第二十七話 一年の仕込
座敷の熱はほどけ、庭口から差し込む風が畳の目を撫でた。潮の匂いが、茶の渋みと墨の香に細く交じる。
東洋が扇を伏せ、紙の端を指で押え、正面の面々を見わたす。
「――“世さ来い”までに、仕込むべきことを三つに割ろう。ひとつは上士層の慰撫。ふたつは下士・郷士の過ちを未然に和らげる策。みっつは江戸と長崎――世の脈の見張りじゃ」
ことり、と筆置きが盥の縁を叩き、膝前の紙に墨の三点が打たれる。黒が紙に沈むあいだ、座に静かな呼吸だけが行き交った。
「役と、押さえるべき人を、それぞれ定める。――まず、ひとつ目」
東洋は自らを示し、腰の据わった声で告げる。
「わしは、上士と下士との“橋”となる。だが、橋は岸が定まらねば架からぬ。上の岸が揺れれば、いつか必ず不穏が起きる。まず上から和す」
良輔が不意に息を呑み、視線が師の横顔に吸い寄せられる。扇の骨が小さく鳴り、東洋はことさらに身じろぎもせず続けた。
「家老衆に詫びを入れる。深尾鼎、山内太郎左衛門、五藤主計、――これまでの非礼を謝し、新しき土佐のために、力を貸してもらう」
言葉が落ちきると、座はしんとした。障子の紙を透かして、西日の粉が畳に薄く散る。良輔は深くひとつ息を吸い、胸の熱を喉の奥でたたんだ。
(先生が、詫びると……)
だが、針のような不安が胸の底でひと突きする。手のひらが衣の上からわずかに拳を握った。
(受けてくれようか。これまでの遺恨は浅くない)
東洋は、誰の顔も追い詰めぬ眼差しで、穏やかに言葉を継いだ。
「小南五郎右衛門の力を借りる。――あやつが居れば、耳も幾分は開こう」
名が出るや、退助が短く頷き、治郎兵衛が「なるほど」と呟く。東洋は、名を聞きなれぬ昌造と万に補う。
「小南は、わしと同時に召し出され、御用役として容堂公の左右を支えた男よ。水戸の藤田東湖に『古大臣の風あり』と評された謹直忠誠の臣。奔放な殿に諫むべきを諫め、なお“股肱”として信を置かれておる。苛烈が過ぎるわしと周りとの間を、いつも和らげてくれた」
東洋の口もとに、ひと筋の微笑が走る。その刹那、座の緊張が一枚ほど薄くなる。
「わしは詫びる。言い訳はせぬ。これより先の土佐のために、力を合わせてくれ、と申す」
万は背筋を伸ばし、膝の上で指をそろえて言った。揺れのない声だった。
「――それでも聞かぬなら、どうするのですか」
畳に落ちる陰影が、風の具合でほんの少し流れる。東洋は間を置かず、きっぱりと。
「誠を尽くし語りても、世の流れも、土佐の憂いも見切れぬほどに惑うておるなら――排けるしかあるまい。橋は、腐った岸には架けぬ」
その毅然に、良輔は胸の奥の硬さがほどけていくのを感じた。
(芯は変わらぬ。変わらぬがゆえに、今は頼もしい)
扇の先が、紙の二点目を軽く叩く。墨に光が乗る。
「ふたつ目。下士・郷士の過ちを和らげる策。――尊攘の熱は、道場に集まる。今、城下で一番勢いある道場と言えば、新町道場……」
良輔は姿勢を正し、言葉を継いだ。
「道場主は白札郷士の武市半平太でございます。開設は昨年ですが、今や門下は百を越え、尊攘の議論の場になっておると聞きます」
竜馬の顔に懐かしさが走る。膝がわずかに前へ出た。
「半平太はわしの幼なじみじゃ。話は通せる。けんど、こじゃんと厳しい男ぜよ。言葉だけでは撥ねられかねん」
退助が膝を引き寄せ、顎を小さく上げる。
「藤兵衛を遣わしたらえい。――剣で口を開ける相手には、剣で“理”を示したが早いき」
竜馬は目を丸くして、すぐに笑いの気配を浮かべた。
「藤兵衛の剣、そんなにやるがか?」
退助は肩をすくめ、口角を片側だけ上げる。
「やる。立ち会うたわしが言うがやき、間違いない。打ち合いは引き分けじゃったが、わしの“理”も削られた。――半平太に見せるに足る」
竜馬は唇の端を上げ、気持ちよく頷く。指先で袴の褄を軽く押さえた。
「いのすにそこまで言わすとはやるのう。剣と理で“争うためやない議論”に引きずり出したらえい」
東洋は流れを乱さず、扇をひと振りして座の温度を保つ。
「道場だけではない。藩内の私塾・寺子屋を回り、才のある若者を拾え。――良輔、退助、おぬしらに頼む」
良輔は「承知」と短く、しかし腹の底から返す。退助は「面白うなってきた」と笑い、すぐ眼差しを鋭くした。
「才の見つけ方は、三つ。算の速い者、読み書きのしなやかな者、そして“話せる”者じゃ。算は船と商いの血、言葉は“交わり”の骨、話す力は“旗”になる」
扇が三点目を指す。紙の上で影が三つ重なった。
「みっつ目。江戸・長崎の“目”を置く」
昌造は上体をわずかに折り、静かな調子で切りだす。
「拙者の土佐滞留は一年の約。安政三年十月に切れ申す。――それに合わせ、長崎へ戻り、海軍伝習所にて蘭式の兵術、操船の術を二箇月ほど学びとう存じます」
治郎兵衛は膝を進め、両手をつき、額を低くした。
「――その道行き、恐れながら、この治郎兵衛もお供させていただきたく。舟の木組みばかりにては、海の理は掴み尽くせませぬ。砲の据え付け、帆の癖、港々の作法まで、直に見て、手ずから会得いたしたく存じます」
東洋は目を細め、嬉しげに頷く。襟元の白が一度だけ上下した。
「うむ、心根やよし。容堂公より長崎留学の密書、そのように返しておく。他に伴うべき人材も選び、二人して赴くがよい。ただし、学ぶことのみで済まさず、世の言葉も洩らさず拾い集めよ。帰参の後は、その実りを藩中へ還せ。――昌造は当分、藩の通詞も兼ねて力を貸してもらいたい。鳴龍丸の行く末を見届けるまで、土佐に留まってもらえるか」
昌造は目を伏せ、膝の前で手を重ねる。
「……ありがたく。鳴龍丸を置いて去ることなど、到底できませぬ」
東洋の視線が巡り、竜馬で止まる。障子の縁を西日が赤く縁どる。
「江戸は、どうする」
竜馬は背筋を立て、座の真ん中に声を置いた。
「わしは、再び江戸修行を願い出るつもりじゃ。昨年の十二月に、北辰一刀流の周作先生が世を去られた。千葉の道場には慰問と稽古を名目に入れる。――けんど本意は、人の縁。幕臣筋にも、海のことを知る御仁はおる」
藤兵衛がゆっくりと頷き、視線を遠くに一度だけ投げる。
「江戸で、接えるべき人挙げる。――中浜万次郎。漁民ながら今や直参、異国と海を観、言葉を持って還った “海と理”の人じゃ」
竜馬の眼に、きらりと光が宿る。膝頭が小さく近づいた。
「中浜先生は聞いたことがあるき。けんど直参やったら、土佐の者が勝手に接するは具合が悪い。――容堂公の口添えが要るぜよ」
東洋は扇を立て、紙背を軽く叩く。
「手は打とう。容堂公へは、わしが起こす。――しかし、竜馬よ。少林の門下でないお主が、何故そこまでして尽くすのだ」
竜馬は顔を上げ、仲間の顔を一巡させた。口元の陽気はひとたび引っ込み、素の声が座敷に落ちる。
「……始めは、蒸汽船見たさに藤兵衛について来ただけやった。けんど、皆と色々しゆう間に、“新しい世”ゆう意味が解ってきたがじゃ。わしは、それを見たいがよ。鳴龍丸の先――藤兵衛が“定めた道”の向こうを、皆と一緒に見たい。そのために江戸へ行くがじゃ。そして戻んてくる。――仲間として、力を惜しまん気概じゃ」
万は何も言わない。だが、瞳の中で一瞬だけ水面のような揺れが走り、すぐ澄みに戻った。指先が膝の上で、鳴子を思わせる木片をそっと確かめる。
東洋は大きく頷き、長く息を吐く。扇先が順に座を射る。
「よい。――では、手分けの段、あらためて定める」
「わしは、上士の岸を固める。まず詫状は小南に託し、五藤・深尾・山内の三家には内々の席を設けてもらおう。向こうの中老へは良輔と退助が先に入れ。赦しが下りた折に、わしが顔を合わせる。驕らず、屈せず、ただ“土佐の先”を語る」
「良輔は、私塾・寺子屋を回り、才を拾う。退助が随え。人を見極める眼は二つの方がよい。石は打てば音が返る」
「竜馬は、半平太の門へ藤兵衛を連れて行く。剣は争うためではなく、共に立つための道具と示せ。江戸の段取りはおぬしが主とれ。中浜への道は、わしが橋を架ける」
「昌造と治郎兵衛は、十月に長崎へ。二箇月で“海の術”を掬い、手配しておる鳴龍丸の機関と元に土佐へ持ち帰れ。昌造は通詞を兼帯、鳴龍丸の言葉を外へ繋ぐ役を負う」
「万は、浦ノ内の舟渠を離れるな。治具・手引を整え、人の手で学べる“型”に落とせ。祭りでは“見せる術”を拵えるがよい。“世さ来い”の鳴子の手配も任せる」
受け声はどれも短いが、膝の向き、上体の角度に迷いはない。
少し間が空いた。庭の松がざわりと鳴り、沖を鴎が二つ、斜めに過ぎる。どこかの家で桶を置く音が響き、すぐ遠のいた。
良輔が、逡巡ののち、半歩だけ膝を寄せる。
「――先生。家老衆は、まことに……」
東洋は薄く笑った。笑みは短く、目は揺れない。
「難しかろう。だが、難しいからこそ、わしが自ら行かねばならぬ」
藩政に参して十余年。折れぬ鋼のごとき背に、いま、鞘を受ける柔らかさが宿る。良輔は胸の奥でそっと掌を握り、爪先に力を入れた。
退助が膝を進め、口角を少し上げる。
「先生が上の揺らぎを何とかしゆう間に、わしらも下の荒みを抑えないかんのう。武市の門は堅いけんど、正面から行かな破れん。藤兵衛――“理”を置く剣、信じちゅうぞ」
藤兵衛は目尻をやわらげ、「承知」とだけ言った。瞳の奥を、遠い砂の色がかすめ、すぐに土佐の海の青へ戻る。
竜馬が身を乗り出し、両手を膝に置く。
「江戸に行っちゅう間、“世さ来い”の触れはゆっくり広げるがえい。祭りは焦らし、日に日に“声”を増やす。戻り次第、中浜先生と海の話をつないで、土佐の威勢を見せちゃる」
昌造が控えめに挙手して笑う。袖口が畳にかすかに擦れた。
「その間に、浦ノ内の覆屋は退助殿にお願いしたく。風が出れば、あれはすぐ泣きますゆえ」
「任しちょけ」
退助は即答し、拳を軽く握って見せる。節の影が畳に落ちた。
万は指先で、ことり、と木片を鳴らす。小さな音が輪の中心で跳ねる。
「鳴子は、形をそろえます。三本の弦の色を変え、上・下・郷、同じ音が出るように」
東洋がうなずき、座の中央へ手を置いた。掌の温みが紙の上に伝わる。
「――よし。では参ろう。一年の時、無駄にするでないぞ」
皆が立ち上がる。袴の裾が一斉にさざめき、障子の紙に西日の赤が薄く差した。縁側の外では、潮の匂いと近所の笑い声が重なり合う。
八人座――一年の仕込みが、今、動き出した。
参考文献:『明治元年武鑑』、『土佐諸家系図』、『土佐名家系譜』




