第二話 享年二十二歳
冷たい冬の浜風が、浦戸の魚村を吹き抜ける。藤兵衛はその寒さでまだ薄暗い宿の畳に目を覚ました。
前夜、桂浜で意識を取り戻してから日暮れ間近に宿にたどり着き、倒れ込むように眠っていた。彼のほかに客はなく、朝方の霜に包まれた村は、瓦屋根の歪みや壊れた船の破片が浜に散乱し、村人たちは早くから瓦礫の片付けに追われている。
藤兵衛も縁側から外を眺めながら、昨日の出来事を思い返した。
白光の中で溶けるように消えていった異界――オラゾでの五年間。仲間たちと試練に挑む旅、数多の種族との交易に異界の大地を駆け巡った日々。今、目の前にある浦戸の風景は、現世に戻ったことを知らせる唯一の証のようだった。しかし、背負ってきたはずの行李も、あの交易品も手元にはない。言いようのない喪失感を振り払うように立ち上がる。
日が昇ると、藤兵衛は城下へ向かうべく、浦戸の小道を歩き始めた。足元の砂利と浜風は冷たく、冬の寒さが体を突き刺す。道すがら、倒れた小屋の柱や、浜辺から流れ着いた漁具の残骸が目に入る。人の営みの跡はあるものの、家屋の一部は損壊し、大波で流れてきた小さな漁船数隻が傾いたまま陸地に取り残されていた。
城下に近づくと、惨状は一層明らかになった。北西から南東に広がる下町では、多くの家屋が倒壊し、瓦屋根が崩れた屋根からは煙が上がる。地震直後には火災が十か所以上で発生し、北風に煽られた火は急速に広がったという。さらにその最中に大波が鏡川をさかのぼり、堤防があちこちで決壊して多くの家が押し流された。
八日が経った今も、焦げた匂いや焼け跡の残骸は街中に散らばり、決壊した堤防から押し流された木材や舟の破片が道路に横たわっている。通りを行き交う人々は、瓦礫や焼け跡、散乱する残骸を避けながら、慎重に歩を進めていた。
高知城に近い上町は高台に位置していたため、火災の延焼は免れたものの、地震による建物の倒壊や損壊が散見された。倒れた柱やひび割れた屋根瓦がところどころにあり、住民たちは手分けして修復を進めている。港湾や河口沿いの低地では、大波による浸水や船の破壊が酷く、仁井田や種﨑の漁港の再興は未だ当分先だろうとため息をつく町人たちの話が耳に入った。
思い起こせば地震当日、藤兵衛は同年の藩士に誘われ、上野川原で催された上町荒神祭の相撲巡業を見物していた。その日は小春日和とも言っていい見事な快晴で、詰めかけた人のあまりの多さに嫌気がさし、見物を早々に切り上げて一人、勝浦浜に海を見に行ったのだが、あのまま城下に留まっていればどうなっていただろうか。
惨状に目を背けるように、鏡川のほとりに立ち止まる。見下ろすと冬の光を受けた川面は銀色に輝き、そこに映る自らの顔をみて驚いた。
異界の透き通った玻璃鏡で見慣れた、二十七歳の無精ひげで精悍な姿はそこにはなく、若き日の頼りなさと未熟さを残す二十二歳の青年がいた。オラゾでの五年間が、現世ではわずか七日間にしか満たなかった事実を突きつけられたようで、胸の奥で再び違和感がざわめいた。
逃げるように速足で城下を後にし、屋敷地のある北西の朝倉へ向かう。高台に位置するこの地域は、揺れを感じたものの倒壊や損壊はごく一部にとどまり、火災も大波の浸水もなかったようだ。城下の惨状を思えば、周囲は比較的穏やかで、藤兵衛は安堵を覚えた。
朝倉の家屋敷に辿り着くと、庭先で弟の惣兵衛が立っていた。急ごしらえの粗末な墓石に手を合わせている。藤兵衛は一瞬、家中の誰かが犠牲になったのかと息を呑み、駆け寄って問いかける。
「惣兵衛、それは誰の墓じゃ!?」
惣兵衛は声に振り返り、ぎょっと目を見開いた。
「兄上……まさか……」
二人の顔に安堵と戸惑いが交錯した。
―― 朝倉 藤兵衛 享年廿二才 安政元年十一月五日 ――
墓石に刻まれた文字は、紛れもなく彼自身のものだった。一呼吸おいて、惣兵衛の体が小さく震えたのが見えた。やがて安堵の色が少しずつ差してくる。惣兵衛は藤兵衛の問いには答えず、振り返って叫んだ。
「父上! 母上! ――早う、兄上が!!」
藤兵衛はそっと墓石に手を置き、自らの頬に触れ、深く息をついた。
「……皆、無事じゃったか」
声に応えるように、縁側のふすまが開き、父・清兵衛と母・きぬが庭先に現れた。二人の目は、八日ぶりに戻った藤兵衛を見るや驚きと喜びで大きく見開かれていた。
「藤兵衛……おまえは、確かに死んだもんと……」
清兵衛の声は低く、しかし震えていた。
「荒神祭から浜へ行ったと聞いて……大波に呑まれた者は皆、戻らんと思うちょった。それが……」
「父上。わしもまた、夢か幻かと思うた。しかし気付けば昨日、勝浦浜におった。こうして家に戻んて来ちゅう。大波にさらわれはしたが、運よく生き残ったようじゃ」
藤兵衛は、用意していた説明を淡々と述べた。オラゾのことは到底信じてもらえまい。勝浦浜で漁師が口にした「大波にさらわれ、漂流していたのだろう」と語るのが最も自然であると判断したのだ。
母・きぬは涙を拭きながら、震える声で言った。
「もう……それでえい。それでえいがよ。生きて帰ってきてくれたら、それでえい……」
惣兵衛もまた、感極まったように兄の肩を強く掴んだ。
「兄上……! 昨日、家で兄上の葬いを済ませて、墓を建てたばっかりで……。こうして戻んて来られるなど、まさしく荒神様の御加護じゃ」
神棚を拝む弟と母、そして自分の墓を交互に見て何とも言えぬ複雑な気落ちになる。だが、かえってそれは藤兵衛にとっても一つの区切りでもあった。オラゾに渡る前の自分は死んだのだ。そして蘇った今、この先の生き方は自らの選択で定める。
父はなおも息子の姿をじっと観察していた。
「藤兵衛……見た目は八日前となんちゃあ変わらん。けんど、目の色が違う。声も、立ち振る舞いも、まるで幾年も修羅場を潜り抜けた者のようぜよ」
藤兵衛は静かに笑った。
「父上、墓はそのままでえい。わしは、あの日に一遍死んで、生まれ変わったがよ」