を走り、カラカラと板間に転がった。



 半平太は、右手を開いたまま、息を一つ吐いた。受けの壁が、最後には自分の重さで沈んだ。「絡め取り」は、自分の奥手だった。竜馬にも藤兵衛にも見せていない。


 しかし今、初見で鏡に映したように返された。鏡でありながら、鏡ではない。自分の像の輪郭だけ奪って、中身を別の力学で塗り替える剣。


 「平太」の能面は転がった竹刀を目で追わなかった。ただ、静かに竹刀を下げ、一礼した。面の口は、やはり定まらぬ半端の開き。変わらず言葉も、吐息の乱れすらない。


 板間を音させぬまま、踵を返す。敷居を越えた影が、戸口の外で宵の青へ輪郭を溶かし、静かに消えた。


 場に、深い息だけが残る。竜馬が先に口を開いたと思ったが、声は出なかった。藤兵衛も、言葉を探し、見つけなかった。しばし、三人は音を飲み込んだまま、板間の空白を見つめた。


 沈黙を破ったのは、半平太だった。


「……あれは――理外の剣じゃ。まことに人か」


 喉が乾いていた。言葉に、自分の息の荒さが混じる。六尺の体はまだ動けるはずなのに、芯がどこかへ置いてこられたようだ。


 その視線を受けて、竜馬が小さく頷いた。


「わしらの内では、こう呼ばれゆう」


 藤兵衛が続けた。声は低く、よく通った。


「少林の剣神――と」


 半平太は一歩、板に踵を鳴らした。面の影がもういない戸口を見据え、問いを重ねる。


「剣神……あのような者も、吉田殿の下で学ぶか。同じ塾のもんなら名を知っちゅうろう。あれほどの遣い手なら、城下にも名が轟いちゅうはずじゃ」


 竜馬は肩をすくめ、目だけで笑いもしなかった。


「――名のことは、いまは聞かんでもえいろう。あの面は内を映すためやない。手前の“異”を目の前に置くための面じゃ」


 藤兵衛は、目の端で半平太の胸の上下を見て、気づく。勝てぬと分かっても挑みに行く男の眼だ。少林塾の者たちは二度と万に挑もうとしなかった。しかし、この男は違う。


 おそれと、敬意が同時に胸に立つ。畏れは、半平太の不屈に向いた。敬意は、いま、彼が飲み込んだ息の深さに向いた。


 半平太は口を結び、目を伏せた。さっき感じた空白が、言葉の形を求めて動く。己に欠けているもの――闘いの余韻の中で、輪郭が見えてくる。


(まずは、順。 ――後の先を誇って、場の順を誤った。先を取る作法。これが足りんかった)


(次いで、場。 ――刀の正しさだけで、人は動かん。逆に返ってくる力で己が潰れた。手続の正しさを立てる場づくりが要る)


(最後に、眼。 ――えびすを異と決めつける眼。内側の理だけで世を切り分けちょった。あの面は、 己の“異”を突きつけるための鏡やった)


 言葉が舌の上に落ちていく。半平太は顔を上げた。


「朝倉殿。……おまんらの言うことが、まことに正しいかどうか。わしの目と耳で、確かめる必要があるようじゃ」


 竜馬の目が光った。唇の端に、はじめて薄い笑みが戻る。


半平太アギ、わしはもう一遍、江戸へ修業に行くつもりじゃ。藩に願いも出しちゅう。一緒に行かんかえ。あそこにはえびすの匂いも、声も直に入って来る。知見を肥やすにはもってこいじゃ」


 半平太は頷いた。頷きは小さく、しかし固い。


「……えいろう、共に行こう。己の“異”をはらう手立てを、夷を見て定める。後の先を外の世で試そう」


 板間に、冷えた風がひと筋入る。窓の外の宵は深さを増しつつある。


 その夜のうちに、段取りの話が始まった。出立は二月後の十一月初め。竜馬は江戸での修業の縁を思い巡らし、誰の門を叩くか、何を先に見るかを声に出して並べた。藤兵衛は、“攘害・和夷・攘夷”の順をもう一度だけ簡潔に口にし、段取りの骨を示す。半平太は、頷きながら、時に短く問う。問は、先程までの剛だけではなく、測る色を帯びていた。



 やがて、三人は席を立った。道場は静まり返り、板の冷たさが足裏に上ってくる。


 戸口の外に、「平太へいだ」の影はない。ただ、さっき通った音のない足跡だけが、板目の上に目に見えぬ筋を残しているように思えた。

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