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第三十八話 少林の剣神 

 ――遡ること七日。長浜の少林塾。


 海の匂いが、書院の障子を薄く透っていた。机上には巻かれた図面が三巻、鋳肌の荒い小さな鉄片が二つ、油の匂いが微かに漂う。万象ばんしょう――細川よろずは膝を正し、東洋の前に置いた木箱の蓋をそっと外した。


「螺旋羽根の鋳造、ならびに鍛造結合は済みました。軸の鍛造も通りました。こちらが試片です」


 箱の中で、小型の螺旋羽根が鈍く光る。鋳砂の粒を爪で払うと、鉄は海鼠のように黒く、涼しい。


「万一の破損に備えて予備の羽根も鋳っています。いま三枚目。機関部――心臓は長崎からの便り待ちですが、取り付け座の土台は出来ました。双胴の連結梁は、波間でのひずみにも耐えます。浸水の試験は三度、いずれも問題なし。喫水下は防腐剤の再塗装へ、外装も今日から当たります」


 東洋は頷き、卓上の筆を置いた。


「よいときに運んでおる。一月後の十月下旬、容堂公と三家老立ち合いで初乗りをする。殿と家老衆の目に、新しき世の形を焼き付けるがじゃ」


 万はわずかに唇を噛んだ。


「……阿蘭陀オランダから機関本体の到着、年明けとの報が参りました。昌造と治郎兵衛は海軍伝習所で学びをすくっておりますが、品は急かせません。もし――自製でよろしければ、仮の心臓なら造れます。ただ、想定の馬力はおそらく出せません」


 東洋の眼が静かに笑った。


「僅かでも波を掻いて進めばよい。動くことが肝要じゃ。風よりも目。数よりも見。見せて伝わる道を、殿に敷く」


「承知しました」


 頭を下げた万は、箱を閉じて立ち上がる。書院を辞し、磨き込まれた廊下に出ると、夕の光が襖の縁で薄く折れた。木の香り。遠くで拍子木が鳴る。道場の方角だ。


(まったく、人遣いが荒い――)


 心の中でつぶやき、けれど足取りは軽い。岡豊山の絡繰からくり屋敷で、ただ一人、手に触れる者なく五十年。黙々と鉄と木と油とを相手にしてきた日々に比べれば、求められた造作のなんと意義あることか。


 角を曲がろうとしたとき、襖の向こうから低い声がした。


「芯がこじゃんと強い異骨相いごっそうやき、説き伏せるがは容易やない」


 竜馬の声だ。少し間をおいて、藤兵衛が応じる。


「議論の延長で剣の勝負へ持ち込み、打ち負かして納得させられぬか」


「半平太に勝てるもんが、この塾におるがか? わしは無理じゃ。藤兵衛も、組打ちなしでは良うて互角ぜよ」


 万の脳裏に、退室際の東洋の言葉が思い出される。


 ――道場の方も、のぞいてやってほしい。塾の紅一点が見ゆうと、剣に込める士気が違うがじゃ。


 万は、呼吸を一つ吐いてから道場へ向かった。




 道場では、乾退助が良輔と立ち合っていた。板間の上には汗の匂い、竹のささくれが擦れる乾いた音。弥太郎が縁で肩で息をしている。万が敷居を跨ぐと、視線が幾つも跳ねた。


「万殿じゃ」「あれが金屋子かなやごさまか」「聞いたより別嬪べっぴんじゃ」――ざわ、と空気が揺れる。


 良輔の竹刀が退助の小手を打つ。退助は半歩引いてから抜け、面を返す。呼吸の拍が整っている。退助がふと視線の端で万を捉えた。


「万殿」


 竹刀を下ろし、口の端を上げる。


「負けっぱなしは性に合わん。今度は剣で勝負じゃ」


 良輔が慌てて間に入る。


「待て、いのす。万殿の膂力りょりょくはおまん、知っちゅうろうが」


 周りの塾生も口々に止める。「女子おなご相手に何を」「恥を知れ」「刀礼を乱すな」


 万は静かに首を横に振った。


「よいでしょう。先生も士気を上げてこいと仰せでした。それに――」


 淡く口角がわずかに上がった。


「何度やっても結果は変わりませんから」


 塾生らの喉が、同時に鳴った。


 退助は竹刀を構える。英信流の形、肩の力を落とし、中段に鋭い気を集める。呑敵流の足でにじり寄る。万は、ただ立った。素人の構えだ。竹刀を握る手は柔らかい。肘も肩も、ともすれば落ちすぎている。


 ――技術ではない、と彼女は知っている。己の強さは、人の身ならぬ骸躰シェルの膂力にある。骨も腱も、重さの掛かりどころが人とは違う。鉄を叩く腕を持ち、梁を抱えて歩き、四十斤の砥石を片手で起こす。その事実が、技を要らぬものにしてしまう危うさを、万は理解していた。


 しかし同時に、己の頭のどこかには、全知たるアシラの記憶が流れている。いつの世の、どこの土地の、どの流派が、どの角度で打ち、どの支点で返すか――過去も未来も、剣術という名の河が、薄い光の地図になって視界の端を流れる。身は素人、しかし「知」は無尽蔵。指先に、世界の刀の「線」が触れる。


「いくぞ」


 退助が一足で間を詰め、面。竹が風を割り、音を連れて来る。万は、半歩も引かない。ただ、左の足裏で板間を撫でるように重さを落し、右掌の中で柄をわずかに転がした。柄元の一点が、打の線と交わる。打突は弾かれない。地面へ吸われて、重みだけ返ってくる。


 ゴン。


 鈍い音。退助の肩から腰へ、重さが戻る。膝が笑い、視界が半拍揺れる。万は胴へ短く薙いだ。形は拙い。けれど力が真っ直ぐ通る。胴布が鳴り、退助の身体は板間の上を滑った。


「ぐ、は――」


 退助は床に転がり、しばし声を失った。


 道場の空気が止まる。良輔は息を呑み、弥太郎は目を丸くした。万は竹刀の先をわずかに下げ、辺りを見回した。


「さあ、次はどなたですか」


 若い塾生が勢い込んで出たが、二拍で沈む。別の男は思い切って突きを出したが、柄の根に触れた重さが胸骨から踵へ落ち、膝が折れた。万は踏んでも踏まなくても、板間が軋まない。重さがどれほどあっても、地へ通した分だけ、音が消える。技の名はない。ただ、力の道筋が「そこ」へ落ちるだけだ。


 連なる、面、小手、胴、突。過去と未来の流派の線が、アシラの記憶の海から湧き、万の眼にうすく浮かぶ。定法を見、癖を見、出足の癖に合わせて一点を軽く押すだけ。素人のように見える動作の裏で、知は縦横に走り、膂力が単純に働く。倒れる音が重なり合い、板間の筋が一つ、また一つ、身体の影で隠れていく。


 悲鳴に近いざわめきと、竹の折れる音とが重なったその時、道場の上がりに人影が三つ落ちた。


「なにをほたえゆう。騒々しい――」


 東洋、藤兵衛、竜馬が、何事かと踏み入った。彼らの足許で、弥太郎が青い顔をして転がっている。


「なんなら、あの女子は…金屋子やのうて……剣神じゃ」


 弥太郎は呻き、白目を剥いて、ぐったりと気を失った。


 東洋の目が、塾生たちの死屍累々を静かに撫でる。その中央に、万が立っている。肩も上がっていない。息も乱れていない。


 藤兵衛は目を細くし、軽く笑んだ。


「……これなら、半平太を落とせるかもしれん」


 竜馬が口笛を噛み殺す。


山姥やまうばの面を被せたらどうぜよ。岡豊でも、そう呼ばれちょったそうじゃ」


 万の眉がぴくりと動いた。言葉の手触りが、指先の鉄の冷たさに似ている。


「――わたしはとても、興が乗っています。竜馬の次は、藤兵衛。最後に、先生です」


「待て待て待て、わしからか。やるとは言うちゃあせんが」


「さあ――」


 有無を言わさぬ万の圧に、竜馬が竹刀を取り、軽く振って肩を回す。笑っているが、笑いは半分。彼の足は速く、出入りは軽い。二度三度と踏み込んで、打ち気を散らす。万は一歩も動かない。竜馬の面が来たところに、柄の根がふわりと触れ、打の線が地へ吸われ――竜馬は自分の足が軽すぎると初めて知ったように、空を踏んだまま床を転がった。


「……うッ」


 床に仰向けた竜馬が、天井の梁を見てうなった。


「こりゃかなわん。藤兵衛、交代ぜよ」


 藤兵衛が竹刀を取り、構える。“氣有理けあり”の剣は受けの間が巧い。打ちあわず、打たせて間で息を詰まらせる。万は、ただの棒のように立っている。藤兵衛は三合、四合と攻め、相手の呼吸を伺い――四合目、竹が触れた瞬間に、胸の奥で何かがずれるのを感じた。押し返されるのではなく、身体の芯が地に落ちる。軽い吐息が漏れ、膝が一人でに折れていく。


「参った」


 藤兵衛は突きつけられた竹刀の先端に、素直に頭を下げた。その顔に悔しさはない。見た。知った。こういう力の通し方が、この世にはあるのか。そういう顔だった。


 最後に、東洋が竹刀を手に取った。痛みをこらえて身を起こした塾生たちが息を呑む。「先生が」「無茶じゃ」「御身を大事に」


「一合だけじゃ」


 東洋は言い、すっと中段に置いた。眼だけが“名剣”の気を放つ。万は微かに首を傾けた。

 東洋が短い気迫と共に鋭く踏み込む。竹刀同士が触れた瞬間、力は当たりで弾かれず、板間の下へ抜けた。鳴きが消え、代わりに東洋の前足の膝に自分の体重だけが遅れて戻る。支点を一拍奪われ、膝がひとりでに緩んだ。


「……足りぬのう。わしも年じゃ」


 東洋は浅く笑って竹刀を下ろし、肩を軽く回した。


「よう分かった。役者は、ここにおる」




 書院に戻ると、風はさらに冷えていた。障子越しに、日が薄くなっていく。東洋、藤兵衛、竜馬、そして万が膝を寄せる。膳の湯気が白い。四人の前に、いくつかの古い能面が置かれた。


「武市をどう落とすかが、肝じゃ」


 東洋に竜馬が言う。

「議論で詰めても、最後の一押しは剣やき。けんど、半平太は、ただの剣では動かん。芯を折られんかったら、納得せんろう」


 藤兵衛が「山姥やまうば」の面に指を触れる。


「山姥は強すぎる。あおりになる。恐れさせるだけで、受け入れられぬ」


 万は、別の面を手に取った。褐色の地に硬い陰影。眉は跳ね、目は細く切られ、口は小さく開いて歯がのぞく。自分の顔がそこにある、と人が思う面だ。


「“山姥”ではなく――“平太へいだ”の面がよろしいでしょう」


 万は静かに言った。


「外のはらう前に、目の前の“異”を。半平太の中に在る“異”――己の影法師に、まず打ち勝っていただく。山の老女ではなく、己と向き合う面でなければ」


 そう言って面を顔に当てる万に、東洋は目を細くした。


「さて“平太”――おまんの名は、何と呼ぶべきか」


 竜馬が笑った。


「決まっちゅう。さっき弥太郎が言うたがよ」


 藤兵衛も笑い、頷いた。


 その日、万象にもう一つ、新たな名が加わった。


 「少林の剣神」

※能面「平太」について

鎌倉時代の武将「和田わだ平太へいだ胤長たねなが」の容貌を、15世紀の面打が写したと伝わる男面。勝ち戦を語る勇ましい武士に用いられます。


参考文献:『能面論考』

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