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第三十話 道端の饅頭

 高知城下の朝は、墨と湯気の匂いが交じる。


 後藤良輔と乾退助は、墨の匂いを辿って寺子屋に入り、湯気のほうへ抜けて問屋口まで歩いていた。東洋が示した三つの見立て――算の速い者、読み書きのしなやかな者、そして“話せる”者――を胸に、在野の才を拾い上げる段である。


 最初の私塾は声がよく揃っていた。だが板書の骨が弱い。

「筆はよう走るが、かなめが薄いのう」

 退助が短く言う。良輔は首を傾げた。

「問うたことわりに、噛み返す歯がない……」


 二つ目の寺子屋は、算木の音が小気味よかった。だが、問いを投げると目が伏せる。

「早く正しくはあるが、人に渡す気が弱い」

 三つ目の舟着場では声のよく通る若い衆がいたが、話の中身が薄い。

ことばはある。けれど、ことが足らん」

 午の刻を過ぎたころ、二人の背に空振りの風が溜まった。


「もう一月は城下を回りゆうが、才あるもんは中々おらんのう…」

 退助が頭をかき、ため息まじりに笑う。

「藤兵衛や治郎兵衛みたいながが、どこぞの道端に落ちちゃあせんもんか」


 良輔は肩をすくめた。

「そのあたりにごろごろ転がっちょったら、先生はとうに楽をしておいでじゃ」

「理屈じゃそうやけんど、拾うたら早いろうが」

「落ちちゅうだけのもんは、才のない石ころじゃ。“材”いう字には木が付いちゅうろう。才は木と一緒で、水をかけて初めて根を張り、人材になるがよ」

 退助が「手間がかかるのう」と笑い、良輔も口元だけで応じた。


 そのとき、上町の路地から甘い匂いがした。白暖簾に「大里おおさと屋」の文字。蒸籠せいろの蓋から白い湯気が上がり、砂糖水の照りが棚で光る。

「饅頭屋じゃ、腹も脳も糖がる。ちっと寄ろうか」

 退助が笑い、暖簾をくぐる。


 奥から若い主人が現れた。粉の白を指先につけ、にこりと会釈。目がよく動く。

「いらっしゃいませ。三つ、で?」

「おまん、よう見いや。わしらは二人じゃ」

「奥座敷にまだお一方。お連れではございませんでしたか――蒸したてを出しますき」

 良輔が振り返ると、確かに障子の陰に客が一人腰かけていた。さりげない視線の掃き方である。


「なら二つを」

 短く言う良輔に退助が肩をすくめて笑った。

「わしは二つ食うき、三つでえいぞ」

 若い主人が手際よく紙を広げ、うなずく。

「へい、三つ」


 包みを待つあいだ、退助は懐から銭を雑に掴んで見せた。

「銭を数えるが面倒じゃ。おまんが釣りを出してとうせ」

 若主人は掌で銭を返し、ほとんど見もせずに紙へ載せ替える。

「五匁過ぎ、切りのほうがよろしい。……はい、十六文お返し」

 釣りは正確、包みの端も揃う。動作に“早さの理”がある。


 そのとき、子どもが三人、店先へ駆け込んだ。

「今日は五つしかないがやって!」

 店頭に並んだ小さい饅頭の数を見て「わしが二つじゃ」「いや、わしのじゃ」と喚いている。若主人は一瞬で配分を決めた。


「三人で五つ、一人は半つ――こっちの赤子あかごに半分。順番は背の高いほうから。餡は割れんように包みはこの向きじゃ」

 声はやわらかいのに、秩序は乱れない。良輔は湯気の向こうでその所作を見た。


(算は速い。包みは端が揃う。言葉は相手に合わせて音を変える。――三つ、揃っておる)


 退助が冗談めかして話を振る。

「このごろ油の舟が遅れがちらしいの。夜仕込みが詰むろう?」

 若主人は一拍も置かずに返した。

「灯心が乏しければ、昼仕込みへ半分寄せて砂糖水の温度で照りを合わせます。箱の数は減らさず、歩留まりだけ整える。……夜の欠けは紙問屋に頼んで灯心の端物はしものを回してもらい、木箱を預けて物で担保に」


 退助が片眉を上げる。

「祭りで急に大口が入って、銭は“あと”言うたらどうするがじゃ?」

「箱と縄を置いていってもらいます。返しは明けの鐘まで。口で言うた期限を、こちらで書付に移して、また声で読み戻す。そういたら間違いが出にくいですき」


 良輔は包みを受け取り、静かに名乗った。

「後藤良輔と申す。こちらは乾退助」

 若主人は目を瞬かせ、ていねいに頭を下げる。

「失礼いたしました。わたくし、近藤こんどう長次郎ちょうじろうと申します。昔から“饅頭屋長次郎”言われちょります」


 退助が包みを指で弾き、軽く問う。

「長次郎、いえは代々ここかえ」

「はい。大里屋の長男でござります。祖父の代から饅頭をこしらえ、父が商いの帳面をまかされちょります」

「学はどこでやった」

「子のころは町の寺子屋で素読そどくと算。近ごろは、河田小龍先生の写絵うつしえなどを覗かせてもろうて、世の形を絵に写す手前てまえを学んでおります。紙と筆の置き所で、ものの“ことわり”が違うと教わりました」


 良輔が興味深げに頷く。退助が軽く笑って言葉を継いだ。

「良い目配り、良い算盤そろばん、良い声じゃ。――実はのう、人を探しゆう。上から下まで、土佐の骨を太くするために」

 “上から”の言い方を、あえて重くしない。良輔が穏やかに添える。

「吉田東洋先生が、在野にも才ありと常々申す。名を掲げて集めるより、こちらが足で探すのが筋だろう、――と」


 長次郎の目の奥が、すこしだけ光り、そして慎重に曇った。

「……恐れながら。わたくしごときに目を掛けられるほど、器は大きうございません。何より、師の足元にも及びませんき」


「師?」

「はい。城下を外れ、神田こうだ村に、私に算や世の見方を叩き込んでくれる御仁がおわします。怒るときは雷。けんど、理に合えば笑うて飴玉をくれます」

 退助と良輔は目を交わした。良輔がやんわり問う。

「どのような御仁か、差し支えなければ、すこし」


 長次郎は逡巡し、包み紙の角を指で揃えた。

「安芸のお人で。若いころから書が立ち、江戸でも学ばれた。けんど……数か月前まで牢に」

 退助がわずかに眉を上げる。

「牢?」

「父君が庄屋と揉めて怪我を負わはって、奉行所へ訴えに行きなさったときのこと。訴えを聞かん役人を壁の落書きで糾してしもうて……七か月ほど入れられたと聞きました。出てからも居村追放、いまは神田村に身を寄せちょります。学は深いが、気が短い。未熟なところも、まだよう見えます」

 言い終わると、長次郎は息を詰め、二人の袴の裾に視線を落とした。


 良輔と退助は顔を見合わせる。奉行所に落書とは中々思い切ったことをしたものだ。

「しかし、落書ごときで牢に七か月と居村追放とは……」

 やりすぎではないか――とあえて口にはせぬが意味は伝わったようで、長次郎は目を伏せて続ける。

「……いえ、それが、一度は相手にされず二度目に『官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によって決す』と書いたもんで、お奉行が大層お怒りになって…」


 聞いた二人は乾いた笑いを禁じえなかった。奉行所に落書を何度も書く時点で相当の肝の座り様だが、『役人は賄賂で動き、裁きは好き嫌いで決まっている』とは何とも痛烈な弾劾である。

「……ですき、上士と思しきお二人を、気安うお連れしてえいものか、心もとない。師は役目の人を、よう思わん節もありますき」


 退助は笑み皺を深くし、掌を軽く開いた。

「確かにわしらは上士じゃが、同時に在野の理を愛する者じゃ。叱る口より聞く耳を出しに来ちゅう。東洋先生も、そういう者を好かれる」

 良輔が静かに重ねる。

「われらが求むるは、命令に頷くだけの人でなく、ことわりを持ち寄る人。さきほどの灯心と箱の話、声と紙で二度縛る工夫――あれは立派な理です」


 長次郎はしばし二人を見つめ、それから小さく頷いた。

「……わかりました。けんど、ひとつだけお願いがあります」

「申せ」

「師に会うても、いきなり“上”の話は出さんといてくださらんろうか。まずは算と世の話から。師は“異骨相いごっそう”ですき、頭より先に口を動かすと、理が滑る」


 退助は屈託なく笑った。

「それでえい。算は長く、話は短う、じゃ」

 良輔も微笑する。

「まずは、貴殿の言葉を借りて“門”に立つ。名乗りは控えめにいたす」


 長次郎が鏡川へ目をやった。風が蒸籠の香をさらっていく。

「では、夕まぐれの涼しいうちに。――店を、ちっくと締めますきに」

 番頭に二言三言指示を出す。その声が、甘い店内にきりりと効く。包みの端は揃い、釣り銭の音は短い。湯気の向こうで、在野の才は実務の形をしていた。




 外へ出ると、夏の光は傾きかけていた。三人は橋を渡り、鏡川の風に肩を押される。

 長次郎は歩きながら、ぽつりぽつりと師の経歴を補った。

「書はようできる。けんど、あきないの算にも明るい。牢で商人と同室になって、数と勘定の筋を覚えたとか。……そのせいか、言葉が短い。長くなると叱られます。叱ってから、ちゃんと理を一本、渡すがです」


 退助が面白そうに目を細める。

「短い叱り、長い算――えい塩梅じゃ。未熟は磨けばよい。短気も頑固も使いようやき」

 良輔は、長次郎の横顔を見た。

(この若者は、師の欠点も含めて受けとめ、それでも「学ぶべき理」を見ている)


 路地を抜け、町場の賑わいが薄れていく。川風が米の匂いを連れてきた。

神田こうだ村は、三所の祠の近にございます。看板は出しちょりません。障子と、反古紙と、算木の音が目印です」

 長次郎の声に、すこしだけ誇りが混じる。

「師は人を選ばん。理を好まれる。……ですき、今日は“理”だけ持っていってください。言葉も荒いお人ゆえ、多少のご無礼も寛恕かんじょ願います」


 退助は頷き、良輔が短く応じる。

「承知いたした」

 踏みしめる土がやわらかくなり、城下の騒めきが遠のく。

 田の畦が緑を濃くし、鷺が一羽、影のように流れた。


 長次郎はふと、歩みを緩めた。

「さきほどは、無礼を申しました。……師は、奉行所の壁に書いたうらみのをまだ引いちょります。お二人の裾を見て、胸がざわついた。けんど、乾さまも後藤さまも、まず聞くと仰せやった。――それを信じまする」


 退助がほがらかに応える。

「ざわつく腹は、正直なあかしじゃ。わしらも腹の底で動いちゅう。東洋先生も、腹で見抜く人やき」


 西日が稲の葉を鈍く光らせ、三人の影が長く伸びた。

 城下の端を抜けて、神田村への小道に入る。風は冷えて、土の匂いは深くなる。

 遠く、犬が一声吠え、やがて静まった。


 長次郎が指さす。

「あの竹藪の向こうです。祠の三つ並んだあたり――」


 その先に、まだ見ぬ“門”がある。

 名は出さず、理だけを手土産に。

 三人は歩を揃え、神田の私塾へ向かった。

挿絵(By みてみん)


参考文献:『川辺家資料 近藤長次郎関係書簡』『大日本維新史料稿本』

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