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第三十三話 大震行

 墨の香が、戸口の外の潮気をそっと押し返していた。夜明けの白がまだ瓦に残り、路地の砂は露を含んで重い。


 少林塾の裏手、板戸の影から三つの影が現れる。先頭は太郎左衛門主馬、供は若い家士ふたりのみ。草鞋の緒を指で押さえ、敷石に散った砂を音も立てず払う。表で名を呼ばず、塀沿いを回って勝手口へ。


 戸が内から一寸だけ開き、灯の残り香と墨の匂いが細く漏れる。迎えたのは東洋であった。筆を洗ったばかりの指先を手拭いで拭い、深く一礼する。

「このたびは、ようお越し下された。――人目もあろう、奥へ」


 廊を行く。畳の目は乾き、格子の影が床に細い列を作る。庭の砂はまだ冷たく、障子の向こうで湯が一度だけ鳴る。


 小間に通すと、文机の脇に湯呑みが三つ、湯気は立てず、ただ香だけが静かに満ちる。東洋は座を正し、まず頭を垂れた。


「先ずは拙者の非礼を詫び申す。言の鋭きが過ぎ、家老衆と貴家にも角を立てた」

 言葉は一息で切る。続けて、声の張りを少しだけ和らげた。

「宿毛は“寅の大変”で痛手と承る。氏固うじかた殿のご容体はいかがか。心労が重なった由、案じておる」


 主馬はわずかに視線を落とし、すぐ戻した。縫いの細かな袖口が微かに揺れる。

「父は倒れ、隠居いたした。浜の手当てを急ぎ過ぎたかもしれぬ。されど、太郎左衛門の名と志は残った。潮の音を背に、静かに横たわっておる」


「左様か……。御身の疲れも深かろう。まずはここで、為すべきを整えたい」

 湯の気配が置かれ、二人は盃を手にした。素焼きの肌が指先にひやりと触れ、縁を合わせる代わりに目で合図を交わす。外の庭で雀が一声鳴き、すぐ静まる。


 主馬が盃を置く。膳の木地がわずかに鳴った。

「わしも父の代のかどを引きずる気はない。学ぶべきことは学ぶ。そのために来た」

 東洋は深くうなずく。頷きに合わせ、結ったまげの根が一度だけ揺れる。

「ありがたく」


 塾の一間に、墨の香がさらに濃く満ち、言葉の準備だけが静かに整っていった。



 主馬の視線がふと壁に止まった。床の間の脇、薄鼠の地に濃い墨が立つ。


 一幅の掛物――墨痕はまだ艶を残し、筆圧の強い縦画の末が紙の裏へとわずかに滲んでいる。近ごろの書かれたと知れる。畳の端に落ちた墨の微かな飛沫が、書の勢いをそのまま止めていた。


「……これは」

 東洋が座を少しずらし、掛物の前に手を添えた。指先が紙縁の遊びを静かに押さえる。


「『大震行だいしんこう』――かつて書いた詩を、いま一度、書き直した」


 主馬は目でたどる。筆画の太細に合わせて、呼吸が自然に整う。


 天崩地裂一時休

 万物那堪震怒憂

 但使人心能不死

 大千世界復優游


 天が崩れ地が裂けるような大災も、ひとときは静まる。

 万物はこの地震の怒りに耐えられるだろうか。

 ただ、人の志さえ死なぬなら

 広大な世界も、再び安らぎへと巡るだろう。


 読み終えると、室の静けさがすこし深くなった。畳に落ちた光が一度だけ薄雲に遮られ、墨の面に淡い陰が走る。墨と膠が乾く前のわずかな甘い匂いが喉の奥でさざめき、遠い風鈴が一度だけ鳴った。


 東洋は盃を置き、言い訳の色を含まぬ声で続けた。

「元の詩は、“寅の大変”の折に詠んだ。……日が落ちぬうちに火が屋根を跨ぎ、地が鳴り、浪が走った。圧し、焼け死ぬ者が積もるのを、わしはただ見るほかなかった。参政の役を解かれ、目の前に惨事あって何も手が出せぬ。ゆえに自らを『土佐罪人吉田』と記し、悔いを墨に沈めた」

 言葉とともに、東洋の手が膝上で一瞬こわばり、すぐ力を抜く。


 主馬は黙ってうなずく。喉仏がわずかに上下し、唇にほんの少しだけ色が戻った。

「その後、塾を開き、門下の思いに触れた。剛の者、静の者、海を識る者、算に長ける者――一人の力で大事は動かせぬことを、わしはここで学んだ。上に抗うでも下に媚びるでもなく、和を以て志を束ね、上の理と下の熱の“橋”になるほか無いと」


 東洋は一字ずつ確かめるように、結句へ指を添えた。

「それで、七言絶句に書き直した。災いは巡る。だが、人の心の灯が死なぬなら、世もまたやすらぎへ戻る、と。詩に託すのはいではなく、人を育て、次に渡す務めじゃ」


 主馬の喉がひとつ鳴った。掛物の下端で紙縁がわずかに揺れ、光が墨の面で細く走る。袖口の中で指が一度だけ握られ、またほどけた。

「……宿毛も、寅の大変の大波に呑まれた。父は浜の復しを急ぐ中で、心折れて倒れた。志は残れど、身は退いた。その父の枕元で、わしは何度も海の音を聞いたが、言葉は出なんだ」


 東洋の言は短く、どれも心に触れる。

「いま、この句に会うて、胸のどこかのつかえがほぐれた。災いは止まらぬ。されど、人の心が死なねば――」

 言葉の先が、息にほどける。


 主馬の目元に一筋、涙の線が現れ、袖を上げる前に乾いた。庭で早咲きの花が一つだけ風に揺れ、影が畳に小さな輪を落とす。


 東洋は軽く首を振り、柔らかく応えた。

「主馬殿。わしは、前の詩で自分を罰した。今の詩では、自分を使う。その違いが分かるようになったのは、塾を開き、人の才とけ目を連れ立って見たからよ。……“一人で救えぬ”と知ることは恥ではない。恥は、知りながら橋を架けぬことじゃ」


 一拍の間を置いて言葉を継ぐ。

「わしらは同じ海を見ゆ。政は人、海もまた人。この一幅は、過ちの悔ではなく、これからの務めの誓紙と思うてくだされ」


 主馬は深く礼をした。礼の深さに合わせて、結ったまげの根が畳の光を一瞬だけ遮る。

「承った。父にも、宿毛にも、そして自分にも、この一句を携える」




 湯の湯気が細り、室の息が落ち着いた。東洋は掛物の前で、地図を出さずに口だけで地勢を描く。言葉に合わせて指が畳の縁をたどり、線と点が見えぬ図になる。


「宿毛は豊後水道の口にして外海の額。北西の吹き抜けと南寄りの荒れ、二つの風が交わる。潮目が近いゆえ砂洲は移ろい、難破と漂着は年の常。港は利を呼ぶが、密の品や人も呼ぶ。さらに津波・高潮の筋道は一本、町と納屋を真っ直ぐに撫でる――」

 主馬は黙して頷く。頷きの拍に、供の家士の肩が自然と揃った。


 東洋は結ぶように言った。

「災いは止められぬ。だが“受ける器”と“返す仕法”を先に据えれば、災いは利へと傾く」


 東洋は掌で三つ、短く印を打つ。指先が掌に触れる音が小さく鳴る。

「まずは人。つぎに海防。しめくくりに殖産、じゃ」


「一、人。身分にとらわれぬ目付・側役を直に置く。帳と図に強い者、浜のことわりに明るい者を登用するのが肝心じゃ。さらに郷校ごうこうを設け、読み書き・算・測・潮見を教える。褒賞は名でなく働きで与える。これで“見る眼”と“数える手”を増やす」

 主馬は「名でなく働き」という一語にうなずき、袖中の指が一度止まる。


「二、海防。仕法は先置き。出入りの刻、日信ひのしるし夜信よるしるし、旗・灯・太鼓を定め、岸離れの順を争わせぬ。港外には標杭を立て、浅瀬と針路を図で示す。台場は射界、地形、人繰りで最小に配す。救助と改めは同じ所作でできるように――助けてから問い、品は帳で照らす。これで善意と警めを両立させる」

 視線が自然と障子の外、海の方角へ流れた。


「三、殖産。海辺の底力を起こす。造船は小回りの利く舟から手を付け、つなを地の物でこしらえる。塩田は手を入れて歩留まりを上げ、背後の山からは木炭・鉄・麻を系統立てて集め、港で値の見える取引にする。港役や手数は明記し、分け前で争わぬよう最初に書く。利の道筋を澄ませば、人は自ずと集まる」

 言が収まるにつれ、室の空気が一段落ち着く。紙の上で走るはずの線が、頭の中で静かに接続した。


 東洋は結びだけをもう一度、ゆっくりと置く。

「策は多く見ゆるが、急ぐは人じゃ。人が定まれば、砲も役も、紙の上から下りてくる」


 言い切った声は低く、しかし迷いがない。庭の風が障子を一度撫で、墨の香がわずかに濃くなった。外路地を早足で過ぎる荷車の車輪音が、遠くで一度だけ軋む。


 主馬は静かに膝を進めた。座布団の端が折れて、すぐ整う。

「東洋殿、藩政へと戻られよ。わしが後ろ楯となる」


 東洋は深く礼し、「志を束ね、橋とならん」とのみ応えた。言葉に余熱はあるが、たかぶりはない。


 二人は盃を合わせず、ただ視で握った。障子に風が触れ、掛物の末行が淡く光る。

 太郎左衛門の名を継いだ者として恥じぬ応えを、――主馬は胸に刻む。


 人の志さえ死なぬなら、広大な世界も、再び安らぎへと巡るだろう。


 座敷の片隅で灰に埋めた香が細く伸び、香煙が一筋、天へ上った。

※元の『大震行』(高知県立歴史民俗資料館所蔵)は、長浜で蟄居中の東洋が安政南海地震の体験をもとに詠んだ漢詩です。家屋を覆う火勢、地を掠めて走る激浪、圧死・焼死が積み重なる惨状など、被害をきわめて具体的に叙述し、謹慎の身であり目の前の惨事に対して、為すべきことを為せない悔恨を「土佐罪人吉田」と自嘲しており、為政者としての強い責任感が吐露されています。原文は約280字と長いため、作中では分かりやすい七言絶句に改変しました。


参考文献:『大震行』

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