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第二十三話 骸の月

 浦ノ内の入江は、夕陽が水面の底でほどけるようにゆっくりと色を失いつつあった。横浪の稜線は黒く沈み、湾口の外から押し寄せる海鳴りだけが、間遠まどおにこの囲われた静けさへ届いてくる。覆屋おおいやの影から少し離れた砂の浅瀬に、ひとつの影が立っていた。


 細川 よろず――かつて絡繰屋敷の奥で無言に歯車をもてあそび、今は鳴龍丸の“かど”を言葉少なに指示する女である。


「万象殿、ここにおわしたか」


 砂を踏む音をやわらげて近づきながら、藤兵衛は声をかけた。女は振り返らない。波と風の合間に、少し遅れて返事が落ちた。


「朝倉……殿、でしたか」


「藤兵衛でよい。それにしても見事な腕と知識であった。われらの行き詰まりをことごとく解きほぐしてくれた。これにて鳴龍丸の姿も、はっきりと見えてくるであろう」


 薄闇の中で、女の横顔がわずかにこちらへ向いた。瞳はまだ海の方を映している。


「では、わたしの役は終いでしょうか」


「いやいや、まだまだこれからじゃ。建ち上がってからも、そなたの知恵と力を借りねばならぬことは山積みじゃろう。鳴龍丸のことに限らずな」


 万は小さく、ほんの僅かに、頷いたように見えた。


「ところで――不躾ぶしつけなことをひとつ訊く。絡繰屋敷に籠もって幾年月、腕を磨いたのじゃ」


 女は少し考える素振りもなく言った。


「さて、十より先は数えておりませぬ」


 藤兵衛は、ふっと口の端だけで笑った。風が変わる。砂の上に刻まれた二人の影が、少し長く伸びた。


 ――先ほどの久光の言葉が、耳の底から甦る。


金屋子かなやごさまは、 “まこと”の鍛冶の女神じゃ。わしが子の頃より岡豊おこうの山におわしたが、その御姿みすがたは、ひとっちゃあ変わらん。春風が何度過ぎても、月の色が幾度めくれても、同じように白うて静かな顔じゃった』


 久礼田の鍛冶衆が、あの淡いおもてこうべを垂れた理由。彼らは女を人ならぬものとして恐れず、むしろかしこんでいた。打つべき鉄の音を知る者の迷信まじないは、たいていことわりに近いところで生まれ、いつしかれいに化ける。


 ふたりの間に言葉が消え、入江の外から大きなうねりが遅れて入ってきた。陽の気配が尽き、代わって細い月が、梢の上に銀の爪を立てる。


「――水中翼船ハイドロフォイル


 不意に、女が口許でほどいた言葉に、藤兵衛の背骨が微かにゆれた。耳の奥で、遠い水音がする。


「似てございました。“白銀の賢者”の水の都にありし船に」


 白銀の賢者――イオネム。水中を行く知者らが暮らす都。藤兵衛は返事をしなかった。声帯が返事の形を探したが、声は出ない。女もまた、彼の顔を見ないまま、静かに続けた。


「長浜の塾で、船の図を見てすぐに分かりました。わたしがこの世に生み出された意味はこの時に在ったのだと。わたしの“在りよう”をあかすべき場所が、ついに見つかったのです」


 潮騒が揺らぎ、夜の匂いが強くなる。藤兵衛は、ゆっくりと口を開いた。胸の奥で、幾つもの点が一筋の線になるのを、彼自身が聞いていた。


「――その身は、“骸躰しぇる”であろう」


 女の肩が、風の重みだけで動いたように見えた。


「まさか現世うつしよで、異界おらぞの創造者と相見あいまみえようとは思いもよらなんだ」


 万は静かに首を振った。


「それは半ば正しく、半ば違っております」


「違う、と」


「わたしは“むくろ”――人の身のかたちを借りて宿る器です。しかし、創造者と仰がれるべきものとは、少し違います」


 砂に白い月光が筋を描く。藤兵衛は近くの流木に腰をかけ、女は相変わらず立ったまま、潮の寄せを見ている。問答の形でしか近づけないさかいのようなものが、ふたりの間にそっと置かれた。


「仔細を、語ってくれぬか」


 万は短く「はい」と言った。声には抑揚がない。それでも一語一語が、どこか微かな澄んだ響きを伴って落ちていく。


「寛政七年――数えて幾つ前と申すことは致しませぬ。江戸で星を仰いでいたひとりの男に、星の震えが降りました」


星震せいしん


「はい。天球の裂け目から、時空の狭間エレギアに沈んでいた“残滓”が風に乗って、彼のうちに入った。男の名は細川頼直よりなお。人は彼を“からくり半蔵”と呼びました」


 藤兵衛は息をひそめた。細川半蔵頼直――名はすでに耳に馴染んでいる。『機巧図彙きこうずい』を記した「からくり」の名手として語り継がれる人物。だが、その背に今、異界の言葉がひっそりと結び直されるのを聴く。


「その“声”は、わたしたちの言い分で申せば、“白き方々”のひとかけ――非物質の世界エセルを編み、幾つもの滅びをたばねて“最後の楽園オラゾ”を設けた者らの、断ち切られた意志の残響でした。頼直のうちには、その記憶のいくつかが“ともり”、彼は“滅び”のことを恐れるようになりました」


 藤兵衛は近く遠い異界の記憶を呼びおこす。


 白き方々――アシラ

 原初の世界、エセルに住み、滅びゆく者たちの楽園オラゾを創世した霊体種。肉体を捨てて、非物質世界に身を置くという究極の進化に到達した不死の種族。


 そのアシラの意志が、細川半蔵頼直に宿ったのだ。


「半蔵は不死を求めた、と」


「はい。彼はすぐさま土佐くにへ戻り、むくろのからだを作ることに没頭しました。滅びぬから――魂を収める“うつわ”です。彼は、その器に名を与えました。『すべてをかたどる者』と」


 女は、あたかも隣家の昔話でもするように、淡々と言葉を置いていく。それが、かえって骨身に沁みた。


「しかし、その器は動きませんでした。どんなに精巧に骨を組み、血を模し、意志の経路を描いても、器は器のまま。――寛政八年、頼直は気づきました。起こすためには、おもいを流し込まねばならぬ、と」


 風の向きが変わる。山から降りる冷えの筋が、浅瀬を撫でる。


「彼は、己が持つ“声”――エレギアの縁から届いた残響が、いつか消え失せることを恐れました。ゆえに、器を起こすため、毒をあおり自らの肉を離れました」


「……自死じししたか」


 女は首肯した。


「ですが、現世うつしよの技では完全な骸躰シェルはできなかった。魂と器は別物であり、意志は渡らなかった。動きだした“わたし”には、頼直アシラの意志はなく、ただ手に残った“ことわり”――機巧からくりの算段と、半蔵の記憶だけが、まるで雨上がりの石に残る水筋のように、薄く、しかし確かに刻まれていたのです」


 藤兵衛は、静かに目を伏せた。細川万象――この女が、ときに世間の段取りに驚くほどうとい理由。食を忘れ、水を忘れ、風の方角で朝夕を知るようにして生きてきた理由。すべてが、一枚の布の織目のようにたち現れる。


「わたしは絡繰屋敷で、目の前のものだけを作り、書き止めました。歯車、ぜんまい、竹の弁、角の移り――。玩弄がんろうの覚え書きはいくつにも増え、たまに屋敷を訪れた半蔵の門弟たちがそれを拾い上げ、半蔵の遺作として『機巧図彙きこうずい』と呼ばれる絵物語にまとめました。ただ、作ると、出来た。その積み重ねだけが、わたしでした」


「では、『機巧図彙きこうずい』はそなたが記したものであったのか――しかし、もう六十年は昔のことじゃ。その骸躰は不死、ではないのだな」


「不死ではございませぬ。老いは遅い。人の十がわたしの一。食も水も、要らぬというわけではない。摂ることもできるし、摂らずとも長くは保ちます。けれど、永遠に同じではない。――わたしはただの、器ですから」


 女はそこで、ひと呼吸置いた。砂をかすめた波が、裾を濡らす。


「永く座しておりましたゆえ、人は“金屋子かなやご”、“御炉守おいどもり”とも呼びました。はがねを叩く人は、火と水の気配に敏く、不可思議を怖れ過ぎず、また甘やかしもせぬ。わたしに礼をし、わたしを畏れ、わたしに用を頼みました。わたしは、ただ作るだけでしたから」


「半蔵――いや、頼直は、なにゆえ、女のかたちにしたのだ」


 問いながら、藤兵衛は自分の声が少しだけ震えたのを自覚した。泥む古いものが、海の底からひと呼吸ぶんだけ顔を出す時、人はどうしても声を平らに保てない。


「“白き方々”の記憶から写し取ったのだと思います。わたしの内の、もっと奥の奥に、女の声の響きがある。名付けは頼直です。けれど、かたちは、その声に似せたのでしょう」



 藤兵衛は、胸の奥にあった薄い布を、さらにもう一枚剥いだ。

 遠い水の都を行き交う影、銀の皮膚にひらめく水、重い言葉を長く引きずる賢者たちの、うんざりするほど理屈正しい議論。大河レイテの岸辺で、彼は魚の骨のように痩せた自分の“弱さ”を何度も見つめた。


 最終試練で神話へ還った戦士の眼、シギが残した悔恨の光。そして、張り詰めた空気をいつも冗談一つでほぐした楽助の笑い、正しさの刃を自らに向けても引かなかった貴彦の真っ直ぐな眼差し、名の由りどころさえ薄れながらも透明に響いたリオンの声――あの夜更け、忘却の審判レザ・シンブクの塔の前で交わした短い頷きと掌の温み。


 すべてが、今は潮の匂いに溶けていく。


「……ならば、万象。おぬしは“創造者”ではないが、“そのすえ”であり、“その器”であると」


「おおよそは、そのように」


 女は、そこでようやく藤兵衛の方へ顔を向けた。月の爪が白く頬を引っかく。目は澄んでいるが、ぬくもりの色が薄い。


「藤兵衛。――次は、私が問う番です」


 だが、薄いからこそ、その言葉がよく入った。

※細川頼直の没年は寛政8年(1796年)とされていますが、『機巧図彙』の序文の起草年が寛政丁巳、すなわち寛政9年(1797年)とあるため、『機巧図彙』は没後に出版されています。頼直の経歴ははっきりしていますが、生年は不詳であり、死因についても不治の病気、禁止されていた技術を公開しようとして死罪になった、才能を妬まれて毒殺されたなど諸説ある、何かと謎の多い人物ではあります。あざなは方郷、丘陵など複数が伝わっていますが、その一つが「万象」です。



【オラゾ用語解説】


◎アシラ [Asira]

 エセルに住んでいる霊体種。肉体を捨てて非物質世界に身を置くという究極の進化に到達した不死の種族。一見、霊体であることは色々と便利に見え、実際に利点はあるが、物理法則から完全に離脱してしまっているため、物質世界における行動が大きな制限を受けてしまう。その為、彼らは現実世界では骸躰(シェル)[Shell]と呼ばれる仮の肉体に入っている。


◎1番目の世界 [ETHEL]

 エセル。アシラがその過剰進化した技術力で創り出した非物質世界。


◎0番目の世界 [NIL]

 ニル。もともとアシラが住んでいた現実世界。世界自体に様々な人工改良が加えられ、今では非物質世界という不安定なエセルを確固たるものにするための空間安定装置としてのみ、その存在理由を保っている。

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