第三十一話 叱り弥太
神田の夕まぐれは、稲の葉の匂いと墨の湿りがまじる。鏡川の風が畦を撫で、三所の祠のあたりに、板戸の低い長屋がある。看板はない。障子の隙から反古紙の山と、算木がころりと鳴る音だけが漏れていた。
近藤長次郎は戸口の前に立ち、浅く咳払いしてから声をかけた。
「師匠、居るろうか。長次郎です」
しばし沈黙ののち、部屋の奥から、低く太い声が返った。
「どういた、もう今日は講義も終いじゃ」
「師匠に会いたい言うお方を、連れてきました」
「入塾いうことか? 銭は持っちゅうがやろうな。こないだの月謝も払わんと逃げた貧乏侍じゃなかろうの」
言い終えるより早く、引き戸が食い気味に開いた。中から現れたのは、浅黒い頬に光る眼の若い男。髷は乱れず、袴は質素だが、柱に刻まれた潮時の印と同じく、目の中に刻みがある。
彼は、外に立つ二人――良輔と退助――を上から下まで舐めるように見た。衣の縫い、袴の折り目、佩刀の柄の磨り減り方。
「なんじゃ――“役目”の臭いがするのう」
鼻で笑い、門口に半身で立ち塞がる。
長次郎が慌てずに進み出る。
「師匠、こちら、後藤さまと乾さま。城下で実務の才を探しゆう、と」
良輔は深く一礼し、声を整えた。
「突然にて失礼。城下で近藤殿に導かれて参りました。少し、お話だけでも」
男は口角をわずかに歪める。
「長次郎をなんと言いくるめたか知らんが、上ばっかり見ゆう役目の侍に貸す耳も頭もないぞ」
退助は肩で笑い、わざと軽く言う。
「塾は耳を貸す所やと聞いちゅう。耳を閉じる稽古はせんろう」
男はじろりと退助を見、あえて名乗らぬ二人の腹を試すように間を置いた。先に名を出したのは良輔だ。
「後藤良輔と申します」
「乾退助じゃ」
「……ふん。おれは岩崎――岩崎弥太郎。ここは役目の侍やのうて、長次郎が饅頭を担いで学びに来る場所じゃ」
名乗りの形だけは済んだが、戸は半分しか開かぬ。弥太郎は、すぐさま自分の土俵へ引きずり込む。
「話なら話で、こっちが困っちゅう話を聞かせちゃる。――鏡川の舟が詰んじゅう。近頃、石立砲鋳所のほうへ炭と鉄砂をようけ運びゆうき、追手筋の荷駄が川止めじゃ。黒船がくる言うて大筒でも作りゆうがやろうが、日々の油や紙や乾物が遅れたら、店の仕込みが死ぬ。いつもお上の都合が下々の暮らしを詰める。これが理か?」
良輔は、はっとして目を伏せた。胸の奥に冷たいものが差し込む。
「町人の生活に、そこまで影響が出ていたか……」
長次郎は指先の粉を払いつつ、小さく頷いた。
「たしかに……近頃、灯心の入りが乏しく、夜の仕込みを昼へ半分寄せております」
「ほれ見い。そういう“急ぎの荷”の名の下に、飯の種が後回しや」
乾いた音が一つ、畳に落ちた。退助は一歩、土間の縁へ。弥太郎の短い息継ぎに、言葉で火を点ける。
「嘆くだけなら誰でもできるちや。この塾では、不平の言い方を教えゆうがか?」
長次郎が「師匠……」と袖を引くが、弥太郎は眉を跳ね上げ、唇を吊り上げた。
「ほう、言うのう。ええか、いまは潮が悪い。舟頭は人足を減らされ、箱はばらばら、札も揃わん。お上が口で“急げ”言うたら船は速うなるがか? なるもんなら、わしが先に叫んじゅうわ」
「そうじゃ。叫んでも進まん。けんど、段取りで進むことはある、――じゃろ?」
退助が弥太郎の言の先を読んで目配せすると、良輔が静かに手を挙げた。
「ここで、川の“理”と町の“理”を縒り合わせいたしたい。舟の数は増えぬとして、岩崎殿には何か“策”がおありと見えるが…」
良輔の声が落ちるのとほとんど同時に、弥太郎は畳に手をつき、脇の反古紙を一枚引き寄せた。筆は短く、運びは速い。
「策は四つ。まず――力を借りる。舟の力やない、潮の力じゃ」
反古紙に、鏡川の流れを一本の線で描き、河口・橋下・中継の三点に小丸を打つ。
「荷を重さごとに三つに分ける。重――油・鉄砂・米袋、中――紙束・乾物、軽――空箱・縄。上りは押し潮に重と中、下りは引き潮に重と軽。潮見番を三所に置いて、合図は鐘じゃ」
「二刻ごとの“枠”を切って、舟は色札で枠に入る。藍が重、茶が中、白が軽。遅れたら次の枠へ繰り下げ――口先で『急げ』言うより、潮という大きな手に押させたらえい」
退助がうなずく。
「潮は力、か。人足を増やすよりも確かやの。浦戸か仁井田の港で予め荷分けをしちょったら、より早うできるのう」
良輔が追い書きする。
「なるほど。潮見番の鐘は三打ちで上り、二で下り、と決めれば分かりやすい。潮を時報にするわけか」
弥太郎は「次」と言って筆を置き換えた。
「二つ目。浅底の小舟で刻む。水位が浅い刻は、橋下と中継岸の間を小舟で往復させるがじゃ。大舟は待たせず戻す。置き場には屋根と番太、荷主印は丸に店の頭一字で合わせて、荷が混ざらんようにする」
「浅い刻は浅い舟で刻む――理に温度があるのう」
長次郎が進み出て、所作帳を広げる。
「置き場の夜番は何人かで回すとよろしいかと。受け渡し帳は日付・時刻・印・量の四列。夜の盗難は番太の交代印で責任を切り分けできましょう」
「三つ目」弥太郎の筆はさらに短くなる。
「札の統一。今は急ぎ札・店札・舟札がばらばらやき、我先にと喧嘩になりゆう。三段書きの一枚札にしたらえい。上段に急か並か、中段に枠の刻、下段に荷主。札元は三所。先着でなく枠抽選、日暮れに清算帳場で積み漏れやら遅延を見えるようにして、翌日の枠に繰り込む」
良輔は頷いた。
「数字が叱る、というわけじゃな」
「四つ目」弥太郎は、空の木箱を指で弾く仕草をして笑った。
「空樽・木箱の回送を先に動かす。軽枠に“空回船”を設け、荷主は容器に預り札を付ける。期限越えは保証銀の没収。小口は連れ荷で束ね、帳場に取り纏め役を一人置く。容器が先に帰れば、次の仕込みが止まらん」
退助が唇の端を上げる。
「空を先に動かすか。逆さの理やが、筋は通っちゅう」
四枚の反古紙が畳に広がった。墨は乾き、字は短く。
良輔は静かに指を添え、全体を束ねた。反古紙の角が、爪の下でかすかに鳴る。
「潮、浅舟、札、容器――四つは噛み合う。在野に埋もれるには惜しき才じゃ」
「ふん、褒めても飴はやらんぞ」
弥太郎は鼻で笑い、筆先の余った墨を紙縁でそっと払った。長次郎が目だけで師の機嫌をうかがう。
「――これを、治政のほうへ渡す形に直したい。追手の河岸方、鋳所、奉行所、札元の三所……根回しの順は、こちらで引き受けよう」
良輔の言に、弥太郎の眼が細くなった。
「根回し、かえ。こんな場末の浪人の策なぞ、御城下の石頭どもが聞くとは思わんが」
「わしらは“役目”の者ではなく、“少林塾”の門下じゃ」
「左様。吉田東洋先生が、“新しき世”を創るため在野の才を求めておるのです」
東洋の名に、ぴくりと弥太郎の眉が動く。今は謹慎の身とはいえ、数年前まで藩政を仕切っていた参政の名を知らぬわけはない。
しかし、弥太郎の口からは毒が吐かれる。
「上士の塾で、町人や浪人をごったに入れて、うまく行くち思うがか。少林塾や言うが、名ばかり立派で、中味はお上の理屈の稽古場じゃろ。上ばかり見ゆう者と混ぜたら、割を食うがは下ばかりじゃ」
長次郎が口を開きかけたが、退助が手で制した。退助は一歩踏み出し、弥太郎の真正面に立つ。声は軽いが、芯は固い。
「――おんしの“否”という言葉の端に、野心の匂いがある。上を呪うだけやったら、才は錆びる。反骨ばかりでは出世はできんぞ。上に踏み入る気概もないがやったら、城下外れで吠えるだけの“私塾の主”で終わるろう」
畳の上に、短い沈黙が落ちた。長次郎が小さく息を呑む。弥太郎の目の奥に、何かがかすかに動いた。
良輔がその沈黙の隙に、柔らかく声を置く。
「商は数と信用、そして調停です。岩崎殿の策は数に立ち、言葉は短い。短い言葉を場へ通すには、場を用いるが早い。われらは命じに来たのではない。――持ち寄りに来たのです」
弥太郎は、二人の顔を見比べた。上士の言葉に、鼻で笑う癖が、今は躊躇した。長次郎がそっと、師の肩を押す。
「師匠。後藤さまと乾さまは、師匠が思うちゅうような“上士”とは違います。理は通すべきところへ通したほうが、腹も静まります。わしも一緒に行きますき」
弥太郎は眼を伏せ、算木を指で転がした。コト、と一度。顔を上げると、口元にうっすら笑いが刻まれる。
「……おれが、書く。短く、足るだけ。潮枠と札の骨は、おれが。置き場と空回船の運用と、費目の目安は――長次郎、書けるか」
「はい。番太の賃、屋根の板、縄の替え、夜番の交代印の台紙……帳場の費目は任せとうせ」
退助が頷き、手早く段取りを刻む。
「よし。明後日・巳の刻(午前十時ごろ)、東洋先生へ参ろう。先に河岸方の耳を温めちょく。口は短く、札は長く。――わしは鋳所と奉行所のどこから入るか順路を引く。やす、書式を整えちょけ」
「承知した。いのすも“家の名”を上手く使えよ」
弥太郎が筆箱を閉じ、板戸の隙から夕の色を見た。鏡川の風が、畳に伏せた四枚の反古紙の角を一つ、めくる。
「城下の理は、川の理と喧嘩することが多い。……容易うにはいかんじゃろ」
長次郎が笑って、包み紙を取り出した。
「道々、腹が鳴らぬように。饅頭、二つは師匠に。――もう二つは、お客に」
「一人で二つ食う男がおるき、次からは五つにしちょいてくれ」
退助の冗談に、弥太郎も肩で笑った。板戸を引くと、三所の祠の影が長屋に伸び、稲の葉の匂いが濃くなる。外はもう、黄と薄青の境目だ。
三人は戸を出た。算木が背後でコトと鳴り、四枚の反古紙がきちりと揃えられる気配がした。鏡川の風が、紙の隅をもう一度だけめくり、静かに戻す。
神田の小道は、稲の青に縁取られ、土は冷え始めている。長次郎が手にした包みから、甘い匂いがほどけた。
「師匠は、叱ってから理を一本、渡しますき。明後日は、叱る前に数字で示すほうがえいでしょう」
「うむ。数字が叱るなら、人は耳を閉じにくい」
退助が笑って包みを受け取り、良輔は反古紙の束を胸に当てた。弥太郎は袖を払って、空を見上げる。低い雲の切れ間に、細い星の気配が滲み始めていた。
「しかし、東洋先生を前にしてあれほど叱れたら、それこそ稀代の傑物よ」
「“弥太”が吠える前に、ごじゃんと和破にされようのう…」
良輔と退助の言葉に、長次郎が肩を揺らした。畦の端を白い鷺が横切って、闇のほうへ溶ける。
明後日、巳の刻。四枚の理と、四人の歩幅が、少林塾の門へ向かう。
川の理と町の理――それを束ねるための一枚札を、胸に忍ばせて。




