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第三十六話 舌戦の一刀

 沈黙の刃が座の上に置かれた。紙も筆も動かない。障子越しの光が、畳の目を一本だけ白く撫で、空気が一段冷える。五郎右衛門は扇を畳んだまま膝上で留め、主計は盃の縁から指を半分だけ浮かせる。


 東洋は、ゆっくりと息を入れ、口を開いた。


「……“波頭はとう”の符牒ふちょう。まことの名は――鳴龍丸めいりゅうまる


 扇骨が膝の上で小さく鳴った。主計かずえの瞳が一分ほど深くなり、かなえの喉がわずかに動く。


 鼎は間髪を容れずに重ねた。

「鳴龍丸とは何か」


 すぐには答えず、東洋はまず席の順を見た。五郎右衛門の眉間の皺は浅く、主計の掌は机の縁から浮いたまま。いま言わねば、座は逆に乱れる。東洋はうなずき、言葉を置いた。


蒸気じょうきをもって水を裂き、螺旋羽根らせんばねをもって進める――新造の船じゃ」


 主計が口を開く。声は低いが、内に芯がある。

「長崎の工人に模型を作らせ、改良の件を進めておることなら知っちゅう。宇佐では小型の船を拵えよった。……そのことを言いゆうがか」


 東洋は首を横に振り、短く答えた。

「あれは目くらましじゃ。別の地――浦ノ内にてひそかに造船を進めておる」


 室の空気が目に見えぬほど沈む。鼎の瞳孔が細くなる。


「二万五千両――帳には『御用座へ貸与』と記す。その金を建造費に回したと、いま、ここで言うのだな」


「相違なし。材は山から舟路を経て、港の手前で“留め”て割り、夜明けに運ぶ。人は“鋳場の客分”と称した鍛冶と、浦の船大工。帳は二つ。ひとつは御用座へ“貸与”とし、もうひとつは材・鉄・炭の実地の流れに付けた」


 主計は無言のまま盃の縁を二度、指先で叩いた。三度目は来ない。叩いた指を止め、問いの芯だけを運ぶ。


「……船の寸法は」


 東洋はまっすぐに答えた。

「長さ十八間(約32.7m)、幅七間(約12.7m)。吃水は海路で変わるが、浦内でも充分に操れる」


 主計の背筋が、一瞬だけ揺れた。鼎の眉根がぴたりと寄る。座の誰もが息を足元へ落とす。短い沈黙が、数字の重みを座の四隅へ押し拡げた。


 鼎が先に言葉を返す。声は変わらず冷ややかだが、芯は一層固い。

公儀こうぎへの届の模型は長さ六間――帳にもそうある。三倍の大きさの船を、届けずにこしらえるとなれば、密造の疑いを免れぬ。手続きの外を踏めば、藩はとがを受ける。……今、江戸は異人船の影で過敏になっておる。土佐ごとき一藩が、手続の外で新器を拵えるは、政道に反する。殿の直命であろうと、家老衆に秘すこと自体が疑いを招く」


 部屋の温度が一段と下がったような気がした。小南は座の中心を崩さぬ角度で、扇を畳んで膝へ置く。主計は一言も挟まない。挟むべき時ではないと知っている。


「符牒で物資を動かし、横目付の印なき書付が混じり、浦では夜々舟留めが常態――疑えと言うておるに等しい。殿の命とはいえ、反対すべきではなかったか。名分はどこに置く」


 その「名分」の一語で、座の刃は半寸、のたうつ。東洋の眼が、短く燃えた。


「深尾殿。名分を立てている間に、潮は変わる。黒き煙を曳く泰西の巨艦は、風も潮も待たぬ。土佐の地勢は外海に口を開き、浦戸も宿毛も、いざとなれば避け場はない。わしは、器を先に据えるほか無いと見た。申請すれば却下されよう。『地方の分限を越す』『公儀の造船に任せよ』『外患の火種』――返るふみは見えておる。買い入れは費と幕威の両面で不可能。ならば自前でやる。――それが理じゃ」


 東洋の声はさらに鋼へ移る。

「薩摩は自前で砲と器械を回し、造船場を整え、反射炉にも火を入れておる。幕府は長崎で操船を教え、泰西より軍艦を買い付けて学びの形を持った。……それでも泰西の力には及ばぬ。わしらは学びの船で足を溜めているいとまはない。土佐は一藩ゆえにこそ走れる。名分で遅れた分は、器で埋める」


 鼎の声が一段、昇る。

「器を先に据える? 法度はっとの外に? それを理というて、秩序を捨てるのか。密造の嫌疑は藩だけでは終わらぬ。殿も、家も、人も折れる。いまは、条約だの公使だの、江戸の目は外にも内にも荒い。土佐ひとつの才走りで、天下の火種にされてはたまらぬ」


「才走りではない。間を守っただけじゃ!」

 東洋の言が一つ、鋭く畳に落ちた。小南の扇骨がぴしりと鳴る。主計の指が盃の縁を三度目、叩きかけて止まった。


「間と? 秘匿じゃ」

 鼎は切先を止めない。


「公儀に背は見せぬが、われら家老衆に背を見せた。秩序を守る側を外に置いた。――それが乱の種と気づかぬか」


「乱を避けるための秘であった」

 東洋の声は低く、しかし火は消えない。

「形が見え、数が立ち、人の筋が揃うまでの間を守るため、届を遅らせただけよ。刃で押し通す気はない。鞘に納め、橋へ替えて出す…」


「言はよい」

 鼎は遮った。

「だが寸法十八間、幅七間――船は既に刃じゃ。新器は見れば事が動く。見せぬまま動かせば疑いが立つ。どちらも座を崩す。座を崩さぬ道を先に述べよ!」



 座の温度が裂けかけた、その刹那である。


「深尾様! 先生!――理は刃と帳のあいだに掛ける橋にござる。いま、その橋板が外れかけておりまする。どうか一語、お待ちくだされ」


 藤兵衛が、畳一目ぶん前へ膝を滑らせた。深く頭を垂れ、声を張らずに芯だけを通す。


「――畏れながら申し上げまする」


 鼎はうなずきもしないが、否も示さない。頭を下げたままの藤兵衛に、見かねた主計が「申せ」と促した。


「まず鏡川の策――刻・札・鐘の三つで締める案、三日の小試しを帳に載せ、効果を数字でお目に掛けいたす。鐘の刻を打つ場、札の色の渡し方、番の置き所――見える図にして、帳一枚で示す。これは、深尾様の正道と衝突せぬ道筋」


 鼎は小さく頷く。数字で来る提案は、彼の性に合う。


「鳴龍丸の件は、ただ今のままでは深尾様の御懸念、もっともにござる。ゆえに――工程は先に開き、材の流通図、工の人繰り、費目。進捗は逐次開示する約を結びまする。また責任の置き場を分け、段取りは小南様、帳と合議は五藤様、報告は東洋先生が、現場の間は拙者が請け負う形へと落とすは如何かと」


 藤兵衛は、そこで言葉を切り、静かに続けた。


「もう一つ。宇佐浦奉行が嫡子、淡輪治郎兵衛が案じた双胴そうどうの型、そして岡豊の匠人と久礼田の鍛冶衆が造りし螺旋羽根――これらは、泰西においても、まだ実用の常に及ばぬ代物にございます。郷士・下士・上士が肩を並べてこれを形にすれば、それは藩の政と技の両輪を一挙に押す。土佐は遅れて追うのではのうて、『新しき世』を違う角度で一歩を踏み出せまする。他藩に遅れず、ひいては日ノ本が大きな一歩を刻むこととなりましょう」


 鼎の目がわずかに解けた。価値としての利が、理の秤の片方にのったのだ。主計も、盃の縁を再び叩くことはしなかった。


 藤兵衛は、最後の一手を出した。声は穏やかだが、芯が通っている。


「そして――殿がご家老衆に秘匿とした理由わけを、拙見ながら申し上げまする」


 ただ、刃を鞘口で押さえるように沈黙を保った鼎の胸に、わずかな熱が灯る。


「大型の造船は、遅かれ早かれご家老衆の耳に必ず届くはず。賢明なる容堂公が、それでも秘したは、帳簿の不突合、各所の不審な材と人の動き、そして世事の急変――この三つに気づき、それらを束の間に嗅ぎ分け、首謀たる東洋先生へ辿り着けるだけの眼を、ご家老衆が持つかどうか、……その気付きを見逃すか、このように毅然とただされるかを試したのではありますまいか」


 主計は目を細めた。鼎の眉が一分ほど上がる。侮りではない。自らの役として、その仮説を重んじる表情だ。


 座の気が、いくぶん動いた。鼎が口火を切る。

「……試すは、政のわざとして在る。受けねばならぬ時もある。だが、密造の嫌疑は拭えぬままには置けぬ」


 そこで、主計が初めて正面から言を足した。声は相変わらず低いが、決意の重みがある。

「鏡川の件、帳一枚で足る、という話は、わしの性に合う。……鳴龍丸は、話だけでは腑には落ちん」


 東洋がゆるく息を吐く。藤兵衛は膝を正す。五郎右衛門は座の中心を崩さぬ角度で頷いた。


 鼎は視線を宙に置き、短くまとめた。

「公儀の疑いを捨てねば、政は進まぬ。殿に掛け合い、われら三家老の立合いで、その鳴龍丸とやら、直に見せてもらおう。新しき世の形とやらを、目で受ける」


 藤兵衛は深く礼をした。声は静かに響く。

「かしこまりました。浦ノ内にて、操りをお目に掛けまする。船のなり、走り、かじの利き、波の抜け――見える所作は惜しまずお見せ申す」


 東洋も続いた。

「深尾殿、五藤殿。詫びは先に置く。頼みは、今ここに置く。――この席を荒らさず、まずは見ていただきたい。刃でなく、橋の仕事であったか否か、そこでさばいてくだされ」


 やがて、障子の外で鐘が一度だけ鳴った。刻を告げる合図。


 五郎右衛門は座のしまいを整えた。膝の上の扇を一度だけ開き、すぐ畳む。

「刃は納め、筆を上げる。――まずは三日、鏡川で会い、一月後に浦ノ内。殿へはわしが橋を架けよう」


 合意は短い語で結ばれた。座の者たちはそれぞれの役を胸に、静かに立った。

 東洋は五郎右衛門へ、無言の礼。五郎右衛門は目だけで返す。


 庭に出ると、風が笹を撫で、薄い影が畳に揺れた。藤兵衛は耳の奥で、まだ見ぬ螺旋羽根の音を聴く。水を噛む音、波を裂く音、舵が水を掴む音。新しき世の音が、遠くで微かに鳴った。


 小間の柱には、東洋が置いていった一字の短冊が残る――秋。

 実りは急がせぬ。だが、一筆あれば、風は刈り取りへ向く。

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