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第二十四話 月下静海の約

 万象は、わずかに目を伏せた。算木をそっと盤に戻す時のような、無駄のない動きで。


「わたしは、長浜の塾で一目見て、“オラゾ”の息を感じました。あなたは――“忘却の審判レザ・シンブク”を越えた者なのですか」


 潮の音が、ふっと細くなる。藤兵衛は、しばし月を仰いだ。


「わしは……始めは送る者であった。はるか先の現世より流されし三人の若者を故郷へ還すため、鳥人の学者、竜人の戦士と共に旅をしたのだ。やがて辿り着いた白き塔で、“帰るか留まるか”の試しがあった。足を掛け違えれば滅びの記憶に沈み、二度と戻れぬ。わしは、その折は挑めなんだ。――閉ざされた土佐よりも、楽園おらぞに魅せられておったが故に」


 言葉は淡々としていたが、胸の底に遠い灯の揺れがあった。


「一度は退きながらも、再び審判に挑んだのですか。滅びの定めを越えてまで、うつつへ還ろうとしたのは、なぜです」


「――帰還の試練に挑む、あの三人の背に誓いを立てた。異なる世で学び、見、知ったものを、土佐に、元の人の世に返す。――そして届けると。遥か先の世に待つ“仲間”のもとへ。時を超えて輝く光を」


 万は、ほんのわずかに面を上げた。


「わたしは“白き方々”の記憶の端を持ちます。彼らは不死であるがゆえに“滅び”を恐れる。ゆえに理で世界を囲おうとする。――その記憶の声から見れば、あなたの選択は、刃を飲むにも似て、危うく、しかし美しく尊い」


 そして、問いを重ねた。


「あなたは、いかにして先の世に光を届けるのですか」


 藤兵衛は、足もとで湿った砂を指でしっかりとなぞった。崩れる線、また引かれる線。


「鳴龍丸はただの端緒にすぎぬ――わしは異界で見た理と痛みを、器や術に留めず、人の心・学び・なりわい・法と教えに織り込み、分かたれた士庶を結び、海と陸をつなぎ、時を越えて自ら立ちうる国の“習い”を遺すのだ」


 それは藤兵衛が初めて人に明かす、明確な決意の表れだった。万象は、波打ち際を一歩踏んだ。濡れ砂が、静かに足下へまとわりつく。


「……わたしは“器”。生きるためでなく、証すために作られました。理は抱えず、数とのりに直して“かた”と“治具じぐ”に落とす――誰もが同じ秤と物差しで学べるように。あなたが“習い”を遺すなら、わたしはそれを定めて、幾度でも織り直すとなりましょう」


「それがそなたの名を証すこと、と」


「はい。『すべてをかたどる』と名づけられたその“こころ”が、からっぽの大仰で終わらぬために」


 藤兵衛は、すぐには答えなかった。砂に指を立て、細い線を引く。風が、すぐにそれを消した。


「……万象。わしからいくつか頼みがある」


「何でしょう」


「わしらは共に異界の記憶を持つ。だが、異界の知は、現世には在ってはならぬもの。やがて必ずやいばになるであろう」


 女の瞳に、小さな揺れが生まれた。驚きでも恐れでもない、ごく淡い感心。藤兵衛は、砂に細い線を引きながら続けた。


「ひとつ。異界の名は口にせず、ことわりは土佐の言葉と度量に訳してのこしてくれ。誰の手にも届く“すべ”として、学べば真似できる形でな」


「ひとつ。造るものには、かならず“止めどころ”と“破り筋”を添えておいてくれ。扱い切れぬ力は力にあらず。行き過ぎれば人をそこなう。ゆえに、開き方と同じだけ、閉じ方も記してほしい」


 ひと呼吸おいて、彼は言葉を足した。


「……それから、これは酷な頼みだが――もし、わしが志半ばでたおれた時、その生き様を遺してほしい。先の世の三人に、還ったことのみ伝わればよい」


 万象は短く息を整え、まず一度うなずいた。


「二つは、承知しました」


 そこで、はっきりと首を振る。


「――三つ目は、承りかねます。いえ、半ばのみお請けします」


 わずかな間ののち、静かに続けた。藤兵衛はその瞳に、初めてこの女の明確な“意志”を見た。


「かつて半蔵は“志半ば”にて去りました。その未了みりょうが、わたしの始まり。ゆえに、同じ未了を二度と許せませぬ。あなたが斃れんとするなら、まずはわたしが支え、運び、繋ぎます。――わたしはあなたが世を去った後も、おそらくここに在るでしょう。しかし、“遺る者”である前に、“繋ぐ者”でありたいのです」


 藤兵衛は、ふっと口端をゆるめて頷いた。


「――それは頼もしい。自分の甘えを正されたようじゃ」


 彼は立ち、浅瀬の水を足先で一度だけはねた。


「三つ目は忘れてほしい。二つのやく――“理は土佐の言葉と度量へ訳すこと”、そして“開きと同じだけ閉じの作法を添えること”――それで手打ちにしてくれ。わしは、その“型”を世に遺す責めを負おう」


 二人は並んで、入江の口の細い暗さを見た。外の黒い海から白い泡の列が遅れて入り、舟渠の覆屋の方では、ともし火がひとつ、またひとつ、ともり、ゆらいだ。


「万象」


「はい」


「名は……何と呼べばよい。浦におる間は『細川 よろず』がよい、と東洋先生は言うたが」


「いかようにもお呼びください。――わたしは、名に囚われはしません」


「ならば、よろず殿と呼ぶ。万の名は、良い“縁”を寄せる。わしが万象と呼ぶのは、異界を語る時のみとしよう」


 女は答えず、ただ沈黙を置いた。その沈黙は、拒みでも承諾でもなく、静かに在る石の重みだった。


 舟渠の覆屋の方から足音が寄る。治郎兵衛の低い声、良輔が帳面を閉じる音、昌造が手燭てしょくに火を移す気配、竜馬の鼻歌――浦ノ内の夜は、人の気配を風の隙間に織り込みながら、更けてゆく。


「そろそろ戻ろう。海風は、待たせると人を冷やす」


「はい」


 砂を踏み返しながら、藤兵衛はもう一度だけ言葉を選んだ。


「――そなたの“在り様”は、ここで証せ。わしの誓いも、ここから果たす」


「承ります」


 月は少し高くなっていた。山の陰は濃く、入江の底の水は、深く、静かに、何かを抱え込んでいるように見える。鳴龍丸の骨は覆屋の下で眠り、螺旋羽根の“角”は、まだ乾かぬ布で包まれている。明日、また手が入り、明日、また別の角度が試される。


 歩みかけた藤兵衛が、ふと立ち止まる。女も足を止める。


「万象」


「はい」


「そなたの覚え書きが『機巧図彙』になった、と言うたな」


「はい」


「それは、おぬしの手を離れた“ことわり”が、人の手で“世”へ開かれた、ということだ」


「そうでございましょう」


「ならば、鳴龍丸の理も、いずれ“世”へ出る」


 万象は、短くうなずく。


「理は、海の波と同じ。誰のものでもなく、観る者によって形を変えます」


「ならば、なおのこと急ごう。風が変わる前に」


 二人は覆屋の灯へ向かった。灯の向こうには、人の手と鉄と木と油の匂いがある。遠い水の都から流れてきた微かな残響は、今この浦で土佐の息と混じり合う。


 鳴龍丸は、まだ舟渠の底で骨を冷やしている。だが骨のまわりには、人の気配が熱のように集まりつつあった。風を見る者、力を受け流す者、言葉で橋を架ける者、鉄に火を入れる者、図に息を吹き込む者――そして、向かうべき道を定めた器。


 夜は静かに、しかし確かに、動いていた。

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