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第二十八話 「アギ」と「アザ」

 高知城下、新町の表を潮と土の気配が混じった風が抜けていく。軒先に干した稽古着が揺れ、まだあたたかい日差しが、渋い紺の布に粒立った白粉しろこを浮かばせていた。


 竜馬と藤兵衛は、戸口の前で草履の鼻緒を指で整え、互いに目配せしてから門をくぐった。


 土間を上がると、畳の匂いが胸に満ちる。道場は二間続き、正面の床の間には掛物が一幅、柱の下には水が張られた手桶が据えられている。拍子木の乾いた音がして、複数の掛け声が重なる。


「やァ!」「メン!」――間合いを切る足捌きの砂を踏む音、竹刀と竹刀の触れ合う音が、さざ波のように広がった。


 素振りの列は規律正しく波打ち、手前で初級者が切り返しを繰り返す。奧では上位の二人が立会い、周囲の門弟らが半円を描いて見守っている。床には細かな白粉が舞い、柱の肌には幾度もの稽古が残した汗染みが濃淡を作っていた。


「止め!」

 朗々とした声が、場を一息に凪がせる。

 声の主は的座の脇、稽古着の胸紐を一度結び直し、面布を脇へ払って立った。背はひときわ高く六尺(百八十センチ)近い。白い肌に汗が薄く光を返し、目元は澄んでいる。声は朗々。所作は威厳を湛えつつも角がない――竜馬が言った通りの男が、ここ新町道場の主であった。


 藤兵衛は、息を潜める。声に、張りがある。威圧ではなく、場の気配をひとつにまとめる張りだ。号令が短く清く、刃筋の通りのように無駄がない。

 竜馬は口角だけで笑い、「えい道場じゃ」と小声で言った。


 次の組への指示を終えたその男――武市半平太は、手拭いで頬の汗を拭いながら、ちらりと入口の二人に目をやった。門弟に片手を挙げて合図し、稽古場の気配を乱さぬよう、すっとこちらへ歩み寄る。


「おお、竜馬かえ。久しいのう」

 声は胸の底から立ち上がり、しかし言い回しは驚くほど丁寧だった。


 竜馬は、待ってましたとばかりに広い笑みを作る。

「おう、武市のアギは健在かえ。相変わらず凛々しゅう突き出ちゅう」

 半平太の眉がわずかに動き、すぐ口の端がほどけた。

「坂本のアザはどうじゃ。相変わらず顔の真ん中に堂々と居座っちゅうか」

「おかげで面を着けても隠れんのが難儀ぜよ」

 二人は肩を軽くぶつける。六歳の年の差を感じさせぬ旧友の間にだけ許される笑いが、畳の上で短く跳ねた。

 

「道場は相変わらずの活気じゃのう」

「ああ、“寅の大変”で屋敷が潰れたときはどうなるかと思うたが、門人はもう百二十を超えちゅう。朝は素振り五百、夕は切り返し三百。声が揃うまで帰らさん。」

 言葉の端々に、責任の重みと自負が見える。しかし、その口調は穏やかで、客を迎える礼を崩さない。


「近頃は忙しゅうしゆうようじゃが、何を?」

 半平太の問いに、竜馬は鼻で笑って肩を竦めた。

「長浜の東洋先生のもとで、ちくと面白いことをしゆうがよ」


 一拍、空気が揺れた。半平太の瞳に、わずかな陰が落ちる。

「……吉田殿か。あの御仁は開明に過ぎる。まずは帝の御心は厳として攘夷。その御趣意にそむく風を先立てるは忠義が通らぬ。加えて、民の血の熱も軽く見てはおらぬか。理は巧みなれど、大義と時機を軽んずるは困る」

 言い回しは礼を失わず、しかし芯は強い。


「異国の術は、器として使うてもよい。じゃが、その門をいま開くことの是非――そこを誤ると、土佐の骨がもろうなる」

 朗々たる声が、稽古の雑音にすっと溶けた。周囲の門弟らは視線を落とし、袴の皺を一度だけ整えた。誰も言葉は継がぬが、場の温度が半度だけ下がる。


 藤兵衛は、胸の内で小さく頷いた。

(手ごわい。声の張りも、理の筋も、容易には折れぬ)


 朗々たる声は場を締めるが、押しつける硬さではない。場の重心を静かに一箇所へ寄せる張り――べるより、束ねる声だ。立ち方は前のめりでなく、水面の水平を守るように真っ直ぐ。足の置き所がいつでも“引ける”。引ける者は、いつでも押せる。


 ふと、楽助たちが火のまわりで語った“先の世の歴史”が脳裏をよぎる。

 「土佐勤皇党の首魁」「行き過ぎた尊攘で弾圧を受け、切腹に追い込まれた男」――かすかな耳鳴りのように戻ってくる会話の断片。


 彼らが知っていたのは名と大まかな出来事だけ。あいだの決め手は欠けている。誰が何を命じ、どこで線を踏み越えたのか、語られなかった空白がかえって胸に重い。


(この男は、守りの理と尊き想いで人を束ねる。だが、熱が過ぎれば、それがどこへ流れるか……)

 不穏は像にはならず、しかし薄墨のにじみのように胸の片隅に留まった。


 竜馬が軽く掌を振る。

「まあまあ、半平太。むつかしい理屈はあとじゃ。今日は道場の礼に従う客を連れて来ちゅう」

 竜馬は藤兵衛の肩を押し出した。

「朝倉藤兵衛。土佐はおろか、日ノ本にも類はないかもしれん。剣の筋の話ぜよ」


「……ほう。北辰一刀の江戸修業をした竜馬が、そこまで言うほどの使い手かえ」

 半平太は、一礼する藤兵衛をつぶさに見た。眼差しは礼を崩さない。肩の落ち、踵の置き、息の深さに素早く視線が通り過ぎた。


 そして、うなずく。

「お初に。小野一刀流、免許皆伝、武市半平太じゃ。――手合わせ致そう」

 言って、脇の手拭いで汗を軽く押さえると、門弟へ目配せした。指先の動きは小さく、しかし場の隅々まで届く。

「一組、素振りに戻れ。見学は壁際、静粛。古参は審をせよ」


 拍子木が短く鳴り、場の空気がすっと整う。奥では素振りの列が一歩ずつ間を空け、手前に四畳ほどの“”が生まれた。白粉が、その空白に淡く舞い、畳の目に金砂のように沈む。誰かの袴がかすかに擦れ、すぐ静けさが飲み込んだ。


「当道場の規矩にてよろしいか。竹刀、面小手胴。突きは浅く。三本勝負、ただし無体あらば即時止め」

「朝倉藤兵衛、お預けいたす」

 藤兵衛が深く頭を下げる。喉の奥でひとつ息を整え、背筋の線はわずかも揺れない。半平太はうなずき、さらに確かめる。


「して朝倉殿の御流儀は?」

「――名はございますれど、所詮は我流、野のことわりを習い集めたつたなき型にて」


 返答に半平太は一拍だけ眼を細めた。視線が柄頭から足先までを掃き、左足を半寸引いて、鍔元を親指でそっと確かめる。柄の“遊び”が消え、気の輪郭だけが濃くなる。

「……よかろう。握りは実手みて寄りか、御流儀のままか」

「握りは流儀のままで」


 竜馬が防具を身に付ける藤兵衛の耳もとへ顔を寄せ、小声で言う。吐息が面の紐をわずかに揺らした。

「無茶はせんでえいで。今日は“争わぬ議論”の戸口を叩く日じゃき」

「心得た」

 短い応えに、肩の力がさらに静かに落ちる。


 両者、竹刀を取り、二、三度ずつ素振りを交わす。竹の鳴りが畳の目に深く沈み、呼吸が場の拍子と重なっていく。床の間の水面が細く震え、天井梁の影が長く伸びた。


 門弟の視線が静かに集まり、頃合いを見て古参が一歩前へ出た。足裏が畳に吸い付く音が小さく残る。

「立会い、始めてよろしいか」


 半平太は一歩進み、声を整える。胸板の上下は浅く、しかし声はよく通る。

「――では手合わせ、致そうか」

 声色は丁寧のまま、肩の力だけがわずかに降りた。


 場の気が、静かに締まる。合図を待つ気配が、細い糸のように二人の間に張られた。張りは強すぎず、しかし指先で触れれば音を立てて切れそうな緊さだ。


 藤兵衛は踵の角度を紙一枚分だけ開き、視線で床の一点を結ぶ。半平太は逆に、視界の輪郭をほんの少し広げ、相手の呼吸が肩布の皺に作る拍子を数えはじめる。


 遠く、路地のどこかで桶の当たる音が一度鳴り、二人の間をすれ違う風が、面の紐を少しだけ揺らした。

挿絵(By みてみん)


参考文献:『武市瑞山関係文書』、『維新土佐勤王史』

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