表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/41

第二十七話 一年の仕込

 座敷の熱はほどけ、庭口から差し込む風が畳の目を撫でた。潮の匂いが、茶の渋みと墨の香に細く交じる。


 東洋が扇を伏せ、紙の端を指で押え、正面の面々を見わたす。

「――“世さ来い”までに、仕込むべきことを三つに割ろう。ひとつは上士層の慰撫。ふたつは下士・郷士のあやまちを未然に和らげる策。みっつは江戸と長崎――世の脈の見張りじゃ」


 ことり、と筆置きが盥の縁を叩き、膝前の紙に墨の三点が打たれる。黒が紙に沈むあいだ、座に静かな呼吸だけが行き交った。


「役と、押さえるべきひとを、それぞれ定める。――まず、ひとつ目」

 東洋は自らを示し、腰の据わった声で告げる。

「わしは、上士と下士との“橋”となる。だが、橋は岸が定まらねば架からぬ。上の岸が揺れれば、いつか必ず不穏が起きる。まず上から和す」


 良輔が不意に息を呑み、視線が師の横顔に吸い寄せられる。扇の骨が小さく鳴り、東洋はことさらに身じろぎもせず続けた。

「家老衆に詫びを入れる。深尾ふかおかなえ山内やまのうち太郎左衛門たろうざえもん五藤ごとう主計かずえ、――これまでの非礼を謝し、新しき土佐のために、力を貸してもらう」


 言葉が落ちきると、座はしんとした。障子の紙を透かして、西日の粉が畳に薄く散る。良輔は深くひとつ息を吸い、胸の熱を喉の奥でたたんだ。

(先生が、詫びると……)

 だが、針のような不安が胸の底でひと突きする。手のひらが衣の上からわずかに拳を握った。

(受けてくれようか。これまでの遺恨は浅くない)


 東洋は、誰の顔も追い詰めぬ眼差しで、穏やかに言葉を継いだ。

小南こみなみ五郎右衛門ごろうえもんの力を借りる。――あやつが居れば、耳も幾分は開こう」


 名が出るや、退助が短く頷き、治郎兵衛が「なるほど」と呟く。東洋は、名を聞きなれぬ昌造と万に補う。

「小南は、わしと同時に召し出され、御用役そばようやくとして容堂公の左右を支えた男よ。水戸の藤田東湖に『古大臣の風あり』と評された謹直忠誠の臣。奔放な殿に諫むべきを諫め、なお“股肱ここう”として信を置かれておる。苛烈が過ぎるわしと周りとの間を、いつも和らげてくれた」


 東洋の口もとに、ひと筋の微笑が走る。その刹那、座の緊張が一枚ほど薄くなる。

「わしは詫びる。言い訳はせぬ。これより先の土佐のために、力を合わせてくれ、と申す」


 万は背筋を伸ばし、膝の上で指をそろえて言った。揺れのない声だった。

「――それでも聞かぬなら、どうするのですか」


 畳に落ちる陰影が、風の具合でほんの少し流れる。東洋は間を置かず、きっぱりと。

「誠を尽くし語りても、世の流れも、土佐の憂いも見切れぬほどに惑うておるなら――しりぞけるしかあるまい。橋は、腐った岸には架けぬ」


 その毅然に、良輔は胸の奥の硬さがほどけていくのを感じた。

(芯は変わらぬ。変わらぬがゆえに、今は頼もしい)

 扇の先が、紙の二点目を軽く叩く。墨に光が乗る。


「ふたつ目。下士・郷士の過ちを和らげる策。――尊攘の熱は、道場に集まる。今、城下で一番勢いある道場と言えば、新町道場……」

 良輔は姿勢を正し、言葉を継いだ。

「道場主は白札郷士の武市たけち半平太はんぺいたでございます。開設は昨年ですが、今や門下は百を越え、尊攘の議論の場になっておると聞きます」


 竜馬の顔に懐かしさが走る。膝がわずかに前へ出た。

「半平太はわしの幼なじみじゃ。話は通せる。けんど、こじゃんと厳しい男ぜよ。言葉だけではねられかねん」


 退助が膝を引き寄せ、顎を小さく上げる。

「藤兵衛をつかわしたらえい。――剣で口を開ける相手には、剣で“理”を示したが早いき」


 竜馬は目を丸くして、すぐに笑いの気配を浮かべた。

「藤兵衛の剣、そんなにやるがか?」


 退助は肩をすくめ、口角を片側だけ上げる。

「やる。立ち会うたわしが言うがやき、間違いない。打ち合いは引き分けじゃったが、わしの“理”も削られた。――半平太に見せるに足る」


 竜馬は唇の端を上げ、気持ちよく頷く。指先で袴の褄を軽く押さえた。

「いのすにそこまで言わすとはやるのう。剣と理で“争うためやない議論”に引きずり出したらえい」


 東洋は流れを乱さず、扇をひと振りして座の温度を保つ。

「道場だけではない。藩内の私塾・寺子屋を回り、才のある若者を拾え。――良輔、退助、おぬしらに頼む」


 良輔は「承知」と短く、しかし腹の底から返す。退助は「面白うなってきた」と笑い、すぐ眼差しを鋭くした。

「才の見つけ方は、三つ。そろばんの速い者、読み書きのしなやかな者、そして“話せる”者じゃ。算は船と商いの血、言葉は“交わり”の骨、話す力は“旗”になる」


 扇が三点目を指す。紙の上で影が三つ重なった。

「みっつ目。江戸・長崎の“目”を置く」


 昌造は上体をわずかに折り、静かな調子で切りだす。

「拙者の土佐滞留は一年の約。安政三年十月に切れ申す。――それに合わせ、長崎へ戻り、海軍伝習所にて蘭式の兵術、操船の術を二箇月ほど学びとう存じます」


 治郎兵衛は膝を進め、両手をつき、額を低くした。

「――その道行き、恐れながら、この治郎兵衛もお供させていただきたく。舟の木組みばかりにては、海の理は掴み尽くせませぬ。砲の据え付け、帆の癖、港々の作法まで、直に見て、手ずから会得いたしたく存じます」


 東洋は目を細め、嬉しげに頷く。襟元の白が一度だけ上下した。

「うむ、心根やよし。容堂公より長崎留学の密書、そのように返しておく。他に伴うべき人材も選び、二人して赴くがよい。ただし、学ぶことのみで済まさず、世の言葉も洩らさず拾い集めよ。帰参の後は、その実りを藩中へ還せ。――昌造は当分、藩の通詞も兼ねて力を貸してもらいたい。鳴龍丸の行く末を見届けるまで、土佐に留まってもらえるか」


 昌造は目を伏せ、膝の前で手を重ねる。

「……ありがたく。鳴龍丸わがこを置いて去ることなど、到底できませぬ」


 東洋の視線が巡り、竜馬で止まる。障子の縁を西日が赤く縁どる。

「江戸は、どうする」


 竜馬は背筋を立て、座の真ん中に声を置いた。

「わしは、再び江戸修行を願い出るつもりじゃ。昨年の十二月に、北辰一刀流の周作先生が世を去られた。千葉の道場には慰問と稽古を名目に入れる。――けんど本意は、人の縁。幕臣筋にも、海のことを知る御仁はおる」


 藤兵衛がゆっくりと頷き、視線を遠くに一度だけ投げる。

「江戸で、まみえるべき人挙げる。――中浜万次郎。漁民ながら今や直参、異国と海を観、言葉を持って還った “海と理”の人じゃ」


 竜馬の眼に、きらりと光が宿る。膝頭が小さく近づいた。

「中浜先生は聞いたことがあるき。けんど直参やったら、土佐の者が勝手に接するは具合のうが悪い。――容堂公の口添えが要るぜよ」


 東洋は扇を立て、紙背を軽く叩く。

「手は打とう。容堂公へは、わしが起こす。――しかし、竜馬よ。少林の門下でないお主が、何故そこまでして尽くすのだ」


 竜馬は顔を上げ、仲間の顔を一巡させた。口元の陽気はひとたび引っ込み、素の声が座敷に落ちる。

「……始めは、蒸汽船見たさに藤兵衛について来ただけやった。けんど、皆と色々しゆう間に、“新しい世”ゆう意味が解ってきたがじゃ。わしは、それを見たいがよ。鳴龍丸の先――藤兵衛が“定めた道”の向こうを、皆と一緒に見たい。そのために江戸へ行くがじゃ。そしてんてくる。――仲間として、力を惜しまん気概じゃ」


 万は何も言わない。だが、瞳の中で一瞬だけ水面のような揺れが走り、すぐ澄みに戻った。指先が膝の上で、鳴子を思わせる木片をそっと確かめる。


 東洋は大きく頷き、長く息を吐く。扇先が順に座を射る。

「よい。――では、手分けの段、あらためて定める」


「わしは、上士の岸を固める。まず詫状は小南に託し、五藤・深尾・山内の三家には内々の席を設けてもらおう。向こうの中老へは良輔と退助が先に入れ。ゆるしが下りた折に、わしが顔を合わせる。驕らず、屈せず、ただ“土佐の先”を語る」


「良輔は、私塾・寺子屋を回り、才を拾う。退助がしたがえ。人を見極める眼は二つの方がよい。石は打てば音が返る」


「竜馬は、半平太の門へ藤兵衛を連れて行く。剣は争うためではなく、共に立つための道具と示せ。江戸の段取りはおぬしが主とれ。中浜への道は、わしが橋を架ける」


「昌造と治郎兵衛は、十月に長崎へ。二箇月で“海の術”をすくい、手配しておる鳴龍丸の機関と元に土佐へ持ち帰れ。昌造は通詞を兼帯、鳴龍丸の言葉を外へ繋ぐ役を負う」


「万は、浦ノ内の舟渠を離れるな。治具・手引を整え、人の手で学べる“かた”に落とせ。祭りでは“見せる術”を拵えるがよい。“世さ来い”の鳴子の手配も任せる」


 受け声はどれも短いが、膝の向き、上体の角度に迷いはない。

 少し間が空いた。庭の松がざわりと鳴り、沖をかもめが二つ、斜めに過ぎる。どこかの家で桶を置く音が響き、すぐ遠のいた。


 良輔が、逡巡ののち、半歩だけ膝を寄せる。

「――先生。家老衆は、まことに……」


 東洋は薄く笑った。笑みは短く、目は揺れない。

「難しかろう。だが、難しいからこそ、わしが自ら行かねばならぬ」


 藩政に参して十余年。折れぬ鋼のごとき背に、いま、鞘を受ける柔らかさが宿る。良輔は胸の奥でそっと掌を握り、爪先に力を入れた。


 退助が膝を進め、口角を少し上げる。

「先生がかみの揺らぎを何とかしゆう間に、わしらもしもすさみを抑えないかんのう。武市の門は堅いけんど、正面から行かな破れん。藤兵衛――“理”を置く剣、信じちゅうぞ」


 藤兵衛は目尻をやわらげ、「承知」とだけ言った。瞳の奥を、遠い砂の色がかすめ、すぐに土佐の海の青へ戻る。


 竜馬が身を乗り出し、両手を膝に置く。

「江戸に行っちゅう間、“世さ来い”の触れはゆっくり広げるがえい。祭りは焦らし、日に日に“声”を増やす。戻り次第、中浜先生と海の話をつないで、土佐の威勢を見せちゃる」


 昌造が控えめに挙手して笑う。袖口が畳にかすかに擦れた。

「その間に、浦ノ内の覆屋は退助殿にお願いしたく。風が出れば、あれはすぐ泣きますゆえ」


「任しちょけ」

 退助は即答し、拳を軽く握って見せる。節の影が畳に落ちた。


 万は指先で、ことり、と木片を鳴らす。小さな音が輪の中心で跳ねる。

「鳴子は、形をそろえます。三本の弦の色を変え、上・下・郷、同じ音が出るように」


 東洋がうなずき、座の中央へ手を置いた。掌の温みが紙の上に伝わる。

「――よし。では参ろう。一年の時、無駄にするでないぞ」


 皆が立ち上がる。袴の裾が一斉にさざめき、障子の紙に西日の赤が薄く差した。縁側の外では、潮の匂いと近所の笑い声が重なり合う。


 八人座――一年の仕込みが、今、動き出した。

参考文献:『明治元年武鑑』、『土佐諸家系図』、『土佐名家系譜』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ