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第二十六話 世さ来い

 座敷に落ちた沈黙を、破ったのは万であった。


「――わたしから見れば、上士も下士も郷士も、些細な違いにしか見えませぬ。さかいそのものを無くせばよいのでしょう」


 言い終えた声は澄んでいて、波紋のように座の上を滑っていった。

 一瞬、誰も息をせなんだ。良輔は眉を上げ、退助は思わず笑いを呑み、竜馬は「はは」と喉の奥でこぼしそうになるのを堪えた。治郎兵衛は手のひらに爪を立て、昌造は灯のすすを見つめる。


 東洋は、口の端にだけ苦笑をのせた。


「境を無くす、か……。――その策、わしも考えなんだと言えば嘘になろう」


 扇を指でもてあそび、ぽんと膝に置く。


「かつて、改革の手始めに、家老衆に代々与えられておった佐川・宿毛・安芸の知行を、藩へ返還するよう、容堂公に献策した。重しは確かに軽うなった。じゃが、そのおかげで深尾、五藤らの家老からは、今もなお深く恨みを買うておる。理が立つほど、痛みも生まれる」


 言葉は柔らかかったが、眼差しは少しも緩まない。

 良輔が、静かに口を開く。


「――あまりに早急な変は、藩をかえって揺らがせかねませぬ。人は、急に地面が動くと立て直そうとして争います。まずは足場を敷いて、上に板を渡し、歩ける道を作らねば」


 それに対し、昌造がひと呼吸置いて言った。


「されど、他藩の身から拝見いたせば、土佐の身分の厳しさは、もはや時の理に合わぬようにも思われます。平戸にいた折、家中のやり取りはもう少し“通い”が利いておりました。古く凝り固まった岩を崩すには、激流が要る――万殿の言にも理はございましょう」


 万は何も言わない。東洋は頷きもしない。ただ、座の熱を掌の上で確かめるように視線を渡した。


 治郎兵衛が、静かに口を開いた。


「……土佐を舟に例えるなら、さかいげんでございます。波を受ける板で、これがうなると波で水が入り、皆、膝まで濡れてしまう。けんど、板が古うて重うなれば、舟は鈍る。張り替える時期も来る。外すがではうて、要る所を確かめ、軽うして、しなやかにし直す――その辺りかと」


 言いさして、指先で木地の節に触れる。その言葉に浦を守る者の理があった。議論は白熱しかけた。退助は「けんど――」と前に出ようとし、良輔は言葉を選び、昌造は理を重ね、万は再び沈黙に還った。


 藤兵衛は、一人で思いを巡らせていた。

 垣とは、家を囲むへだて。犬を防ぎ、風を分け、内の者の矜持を守る役を果たすもの。それを、ただ取り払えばどうなる――。

 垣はときに窮屈だ。だが、垣があるから帰る場所もある。無我夢中で働いて、息をつける内庭がある。

 無くすことは易い。――では、何を据える。


 沈思の最中、竜馬がぱっと顔を上げ、膝を叩いた。


「そうじゃ!」


 座がそちらを向く。


「――祭りじゃ。皆で祭りをしたらえい!」


 東洋が目を細めた。「祭り、とな」


 竜馬は身を乗り出した。頬には少年のような火が灯っている。


「お蔭参りを思うてみい。伊勢に向けて、富めるも貧しきも、身分の隔て、人と畜生の境さえ、みな霞む。向かう場所が見えたら、人は肩を並べる。今の土佐は恐れゆえに互いを睨み合いゆう。太平の世の果てを感じ、まだ見ぬ夷狄いてきを恐れ、習い変わるがをじ、身近に敵を見出そうとしゆう。その目を、いっぺん眩ませたらえい。――神輿みこしを出すがじゃ。あまらす日の御姿を、皆の頭の上に示いてやる」


 東洋の口元に、わずかな笑みが刻まれる。退助が膝を前へ滑らせた。


「兵法にいわく――『上下同欲者勝じょうげどうよくのものかつ』。――確かに祭りは“欲”をひとつにする策じゃ。喧嘩の欲やのうて、誇りの欲。……神輿は何に据えるがじゃ?」


 藤兵衛と竜馬の視線が合った。二人は頷き、同時に言葉を発した。


「鳴龍丸じゃ」「鳴龍丸ぜよ」


 座に、嘆息が満ちた。

 万の瞳が、ほのかに揺れた。治郎兵衛は黙然と、その言葉の重みと軽さを同時に測った。


 良輔が慎重に口を開く。


「――鳴龍丸を“神輿”に。完成の式を、容堂公がしゅとする盛大な“祭り”に仕立てる。下士・郷士の鬱憤は“海防”へ、上士の焦りは“土佐の誇り”で上書きする。……筋は通ります」


 退助が指を折って、勢いよく続ける。


「祭りは理由わけが要るき、海の守りの講釈をやったらえい。文の方は“文武講筵ぶんぶこうえん”、古今の学者・兵家の話を並べる。武の方は“操舵のためし”、小舟での舵さばき、旗流しの合図、とも綱の取り回し。浜では弓比べ、御用鍛冶の打つ槌の音を聞かせ、万殿の絡繰りは子どもらに見せる――」


 治郎兵衛も畳に手を置いて身を乗り出す。


「御前の剣術試合をやってもえいのう。容堂公が御覧なされるとあらば、上士も下士も張り切って、同心にもなろう。下士には日頃の鬱憤を晴らす場にもなる」


「皆、気が早いぞ」


 東洋は笑いながらも、扇を取り直した。


「じゃが、良き案じゃ。鳴龍丸を“神輿”に据え、容堂公に御親臨を願い出る。旗は“海防”。掛け声は“土佐”。――人の心は、目に見えるもので動く。ただし、時は選ばねばならぬ」


 良輔が帳面を繰り、日取りと行事の案を紙に移した。


「完成は、ひと年後と定めては如何いかが。機関は秋口の着荷と見ますが、据え付け・試し・海走りの段を見越すと、ひと巡りの春が要る。――その時を“世に出る”時とし、容堂公の江戸滞留と重ならぬよう、期を見定める」


 昌造は、祭りに合わせた“見せる仕掛け”について口を開く。


ともの可変角を“披見ひけん”いたしましょう。小舟の艫に角度板を付け、角を改めるたびに水の掴みがどう変わるか、秤で示す。文の方は、角度と流れの講釈――難儀な言葉は使わず、山の水車で話す」


 退助が膝を叩く。


「“叩いて延ばす”鍛冶の見世物を久礼田の衆に頼むはどうじゃ。打刃物の地鉄と刃金の合わせ、火花を見せたら男衆は皆、胸が鳴る」


 治郎兵衛が、舟渠の側から見た実務を差し挟む。


「祭りの最中に、舟に無理はさせられん。見せる段と働く段を分ける。艫の回りだけ拵えの“仮”を据えて、力の掛かる本筋は人目に触れぬよう養生する。――“神輿”は傷つけんのが肝心じゃき」


 万は膝前の木片を指でことりと鳴らし、静かに口を開いた。


「祭りには、まず踊りが要りましょう。――鳴子を用いませぬか。もとは田の鳥追いの具、今は古きを送り新しきを迎える響きになります。上・下・郷の別なく同じ形に拵え、皆で入り交じりて舞えば、やがて和合の兆ともなりましょう」


 東洋は、皆の言を一つひとつ掌の上で転がし、うなずいた。


「よい。……よいぞ。鳴龍丸の“祭り”は、海防の稽古であり、土佐の誇りの示しよ。容堂公には“土佐は備えている”と見せて頂く。家中には“同じ板の上におる”と感じさせる。郷士・町人には“自分の手で国を支える”と覚えさせる」


 ふと、万が問うた。


「境は、祭りののち、どこへ置くのですか」


 東洋は扇を閉じ、正面から万を見る。


「“垣”というものは、二つの働きがある。守るため、そして、出入り口をつくるため。

 今の垣は、守ることに偏り、出入りが狭すぎる。祭りののちは、出入り口を広げる。役ごとに“出入りの門”を新しく据えよう。海の役、学の役、算の役、鍛冶の役、言葉の役――役目の門から入る。身分の門ではなく、働きの門からな」


 座に、ゆっくりとしたうなずきが広がった。

 良輔は、胸の底に灯が点るのを覚えた。退助は『上下同欲者勝』をもう一度、噛みしめる。昌造は治具の図を思い描き、治郎兵衛は新しい“門”の板の厚みを指先で測る。


 竜馬が、ふいに笑った。


「――祭りに名が要るのう」


 東洋は目を細めた。


「名か。名は“先を呼ぶ”」


 万が小さく首を傾げる。

 藤兵衛は、庭の松の梢に目をやり、潮の香の向こうに、まだ見ぬ波を思った。


「新しき……い」


 藤兵衛の口から自然と言の葉が漏れた。

 退助が続けて低く繰り返す。「世さ来い」

 良輔が筆先で紙にしたためる。昌造が口の中で転がす。治郎兵衛が一拍、頷く。言の葉は座を周り、東洋がわずかに目を細めた。


「――よい符牒じゃ。新しき世さ来い。世を呼び、世を迎え、世へ出る。鳴龍丸の“祭り”は、『世さ来い』と名付けよう」


 座に、柔らかな熱が満ちる。


「容堂公へは、わしから御文おんふみを奉る。鳴龍丸の進捗と併せ、『世さ来い』の旨を。――土佐の者は祭り好きじゃ。城下の者の心がはやらぬよう、形整えば触書ふれがきで回す。目付の目もある。形をほしいままには見せぬ。見せるは“理”、見せぬは“急所”よ」


 東洋が場を収めた。


「――よし。ひと年後、鳴龍丸の“世さ来い”。その日に合わせ、我らも世へ出る。まずは内を和し、外には理で臨む。垣は壊さぬ。門を広げる。それまでに、ひとつずつ、板を張り替え、綱を締め、舵を磨く」


 座の全員が、静かにうなずく。障子の向こう、潮は満ちに向かい、さぎの影はもう見えない。庭の松が風に細かく鳴り、遠く、浜の方からは、人足の掛け声がかすかに届いた。


「さて、次に練るべきは、そのための仕込みの策よ。」


 東洋は硯に筆を入れ、紙の上へ三つの丸を静かに記した。

挿絵(By みてみん)


参考文献:『孫子』『よさこい祭り - 公益社団法人高知市観光協会』

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