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第三話 おらぞ漂異録

勝浦かつらの浜にて目を覚めし時より、異界にて過ごせし五年の夢、たちま泡沫うたかたとなり消えんことを恐る。これを筆にとどめ、忘れぬためとす――』


 筆先を止め、藤兵衛は小さく息を吐いた。障子越しに差し込む冬の日差しが、畳の上に淡い光と影を落とした。その揺らめきが、藤兵衛の胸に渦巻く戸惑いを静かに映し出している。


 朝倉の屋敷に戻ってから三日、彼は自室に籠もり続けていた。外では父と弟が庭の修繕に励み、母は隣家へ見舞いに出ていたが、藤兵衛の耳には墨の擦れる音しか届かなかった。

 家中の歓喜と安堵に包まれた再会の余韻は、すでに遠のいていた。代わりに胸を占めるのは、あの白光に呑まれて消えた異界の記憶が、いつか夢の如く薄れ失われてしまうのではないかという不安である。


 『おらぞ漂異録』――仮の表題を紙の端にしたためる。旅日記か、怪異記録か、名づけはどうでもよい。ただ確かなのは、この筆録が己の記憶を繋ぎとめる唯一のいかりとなるということだ。


 藤兵衛はまず、あの地で得たものを思い起こし、再び筆を執る。


 まずは「言葉」。鳥人二アールの学者シギから学んだ異界の象形文字。水中都市で交わした六枚びれの賢者、イオネムとの長い長い知識の対話。人とは異なる者たちとの交わりの中で己の舌から自然に零れる異人達の言葉は五つを数え、耳にはさらに幾つもの響きが馴染んでいた。


 しかし、真に通じ合うは言葉のみでは足りなかった。姿形すがたかたち異なる者たちの習俗を知り、心を通わす術こそ行商にも活きた。


 次に「武技」。永遠の戦いを望む竜人のごときクネードの戦士、ウドゥンから教わった武術は、さながら戦国乱世の豪傑のようだった。長柄を旋風のように振るい、相手を打ち倒す技は、己の剣術にも新たな呼吸を与えた。投鑚とうさんは小柄な刀を投げて標的を射抜く術で、戦場における応用も利いた。中でも組打ち、得物を抜かずして相手を打ち伏せる技は、行商で荒事に巻き込まれた藤兵衛を何度も助けた。


 だが、その根底にあるのは、死も恐れぬ『戦士の誇り』であった。


 そして「学問」。幾星霜の時を刻んだ白銀の賢者イオネムたちは、政道と経世けいせいの道、地勢と理学の道理について語った。それはオラゾ以前に修めた学問など比ぶべくもなく、深く練り上げられたことわりであった。数理をもって交易を整え、対話をもって戦を避けんとする。人と人とが如何に群れをなし、利と義のあわいで秩序を築くか。


 その思想は、下士かしとして生きてきた頃の藤兵衛には、想像もつかぬほど壮大で深遠なものだった。


『それら何の益あるや未だ知れず。されど、世の広さを知りし心技、必ずやこの世にも資すべし。』


 筆を休め、硯に水を差す。墨の香が鼻をかすかにくすぐった。

 ふと、先の世から来た若者、楽助の笑顔が脳裏に浮かんだ。楽天的で、どんな窮地でも笑っていた。貴彦の厳しい眼差しも思い出す。己よりも年下の彼らが、未来を信じ、命を懸けて帰還の試練に挑んだのだ。別れのきわにリオンがかすかに微笑んだ姿は、まだ胸を締め付ける。


 この書を世の者たちが見れば、狂人の戯伝とわらうだろう。だが、これが後の世に残れば、彼らだけはその意味を理解できるはず。


 「いずれ必ず、道は交わる」――あの別れ際に交わした約束。ならば、自らの足跡をこの世に遺さねばならぬ。それがいつか先の世へと続く道標になるのだと信じて。



 そう思えば、まずは己の置かれた現状を知る必要がある。藤兵衛はオラゾに飛ばされる前の記憶を手繰った。


 昨年の半ばから各所で異国船が現れたとの噂を耳にするようになり、人々は日常の暮らしを営む傍らで、知らず知らずのうちに、太平の世が終わりを迎えつつある不穏な空気を肌で感じていた。


 浦賀へ再び「黒船」が来航し、幕府が異国と何かしらの決まりごとを交わしたらしい――そのような言葉を耳にしたのも藤兵衛の記憶に新しかった。


 当初、下級藩士や農漁民にとっては遠い江戸の話に過ぎなかったが、やがて浦戸や種﨑の漁民たちは、今まで時折漂着していた琉球や清の商船が沖に見えることにさえ怯え、「黒船」を見たという話が城下で囁かれるようになった。


 土佐藩もこれを座視はできなかった。藩主・山内容堂は藩政改革に着手し、海防強化を急務として掲げた。その一環として、浦戸・仁井田・種﨑など海岸部に番所を設け、昨年の十月に鋳砲所を整備して大砲の鋳造も始められた。さらに今より二か月前、安政元年九月十二日には、ついに「海防ニ付、民兵御募集之儀」の触書が村々へ廻達されたのである。


 この布告は、農や漁に従事する壮健の男子を在郷のまま非常備兵として登録し、郷ごとに教場を設けて月数回の教練を行うというものだった。訓練時には帯刀が許され、伍長・隊長補には優れた民兵を登用し、上位の指揮層は郷士が務めるという階梯的な仕組みであった。

 朝倉の家もまた、弟の惣兵衛が村々を巡り、教場の整備に駆り出されていた。


 藤兵衛は、そのような変化の只中にあったことを思い返す。

 黒船という異国の脅威、そして急速に藩が進める海防策。藩士たちもまた、「いずれ戦になるやもしれぬ」という不安を胸の奥で抱えながら、常の勤めを怠ることはなかった。


 あの頃はただ、潮風と波音が変わらぬ日常を告げていたが――それが一変する前触れであったのだと、今にして思えば理解できた。


「あの時わしらが感じた不穏は……やはり、日ノ本全体が変わり始める兆しであったか……」

 胸中でそう呟くと、血が逆流するような熱と冷えが同時に走った。


 貴彦からオラゾで聞いた先の世の歴史――「ペリー来航」「日米和親条約」

 その奇妙な響きの言葉が、これまで霧の中にあった出来事を照らす灯火のように、目の前の現実と結びついていく。江戸にて交わされた条約の報せは、土佐の海防策と確かに連なり、国を覆う大きな流れとなっていた。


 オラゾで過ごした五年、この現世ではわずか七日しか経っていない。だが、その七日の間でさえ、土佐の国、いや日ノ本すべてが確実に動き始めていたのだ。


 藤兵衛は庭先の松を仰ぎ見た。風が谷を渡り、冷えた空気が頬を撫でていく。それはどこか落ち着かず、遠き浜辺のざわめきを谷伝いに運ぶがごとく思われた。


 まるで時代そのものが息を吹き込み、山裾にまで満ちてくるかのようであった。


「幕末――貴彦が申しておったその言葉。それが、わしの目の前に、今まさに始まろうとしておる……」


 藤兵衛は、異界の記憶と、この現世の変化とを重ね合わせながら、これから自らが踏み出すべき道を思い定めるのだった。

※藤兵衛は異界での暮らしが長かったため、作中で土佐の人々と話すときは土佐弁、胸中の思考や独り言は標準語寄りで描いています。


参考文献:『漂海録』、『海南政典/海南律例』、『高知県史(近世編)』、『土佐史談』

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