第三十五話 双頭問答
土佐東部の安芸は、海と山がひと繋がりに寄り合う地である。潮が満ちれば田の端が白く輝き、引けば川底の石が数えられる。
そこを知行とし、浦役や浜役、年貢の筋を束ねてきたのが五藤の家だ。鍛冶や船手、窯人とも縁が深い。
現当主・五藤主計正保、齢四十八。
算に強く、場の「数」を尊ぶ気質で、筆は遅いが二度は書かぬ。文久の頃には安芸内原野に窯場を整え、土や薪の手当、販路の扱いに身を入れ、殖産の理に明るい。固い節の指には珠算の癖が残り、盃の縁を無意識に三度、静かに叩く癖がある。――そんな骨を持った男である。
その主計と向かい合う席が、いま小南五郎右衛門の屋敷の小間に設けられていた。障子を透く秋の光は薄く、床の間の花は露を深く含む。
卓の脇には、赤・藍・白の三枚の札板と、潮の刻を示す簡図。麻綯いの細い緒が巻かれた小ぶりの鐘が、棚の影に静かに置かれている。
上座に小南五郎右衛門。右に主計。左に謹慎中の吉田東洋、その隣に朝倉藤兵衛。挨拶は最小に、すぐに本題へ入った。
東洋は座を正し、札板と簡図を示しながら献策を端的にまとめる。
「――潮の刻を枠に据える。上り、下り、留め。刻にあわせて浅舟の数を割り振り、荷の先後は色札で一目にする。川口に鐘をかけ、刻を打って全体の拍を合わせる。争いは“見える”ほどに減り、詰まりは日毎に薄らぐはずじゃ」
詫びの一言も、冒頭に置かれていた。「まずは今までの非礼を詫びる。謹慎の間に考えを改め申した」と。
主計は、背筋を変えずに一段深く東洋を見た。
(吉田――わしの見立てでは、あれは“刃”の男じゃった。場を削り、理で押し通す。だが)
今日の声は、刃の鈍りではなく、鞘の覚えに近い。言が短く、先に詫びを置き、策は“形”から入る。言葉の荒を引きつつ、紙を出す前に段取りを先に立てる――。膝前の札板が、話に合わせて置き直され、場の像が静かに組み上がっていく。
(……変わったもんじゃのう。いや、労を重ねたと言うべきか)
「なるほど、理は腹に落ちた」
主計は湯を口にし、盃を戻した。湯の縁で小さな輪が一つ、ほどける。
「刻・札・鐘――三つで締める。わしの性にも合う」
東洋の眉がわずかにほどけた。だが主計は続ける。視線は崩さず、言葉だけを一段低く。
「ただ、謹慎の禁を破ってまで、そなたを小南に通したがは、策を聞くため“だけ”ではない。――そなたがふたりで来るなら、こちらも呼ばねばならぬ者がある」
主計は五郎右衛門に目配せした。五郎右衛門は一度だけうなずき、障子へ向いて拍子を二度。
薄い音で襖がすっと開いた。
滑るように入ってきたのは、若いながら切れのある所作の武家であった。二十代の気配を残しながら、眼に年長の冷ややかさが乗っている。衣は簡素に見えて縫いは細かく、膝の置きどころに迷いがない。
佐川の知行者、深尾鼎重先――齢三十。
土佐藩筆頭家老・深尾家の当主。五藤家とは婚姻の縁で結ばれ、主計の正室は深尾家の娘である。政の表と裏に通じ、理を運ぶことにかけては鋭く、若年でありながら重臣を相手に真正面からやり合う胆力もある。
この男は、かつて東洋とぶつかった。やり合いは激しかったが、ただの意地ではない。鼎は理の筋を立てずに動くことを認めない。まず問いを置き、前提と用語を正し、帳・人繰り・印判の三つが揃わねば首を縦に振らぬ。
江戸詰の折には、浦役の賦課替えと廻米の割付をめぐって、東洋の机上で夜半まで条目を数え合ったこともある。詫びの一語より先に手続の順を、胆力より先に証拠の束を求める男だ。声は荒げぬが、理にほつれがあれば、畳の目ひと粒の間で静かに切って落とす。刀ではなく筆と算盤で人を斬る。
ゆえに三家老のうちで、最も手ごわい相手であった。東洋自身、最後に手を付けるつもりでいたはずの石が、先に打たれたのだ。
東洋の指先が、湯呑の縁で一瞬だけ止まった。
(五郎……ここで鼎を出すとは)
五郎右衛門は視を伏せ、わずかに息を置いた。元より断りきれぬ訪い。席の主として引き受けるほかない。
鼎は短く礼した。
「遅参、失礼」――それだけ。挨拶はそれきり、すぐに座を正す。座布団の端が小さく鳴り、空気がひとつ締まった。
主計は声を固くせず、ただ短く言った。
「座は整うた。聞くは、利くためじゃ。荒らしに来たがではない」
鼎の眼が、東洋へ静かに向いた。薄い光が黒目に走る。
「吉田殿。挨拶を略する無礼、お許しあれ。こちらにも刻がある。――容堂公の直裁文のうち、三家老に回らぬ筋が、近頃目に立ちますゆえ」
東洋の背に、秋の風が細く流れたような気がした。鼎は淡々と続ける。声は大きくないが、よく通った。
「そもそも鏡川筋の物資の偏りは、今まで以上の砂鉄、炭、木材の運搬によるもの。どれも“石立砲鋳所”のほうへ寄せておる。帳は一見、臼砲の製造数と整うに見えるが、横目付の印が抜ける書付が混じる。中には黒塗りの書付と符牒の文字が二度三度、目に入った」
主計の頷きは小さく、しかし否ではないと示した。五郎右衛門は眼を伏せたまま、客を招いた己の責を噛みしめる。
鼎は指を一度だけ折り、さらに列ねた。
「浦戸・宇佐には“鋳場の客分”と称する鍛冶衆の出入りが目立つ。名目は巡見。――特に須崎浦ノ内は夜の“舟留め”が常となっておる様子。番所の鐘は打たれず、太鼓のみが鳴る。いずれも、政の筋であれば帳の裏付けが要る話。だが、帳にはない。……これは、筆頭家老の目にも余る」
座の空気が、きしんだ。
東洋は口を開きかけ、すぐ閉じた。ここで理を立てれば、鼎は正面から受けて立つだろう。言葉の闘いになれば、座は崩れる。小南の小間で、それは許されぬ。
主計は湯をひと口含み、盃を音なく置いた。沈黙は攻めではない。ただ、鼎の言葉の確からしさを、席に置いておくための黙である。
東洋の指先が、袖の中で一度だけ握り、ほどけた。藤兵衛は息を詰め、膝をわずかに進め、しかし声は出さない。いまは東洋が応える番だと分かっている。
しかし、それを見透かしたかのように、今度は鼎の視線がすっと藤兵衛へ移った。
「その方、朝倉藤兵衛と申したな。――江戸の大地震の折、殿に材木の買い集めと江戸送りの転売策を献じ、需給の乱れを予見し利に換えたと小南殿に聞いた」
鼎の声音はやわらかいが、褒め言葉の奥に秤の重みがある。部屋の空気がわずかに沈み、次の言葉を待つ間が生まれた。
「策は見事である、転売で得た七万両の功は疑うべからず。――しかし、調べてみると、うち二万五千両の去就が判らぬ。帳には『御用座へ貸与』と記すが、貸し先と返納の時が書かれておらぬ。土佐の金は土佐のためにある。どこへ走らせた?」
そして、改めて東洋へ向き直る。鼎は、一歩も、言を逸らさない。
東洋は口を結び、視線だけで小南と主計の順を測った。証拠はすでに抑えられている。拙い反論では座が砕ける。藤兵衛はわずかに顎を引き、未だ語るべき刻ではないと合図する。主計は腕を組み二人を見据えたまま、盃の縁を無意識に三度、静かに叩く。
――座が沈黙で満たされ、畳の目がやけに細かく見えた。
凪の面に一石を投げ込むように、鼎は言を継ぐ。
「殿は、三家老に秘すべきことを動かしておられる」
その瞳に宿るのは怒りではない。主君の意に反しても、政の秩序を守る者として問わねばならぬという、冷たく小さな炎であった。
「……“波頭”。その符牒の意味を、ここでお聞かせ願おう」




