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第三十四話 秋、一筆

 安政四年八月。朝の湿りがまだ城下の瓦に残り、役所の障子に斜めの光が刺していた。


 小南こみなみ五郎右衛門ごろうえもんは、筆を置くも惜しんで次の紙を引き寄せる。


 側用役そばようやく――殿近侍の耳と手。取次ぎ、内命を伝え、儀礼を整え、急変に走る――政の見えぬ継ぎ目を受け持つ。

 意見は上申するより「通す」。敵味方の線を曖昧にし、今日の段取りを明日の形に変えていく。


 卓上の木札には、藩主・容堂直筆の書付かきつけが差さっている。黒塗りの符牒で「波頭はとう」とだけある。


 蒸気船建造――鳴龍丸の件だ。保守の上層へは秘し置くこと、と最後に細い線が走っていた。信は変わらず厚い。厚いがゆえに、重さもまた増す。


 そこへ鏡川筋からの陳情が重なる。商人座の書判は三十余、紙はどれも湿り気を含み、墨の色が濃い。

 螺旋羽根の鋳造いものに要る炭や砂鉄、木材が川へ集中し、日用品の運びが滞る――水位が落ちるときの舟の座り込み、荷役場の渋滞、口約束の食い違い。


(まずは何に怒っておるかを数えるべきじゃ)

 紙を裏返し、欄外に小さく要点だけ記す。「潮の刻」「舟の数」「荷の先後」。名を付けるのは後でよい。まずは数えるべき筋を見立てることだ。


 取次と評定の合間に、白封の一通が卓へ滑った。


 表に一字、「秋」。差出人の名はない。

 だが、筆の起こしと封の折りで察しはつく。――東洋の雅号だ。


 すぐには開けぬ。先に今日の川を片づける。舟手の手元へ陳情の数をそろえ、鋳所の搬入割を整え直す。眼と手が空くころ、日はいくらか傾いていた。


 暮れかかる頃、大川筋の家屋敷に戻る。庭は近い流れのためか風が涼しく、笹の葉が音を吸う。縁で草履を脱ぎ、静かな月を一つ仰いだのち、灯も点けずに封を切る。


 文は短かった。秋の字を冒頭に置き、季の移ろいを軽く撫で、要点は三行に収まる。


――宿毛の主馬かずまとの話は進んだ。人を先に置き、仕法を紙から下ろす段取りが見えた。鏡川の詰まりについて、舟手の家老・五藤へ話を通す“場”を、小南に設けてもらえぬか。――


 払いが短い。以前の彼なら、ここで横画を強く引いた。いまは押さえが利いている。


「……秋は、実りを急がせぬ。だが、一筆で風向かざむきは換わる」

 紙を指に挟み、月へ薄くかざした。紙を透かす月の白は淡く、墨の黒ははっきりと見えた。




 後日。人目を避けて、小間へ客を迎える。扉が静かに動き、東洋が現れた。直に会うは一年ぶりであった。


「少し見ぬ間に頬がこけたのう、東洋」

 東洋は笑い、すぐ真顔に戻す。

「五郎こそ眉間に一筋、まつりごとの皺が増えたようじゃ」


 四十四と四十一。年は違えど、背筋の線は似ている。東洋の目はかつてより深く、声は以前より短い。言葉と沈黙の境に、柔らかな間が置かれている。


(刃の男が、鞘を覚えたか)

 五郎右衛門は湯のみを双方の中ほどに置き、坐を少し詰めた。


 ひとしきり旧談を交わし、やがて話は江戸藩邸のあの夜へ移った。

 酒席が荒れ、酔った旗本がふざけて藩士たちの頭を叩いて回った。そこへ東洋が立つ――


「先に拳を出したのは東洋だ」と言う者もいれば、「止めに入った拍子に場が崩れた」と言う者もいる。恨みを持つ者は要点をぼかし、証言は食い違う。ただ、その夜が東洋の帰国と参政解任の始まりになったことだけは確かだった。


「わしはあの折、理を斬って場を守るつもりでおった。けんど実際は、場を壊した。役を解かれ、土佐へ戻り、塾を開いてから、ようやくわかった」

 東洋は湯をひと口含み、息を置く。


「わしは橋を架ける。上の理と下の熱、そのあいだをわしが担ぐ。――“一人で救えぬ”と知るがは恥ではない。知りながら橋を架けぬことが恥じゃ」


 五郎右衛門はうなずく。上士である自分が、下士の不平に耳を塞がぬよう努めてきたのは、政の習いに反するからではない。数と段取りで救える声があると知っているからだ。

 下士への肩入れが過ぎると陰で言われた時期もあった。だが、声を数に落とし、数を形に起こし、形を政に通すのが己の役だと思っただけだ。


 湯の湯気が細る。東洋が本題へと身を寄せ、包みを解いた。

「鏡川の詰まりは日ごとに増す。炭も砂鉄も木材も、皆、川へ寄る。商人座はき、台所は塩を待つ。――そこで、少林の門下となった岩崎弥太郎の献策じゃ」


 差し出された紙は、若い字で簡にして要。五郎右衛門は指腹で紙の縁を押さえ、目を走らせる。

「潮の刻を枠にする。上りの刻、下りの刻、留めの刻――三つの枠。浅舟は刻みに合わせて数を割り振る。荷の先後は色札で統一、川口の鐘で刻を打つ。容器の回送は先行、空舟は帳面に先に走らせる。……これで争いは“見える”ようになる」

 紙面の端には、刻の印、札の色、鐘の打ち方が簡図で描かれている。


(なるほど、潮・札・枠。策は形で動き、形は数で締まる)

 五郎右衛門の胸の内で、朝に書いた「水位・舟数・順」という素描が、今ここで骨を得た。


「舟手御用掛の家老、五藤ごとう主計かずえ。ここを抜かねば、川は動かぬ。わしは未だ謹慎の身。正面からいどめば、理が立っても場が瓦解する。――五郎よ。“場”を、そなたが設けてくれ」


 小南の名で設ける席であれば、誰も面子を損ねずに座れる。側用役は「耳と手」、それ自体が緩衝である。


 五郎右衛門は短く目を閉じ、開いた。

「承知――と言いたいが、ひとつ条件がある」

「申せ」


「“鞘”を連れて参れ」

 東洋の眉がわずかに上がる。


「鞘、とな」


「朝倉藤兵衛じゃ」

 東洋の目の奥で、わずかに光が動いた。


「会うたか」

「会うてはおらぬ。だが、その名はよう知っちゅう。あやつの木材転売の献策を容堂公へ取次いだのはわしじゃ。あの紙の息遣いは、人に落ちる“理”を持っちょった。刃がよく通る席に、鞘は要る。主計は保守の筆頭じゃ。理だけでは折れん。で和し、数で下ろす手がいるろう」


 東洋は口角をわずかに上げ、肩の力を少し抜いた。

「なるほど――鞘、か」

「そなたは刃を持つ。よく切れる刃は、抜き際も収め際も難しい。わしは場を用意する。そなたは刃を持つ。藤兵衛は“間”を持つ。――三つを合わせる場なら、主計も座を崩さずに済む」


 東洋は深くうなずいた。

「よかろう。鞘を連れて参る」


 段取りは手早い。


 五郎右衛門の役目――三方の根回し。舟手へは「枠・札・鐘」の言を先に入れ、商人座には色札の見本を持たせてかしらに回す。鋳所へは搬入の刻を一つずらす“退路”を用意し、無用の反発を避ける。


 東洋は五藤家の面子を立てる語を用意し、席の最初に「詫び」の一語を置く。

 弥太郎の策は数の紙を整え、鐘の刻と札の色を見える形にして持ち込む。

 そして藤兵衛――話が熱を帯びる刹那に人の言葉へ言い換え、理を刃にせず橋にする。


「主計は正直者で、利には聡い。筋も違えぬ。筋を違えぬ者は、筋が見えれば早い。……ただ、筋を見せるまでが遠い」

「見せるのは、わしらの役じゃ」

 二人は同時にうなずき、笑った。笑いは短く、すぐ消えた。


 席を立つ前に、東洋は懐から小片を出した。薄い短冊。黒々と「秋」と一字だけ。

「置いてゆく」


「ほう。東洋ともなれば、ひと文字で事を動かすか…」

 五郎右衛門はそれを月に透かし、ふっと笑った。


「秋は実りを急がせぬ。けんど、一筆あれば、風は刈り取りへ向く」

 東洋は「頼む」とだけ言い、座を立った。


 襖が静かに閉まる。夜の庭を風が渡り、笹の葉がさわと鳴る。遠く、川口の方から鐘が一つだけ。


 五郎右衛門は卓へ戻り、札の色を三つ、指で叩いて確かめた。赤は上り、藍は下り、白は留め。潮の紙にしるしを打ち、鐘の刻を入れる。筆先は迷わない。


(東洋はかつて“刃”の人じゃった。ついに自らを受け入れ、鞘を知った――ならば、わしが場を設け、その刃を橋に替えてみせよう)


 月は高く、秋の気がひそかに濃くなった。あすより根回しが始まる。まずは舟手の側役へ、次に商人座の頭へ、最後に鋳所へ。


 政は人、海もまた人。側用の役は、今日も明日も、橋の下で水脈を整える。


 五郎右衛門は短冊を卓の端に置き、灯を落とした。月は冴え、墨の香がわずかに残る。秋の一筆が、静かに場の風向を換えはじめていた。

参考文献:『御侍中先祖書系図牒』

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