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第三十七話 “異”を攘う

 拍子木が鳴ると、新町道場の空気が一度すっと細くなった。

 晩秋の夕光は、すでに縁側を回って板間の目に斜めの筋をつくっている。柱に塗られた漆は柔らかく光り、鼻に残るのは汗と杉の匂い。木刀や竹刀を拭う布の音がいくつか重なり、門弟たちは整然と用具を片づけていった。


半平太アギ。締めの一本、いこうかの」


 坂本竜馬が竹刀を肩で回し、にやりと笑った。

「よかろう。竜馬アザ、軽うでええ」


 武市半平太が応じる。二人は正面に立ち、合図もなく一足一刀の間へ滑り込む。面―小手―面と、打ちは浅く、呼吸は深い。音は乾いて軽いが、二人の“拍”はぴたりと合っている。見物じみた派手さはない。それでも、稽古の場が静かに温まるのが眼に見えた。


 傍らでは朝倉藤兵衛が、刀を鞘ごと膝の脇に置き、終始、見学に徹していた。今日は手合わせを請われても出る心づもりはない。


「終いじゃ!」


 もう一度、拍子木。門弟らが一礼して引き、ほこりを払っていく。やがて広い床に残ったのは、半平太・竜馬・藤兵衛の三人だけになった。


「朝倉殿。今日は、見に来たのか、語りに来たのか」

「見て、それから語らせていただきたい。場があるのなら」


 半平太は顎を引いた。夕日は板間の半ばまで来て、端の方はもう宵の気配で青味が差す。藤兵衛は刀を横に置き、膝を寄せて座る。竜馬は竹刀を傍らに、背を壁に軽く当てた。半平太は正面に正座して、胸の前で手を組む。


「さて。朝倉殿、竜馬。今日はわしのほうから話を始めてもえいろうか」

「おう。聞かしてくれ」

 二人は頷いた。


 半平太は、言葉を選ぶように少し間を置いた。それから、ゆっくり話し出す。


南学なんがく――土佐の学のことじゃ。根っこは二つ。“忠君愛国”と“実学”。これは昔から、上の人間だけの理屈やない。郷士も百姓も、山の者も海の者も、土佐の者はみな胸のなかに持っちゅう」


 半平太は掌を板間に伏せ、そこに見えない線を引くように指を滑らせた。


「年の初めに、京の方角へ向いて拝む。わしの家もそうじゃった。祖父じいが先に立ち、幼いわしは真似て、手を合わす。朝の冷たい空気のなかで、その行いに嘘はなかった。忠の中心は天子さまにある――身体で覚えちゅう。しかし、実際に世の中を動かしゆうがは徳川の御公儀じゃ。それら二つの君主への忠義を、わしらは二百年の間、どうにか両立させてきた。ここの難しさは、土佐の者なら皆、骨に沁みちゅう」


 竜馬が頷く。

「うむ。そりゃあよう知っちゅう」

 半平太は続けた。


「今は世が激しく動きゆう。机の上の学じゃいかん。実学にせねばならん。南学の“実”――それが、わしの見るところ尊王攘夷よ。天子さまを頂に据え直し、えびすはらい、異国いこくに押されぬ“元の形”へと戻す。これは土佐の学から真っ先に出てくる答えじゃ。違うか」


 最後の「違うか」は、強い問いというより、仲間に確かめる色合いだった。藤兵衛は、正面からその目を受けた。


「志の向きは、われらも同じにて」

 藤兵衛はまず、それだけを置いた。武市の肩がわずかに緩む。すぐに、句の芯を立て替える。


「ただ――順の話を、させて頂きたく」


「順?」

 半平太は眉を寄せる。


「大志もときを誤れば、かえって事を損なうことがござる。相手を測らず、備えを欠いたまま正面から挑めば、必ず敗れる。これは兵法の常。清国においても排外を先に立てた結果、泰西との戦争に敗けて今や阿片漬けじゃ」


 藤兵衛は語尾を強めず、静かに三つの言葉を並べた。


「いま必要なのは、第一に“攘害”――無用の衝突を避け、被害を減らすこと。第二に“和夷”――異国の知と技を取り入れて備えを厚くすること。第三に“攘夷”――力を整え、害を払い切ること。志の旗はそのまま掲げる。けんど、順は入れ替えるべきでござろう」


 竜馬が、膝を叩くようにして言う。

「潮とおんなじぜよ。引き潮に舟を出したら座礁する。満ちが来る時を読んで、もやいを解くがじゃ」


 半平太はしばし黙した。その沈黙は、ただの逡巡ではない。言の裏で自らを律し、いま置かれている“拍”を測り直す時間である。


「……朝倉殿。わしは、腰が引けるのが一番いかんと思うちゅう。剣の道もおんなじじゃ。『力を測れ』『学べ』いう言葉は、時に退き口の言い訳にも化ける。土佐は刀を錆びさせたらいかん。拍子が来たら、踏む足は前へ出さんと」


 藤兵衛はうなずいた。反発の芯が、半平太の責任と自尊から来ていることは、数度の対峙でよく承知している。その重みを否定しないよう、言葉の形を整える。


「もっともにござる。土佐の拍を乱さぬためにも、前へ出るべき人が前に出るがは必要です。武市殿は“人の拍をそろえる柱”。その柱が曲がれば、屋根は落ちる。だからこそ、柱の足場を固めたいがです。攘夷は “志”の名として掲げる。けんど、手順は攘害・和夷を先に。これは腰が引けることではない。むしろ、一番近い道ですろう」


 半平太は唇を結んだ。沈黙が小さな池のように場の真ん中へ広がり、やがて彼は竹刀に指を置く。



 そこで竜馬が口を挟んだ。

「言うより、見せたが早い。半平太アギ、立ち会うてほしい者が、おる」


 半平太の眼が細くなる。

 竜馬は戸口の陰へ目だけで合図した。影が一つ、板間の目を踏まぬように静かに入ってくる。


 大人の男にしては背が低い。細い体に竹刀を持つ白磁のような腕。月代は剃らず、長い髪をうしろでひとつにわえ、顔は「平太へいだ」の能面で隠れていた。


 焼けた褐色の地に強く吊り上がる眉、細く切られた目。口はわずかに開き、歯列が金泥に鈍く光る。額には白鉢巻を当てて面を押さえ、顎紐だけが静かに揺れた。名乗りはない。気配だけが、薄い水のように道場の空気へ溶ける。


「この者を、“異国”と思うて相手しちゃってくれ」

 竜馬が笑いを収め、真顔で言う。


「……面白いことをする」

 半平太は立ち上がり、袴の裾を払って竹刀を持った。


 足裏で板間の感触を確かめると、中段に構える。


 能面の剣士は、棒のように立った。構えというほどの形は見せない。右手をやや下げ、左は軽く添えるのみ。素人の立ち姿にすら見える。


「いくぞ」

 半平太が先に打つ。すり足から一歩、間を一気に詰め、面を狙う。竹刀が風を裂く音が、板間の上にまっすぐ走る。


 軽い音。

 能面の剣士は片手で竹刀を横へ流した。柄元で支点を作り、体を半分ひねる。半平太の打ちは空を払ってわずかに逸れ、剣士の肩先を掠めるだけになった。


「ふっ」

 半平太は足を返して二の手。今度は胴を狙う。


 ゆるい――しかし遅くない薙ぎが返ってきた。


 竹刀と竹刀が触れた瞬間、がんと鈍い衝撃が半身に走る。受け止めたはずの腕が、土台ごと押される。胸から腹、腰、膝へと順に力が落ちてゆき、足の裏の板間が一瞬、滑った。


 慌てて半歩退く。心臓の鼓動が一拍だけ速くなる。


 能面の剣士は追わない。ただ、一本の柱のように立ったまま、竹刀の先をわずかに下げる。その足音がしない。板間がきしまない。


 殺気はない。だが、岩の前に立っているような圧がある。

 大きくもなく、力んでもいないのに、こちらの力が向こうへ逃げないで、こちらへ戻ってくる。半平太は、自分の呼吸が浅くなったのを感じた。


(……これは、何じゃ)

 一合で、胸の奥に薄い驚きが広がる。


 見間違いではない。構えは明らかな素人のそれ。にもかかわらず、打ちが全く通らぬ。藤兵衛の“氣有理けあり”とも違う、いや、遥かに異質な剛剣。


 半平太は自分の手の内を確かめるように、柄を握り直した。柄の皮がほんのわずかに汗で湿っている。


「もう一度」

 今度は足を止めず、間合いの出入りを小刻みに変えながら、面への誘いから小手へひとつ落とし、すぐさま胴へ流す――三段の崩し。


 能面の剣士は、やはりほとんど動かない。柄元で受け、肩を半分だけ切るように回し、体の芯をぴたりと地面に通した。その動きが、半平太の送り足の半拍と重なった。


 再びの衝撃。

 竹刀が、こちらの体重を乗せて自分に返ってきた。腕から背へ、背から踵へ。弾かれるのではなく、めり込んで押し返される感覚。


 半平太は咄嗟に飛び退いた。足の裏が板間を鳴らす。息を吐く。

 能面の剣士は、相変わらず無音だ。面の口が笑っているのか、怒っているのか、それさえ分からない。


 竜馬は壁際に寄り、腕を組んでいた。口元に薄い笑み。

 藤兵衛は二人の間の呼吸を数える。半平太の吐く息が三つ、能面の剣士の肩の上下が一つ――密度が違う。


 半平太は己の中で何かが狂い始めたのを知る。狂っているのは自分か相手か、判じがたい。だが確かに、勝てる気が遠のく感覚が、指先から肩へ、肩から首へ、じわじわと上がってきた。


 能面――「平太へいだ」の表情を見る。歯をのぞかせた口と鋭い目。自分の顔がそこに映っているようにも思えた。


「武市殿。“異国”の打ち筋――どう見えましたろうか」


 藤兵衛の声が半平太の意識をうつつに引き戻した

 外はもう宵だ。虫の声が遠くで響いていた。


 藤兵衛が、最後の一句を切るように言った。


「思う存分、打ちはらってくだされ。外のへ向かう前に、目の前の“異”を。それが、わしらの順にござる」

挿絵(By みてみん)


※「南学」について

戦国末期に南村梅軒が興した土佐特有の学問であり、朱子学を基本に君臣や家族の秩序を説く「忠君愛国」と、実際の政治や社会の改革に役立てる「実学」を旨とします。

藩政初期に執政・野中兼山により本格的に藩の学問として導入され、代々藩主から郷士まで広く学んでいました。「忠君」は藩主への忠誠はもちろん、その根幹は「天皇」への忠誠を説いており、歴代藩主も元日に年頭第一の行事として、京都の方角に祭壇を設けての遥拝を欠かしませんでした。

しかし一方で、山内家は外様から土佐一国の主に取り立てられた徳川家に恩義もあり、史実において容堂が公武合体を推進し、「酔えば勤皇、醒めれば佐幕」と揶揄されたのも、南学の思想から「二人の君主」への忠義を両立させねばならなかった複雑な事情によるのでは、と筆者は考えます。


参考文献:『南学伝』、『吉良物語』、『秦山書目』


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