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第二十五話 八人座

 安政三年四月朔日ついたち

 長浜の入り江は白く霞み、潮の匂いが庭の松の幹に淡くまとわりついていた。吉田東洋の私邸――といっても、閑かな釣台と小さな書院があるだけの質朴な屋敷――の座敷に、一同が顔をそろえた。


 吉田 東洋

 朝倉 藤兵衛、淡輪 治郎兵衛

 後藤 良輔、乾 退助

 本木 昌造、坂本 竜馬

 そして、細川 万象


 障子越しに、沖へ渡るさぎの影がすっと走った。


「――まずは、鳴龍丸の段取りを示す」


 東洋が座の中央で膝を進め、硯の横に置いた紙束を指で軽く叩いた。紙には簡略の図と、いくつかの期日が墨で記されている。


「三月によろずが参り、角度の治具と“可変螺旋”で理が立った。四月から石立にて羽根を一枚ずつ鋳っておる。これを四十日でかたす。これらを五月下旬より浦ノ内で久礼田の鍛冶衆が結合、これにひと月。六月の末には螺旋羽根が仕上がる見込みじゃ――ここまでよいか」


 治郎兵衛が、低く力のこもった声で応じた。


「ようございます。羽根の受け座は、船尾骨の細工を直し、押さえ広う取っております。梁の増し締め、機関床の下拵えも併行で進め申す」


 昌造が続ける。


「推進軸は長物ゆえ、芯出しに日を要します。鍛造・研ぎ出しで二十日見込み。船尾の軸筒は石立へ手配済み。込栓函は麻と牛脂で自作。――機関床は欅の台木に“焼き込み”で留め、歪みは水糸で取りまする」


 東洋はうなずき、紙束の次の頁をめくった。


「肝要は動力機関よ。昌造、しかと申せ」


「はっ。長崎筋にて、蘭式の小型機関を部品扱いで分けて搬入――これが筆頭案にて。されど公儀目付の目が厳しく、着荷は最短でも秋口と見ます。汽筒きとうなどかなめの部分を土佐で拵える策も吟味致しましたが、筒内の中ぐり・摺り合わせの精度、弁箱の気密……現状の道具では信が置けませぬ。――ゆえに、要は長崎より、周りは土佐での按配が最も現実的かと存じます」


 座は静かにうなずいた。東洋がまとめる。


「機関が遅れるあいだ、我らが為すことは多い。艉周りの開口、舵の手直し、軸受台の据え付け、颱風たいふうの備え、進水・曳航の試し。――ここまでの舵取り、鳴龍丸の差配は、昌造と万に一任する」


 東洋の視線が、万へ落ち着いて移る。


「浦ノ内では鍛冶衆、大工衆の信もあついと聞く。名に恥じぬ働き、続けて頼む。 “細川 万”として立て」

 万は淡々と一礼した。


「承りました。諸々の仕様は、手引に記して残します」


 退助が笑って肩を鳴らす。


「なら、わしには見張りと普請の見分をお任せ下され。颱風が来たら覆屋が泣くきに、綱と杭を増やしちょきます」


 良輔も帳面を開いた。


「人足・材の段取り、長崎筋の口は拙者が。石立・久礼田との往還も組みまする」


 治郎兵衛は短く「頼む」と言い、藤兵衛は静かに紙管に入れた図面へ手を置いた。


「図に息を入れ、言葉に型を与えよう。――学べば真似できるように」


 東洋は、満足げに一同を見渡した。紙束を脇へ寄せ、今度は膝前の座布を少し正し、声色を変える。


「さて――鳴龍丸は、土佐の“手”を鍛える器に過ぎぬ。今日はそれに加え、新たに立てた志を、皆へ明かしておきたい」


 座がわずかに緊張した。東洋は言葉を選びながら、まっすぐに告げる。


「わしは、上士・下士・郷士のかきを越え、新たな土佐を構える」


 言い終えると、掌を膝に揃えて深く一度、息を落とす。結んでいた扇をぱちりと閉じ、脇へ置いた。


「今のままでは、藩は内で食い合い、外へ背を見せる。先に“おこぜ組”で試みた改革が頓挫したは、策が間違いの一語では済まぬ。下士台頭への上士の反発、既得の妨げ、そして急変の世に置き去られる上士の焦り――この三つが渦を巻いた」


 視線を一度落とし、苦笑とも溜息ともつかぬ息をひとつ。


「――わし自身の失脚も、このことを考えず苛烈に策を進めた末の、自業よ」


 その言葉に良輔の胸の内に霹靂に打たれたような衝撃が走った。


 養父・東洋の性分は、「孤高不退の天才」であった。

 かつて江戸で論じた識者から「才のみならず学あり。されど驕慢独智にて人の言葉をれず、事を断ずるに苛酷多し」、「土佐の吉田は名剣にして鞘なきが如し。必ず自ら傷くるに至らんか」と評されたように、自分の信じた道を突き通すに徹するあまり、反論を受け入れることなく必要以上に責め立てて排除することが多かった。しかも、自分への非難を“些末なこと”として恥じなかったため、多方面から過剰に恨みを買っていた。


(先生が……己があやまちを、初めて口にされた)


 あの人は折れぬ。折れぬからこそ、多く難事を前へ運んだ。だが折れぬ剣は、ときに抜き身のまま風を裂き、人の肌をも裂いてきた。そこに危うさを感じながらも、その強き信念に憧れ、そういう人なのだと納めてきた。


 掌がじっとりと汗ばむ。恥じ入るでも、泣き伏すでもない。ただ、長いあいだ胸の奥に刺さっていた小骨が、今すっと抜けたような安堵があった。


 東洋の横に並ぶ藤兵衛が映る。……この方が、先生を変えたのだ。異論を清聴し、熱を冷まし、逃がすべき筋を見出して、その先のみちに交わりを示す。


 藤兵衛殿こそ、名剣・東洋をおさめる鞘にふさわしい。ならば自分は――。


(私は、懐刀ふところがたなとなろう)


 刀が道を示し、鞘が理を受け止める。その傍らで、ふところに収まり、間隙を詰める短刀――交渉の座敷での即応、誓紙の文言の切り回し、現場の火消しと汚れ役。抜く時はためらわず、納むる時は静かに。刀を無用に血で濡らさぬための懐刀だ。


 良輔は膝の上の両こぶしに力を込め、視線を巡らす。退助は腕を組み、竜馬は昂ぶった眼で前を見つめ、昌造は治具を指で撫で、治郎兵衛は瞳を閉じ、藤兵衛は静かな面持ち、万の揺らぎのない影。


 座は、整いつつあった。


 退助が苦い笑みで髷を触る。


「上は上で、怖いがじゃろ。下が伸びれば、我らの居場所がうなるかもしれん――。けんど、踏ん張って固めちょったら、いよいよ沈むばあじゃ」


 東洋はうなずき、藤兵衛へ目を向けた。


「内のことだけでは済まぬ。藤兵衛、土佐の置かれた“外側”を、皆に見せてやってくれ」


 藤兵衛は座り直し、掌を膝に置いた。声は静かで、芯があった。


「三つに分けて申す。


 ひとつ、外つ国からのあやうさ。

 泰西たいせい諸国は、もはや“戸口”の外におらぬ。長崎・横浜は異国の拠点と化し、航路は太平洋を長く斜めに走る。土佐はその喉の近くにある。南の海の道が開けば、浦戸・室戸に異国の帆影が増えよう。交わりは避け難い。

 ――されど、支配の手は常に“便利な岸”へ伸びる。港を整え、こちらの秩序と法を先に“置き”、誰の秤でも測れる物差しを立てること。これが“侵されぬための交わり”の初めじゃ」


 竜馬の目がきらりと笑う。


「ふたつ、うちまつりごとの揺れ。

 公儀の権は徐々に衰え、薩摩・長州のような大藩が独りで動き始めておる。片や“従属”に傾けば沈み、片や“打倒”に走れば、政変の後にわが身の座がなくなる。かたよらぬ舵取りが要る。

 ――都合の良い“中立”ではなく、海と学の実利で交わり、理の言葉で握る。長崎と江戸、両方に耳を置く“二つ口”が土佐には必要じゃ」


 昌造と良輔が、顔を見合わせてうなずいた。


「みっつ、家中の裂け目。――これが今まさに我らの喉元に刺さっておるとげじゃ」


 藤兵衛が顔を上げると、座の視線が集まる。


「土佐の身分の溝は太平二百余年の深さ。上士と下士・郷士が睨み合い、下は“開明”と“尊攘”に割れて一部は焦れ、上は“穏健”と“公儀寄り”で固くなる。このままでは、藩の内で火花が飛び、やがてはになる。」


 座に、重い静けさが落ちた。“鞘を得た名剣”が低く問う。


「――では、どうする」


 誰もすぐに答えなかった。庭の松が、海風に小さく鳴った。

挿絵(By みてみん)

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