第二十一話 万匠
翌朝。
長浜の河岸は潮の匂いが濃く、舟板に朝光が斜めに走っていた。浦戸湾へと吸い込まれる川面はおだやかで、沖では鷺が一羽、白い影を落としている。
用意されたのは、幅広の小早二艘。竜馬が嬉々として舵を取り、良輔が荷を点検し、昌造は大切そうに包みを抱え、藤兵衛は筒に図面を収めて肩に掛けた。最後に、万象――「万」が音もなく乗り込む。
「浦ノ内までは海沿い。横浪の岬に沿うて行けば、やがて口が見えるきに」
竜馬が櫂を押し出す。艫で水が短く鳴いた。
川面に射す光を、万は珍しげに指先で掬うように見つめていた。
「川は、海に言葉を返すのですか」
竜馬が首を傾げる。
「はて、どうゆうことで?」
「昨夜、庭の池で風が鳴っていました。今朝は、こちらで水が光っています。似ているのに、少し違います」
万は淡々と言い、舟の縁に額を寄せる。舟縁の鉋肌をさすり、節の向きまで確かめるように目を細めている。
「船によう慣れちゃあせんがか」
藤兵衛が問うと、万は小さく首を傾げた。
「山は歩きますが、海は……見ているばかりでした」
「見ておった、か。――ほんなら、見い。横浪の海はよう動くき」
竜馬が笑って指さす。
浦戸湾を出ると、外海の青が押し寄せてきた。横浪半島が長く横たわり、半島のうねりが外海のうねりを抱き止めるように延びている。海と空の境が近く、春の光は白くまぶしい。
万は目を細めて、その半島の稜線をじっと追った。
「……あそこは、喉の形をしています」
「喉?」
「海が、声を飲み込むときの形です」
竜馬が吹き出した。
「はは、面白い言い方をするのう。確かに浦ノ内は“竜の喉奥”言うがやき」
藤兵衛は微笑むだけにとどめ、視線を岬の陰へ滑らせた。
潮が変わる。舟は横浪の陰に入り、うねりが急に穏やかになる。入江の口は狭く、内は湖のように静かだ。
湾奥へ進むにつれ、木々の影が濃くなっていく。舟渠のある浜は、目印がなければ通り過ぎてしまうほどに、木立と岬の陰に守られていた。
舟渠に着くと、すでに十数人の男たちが待っていた。治郎兵衛が一歩進み出て、深く頭を下げる。
「ご苦労でございました」
その背後で、職人たちがざわついた。舟から降り立った「工人」が、若い女だと知ったからだ。
「……しょう若いけんど」
「舟のことが女子に分かるがか?」
囁きが波のように広がる。治郎兵衛も思わず目を瞬いた。
「――この御方が、あの“絡繰屋敷”で見つかった工人……」
良輔が小声で添える。
「はい。細川殿にござる」
女は静かに一礼した。
「岡豊山より参りました、細川 万と申します」
治郎兵衛はなお訝しげに眉を寄せる。
「細川……とゆうたら、もしや“からくり半蔵”の――」
万は淡々と首を傾げた。
「血縁は存じませぬ。ゆかりは志にございます」
ほんの一拍ののち、治郎兵衛は気色を収め、背後の男衆へ鋭く目を走らせた。
「静まれ。――細川殿の腕前は、これからおのずと知れる。皆、しかと支度いたせ」
万は、何食わぬ顔で頭を下げ、すぐに工の匂いへ吸い寄せられるように歩き出した。
覆屋の内、仮組みの梁に手を置き、耳を当てて木の鳴りを聴く。続いて脇に並ぶ試作の螺旋羽根へ。桶の実験に使って傷の入った木製の羽根や、薄い鉄板を無理に捩じったもの、角度を変えた幾つもの試作品が、恥をさらすように並んでいる。
万は一本一本、根元を撫で、先端をつまみ、ほんの僅かに振ってみる。そのたびに、微かな金属音が指先から耳へ伝わるのだろう。表情は変わらない。変わらないからこそ、見ている者は息を詰めた。
「これを、見てください」
万が包を開く。薄い鉄板に奇妙な割りが入った“板”が現れた。板は数枚あり、どれも形が違う。指で押すと、曲げていないのに“捩れて”見える。
「曲げずに、角を移すと、面は捩れます」
板の穴に小さなピンを通し、別の穴へ差し替える。すると板全体の“ねじれ角”が変わった。
「刃を一枚だけ切り離すと、捩れはこのくらい。角度はここで読む」
取り出したのは、小さな目盛りの付いた扇形の器具。板の端に軽く当てて、数値を口にする。
「四十五度と、二十七度の間……この舟の速さなら、ここからここまでの間で“押す”形がよいかと」
職人たちの間に低い唸りが走る。
「曲げちゃあせんがやに、捩れちゅう……」
「角で面を移す、か。見事なからくりよの」
昌造が前へ出て、目を輝かせる。
「ふむ……捩りを“分度”で扱う。板のまんまで角度を覚え込ませる算段。これは妙にござる」
良輔も息をのんだ。
「可変螺旋……」
万は頷き、板を水桶へ差し入れる。小舟の模型の艫へ取り付け、人力の回し輪を付ける。
「流し台を」
治郎兵衛が即座に指示し、職人が板で溝を作り、水をゆるく流し始める。
実験は数度繰り返された。角度を変えるたび、流れの乱れ方が変わる。泡の立ち方、桶の縁での反射、板の縁で起こる微かな“鳴り”。万は一つ一つを見逃さない。
「――ここ。角の立ちを三分落とす。縁は厚く、面は薄く。根元は“押さえ”を広く」
万は淡々と告げ、扇形の角度具で数字を示す。
数度目の試しで、小舟が水をしっかり掴んで前へ出た。引き綱に掛けた小さな秤が、先ほどよりも確かに重みを示す。
治郎兵衛が唸る。
「……今のが、いちばん前へ出ちゅう」
昌造が静かに頷いた。
「角度の“帯”が見え申したな」
桶の水面に、ゆるやかな帯ができた。羽根の縁から走る細い筋が、先ほどまでの騒ぎとは違い、真っ直ぐ艫の方へ集まっていく。
万は指先で水の縁を切り、わずかに濡れを払うと、角度具の目盛をもう一度読み直した。
「いまの“押し”で、秤はどれほど動きましたか」
「二分どまり……いや、三分手前じゃ」
引き綱を持つ若い職人が目を丸くする。
「先刻は二分に届かず、泡ばかり立ちよりましたきに」
別の者が思わず声を上ずらせた。
万はうなずくと、試作羽根の根元へ視線を落とした。
「ここ――根の肩が尖りすぎています。水が逃げます」
そう言って、手板の上に炭で素早く形を描く。根元の厚みをわずかに増し、肩を丸める図。
「丸みは“ひと刻み”だけ。縁は薄くし、面で押さず、筋で押す」
治郎兵衛が横合いから問いかける。
「筋で押す、とは?」
「水は面では重くなります。筋なら、重さは減って、速さだけが残ります」
理を飾り立てず言いきる物言いに、周りの男たちが思わず顔を見合わせた。
万はさらに指図する。
「秤は分銅を替え、糸は細いものに。目盛りは帳面だけでなく、羽根の根元にも刻みを――あとで同じ角度に戻せるように」
昌造が「心得た」と頷き、良輔は帳面に走り書きする。退助は腕を組み、先ほどの半信半疑の色を消して、実験の段取りの良さに感心したように口笛を小さく鳴らした。
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つづけて梁へ向かう。
万は連結梁の巻き鉄の継ぎ目に爪を立て、耳を近づけた。軽く叩く。乾いた音、少し鈍い音、そして僅かに“鳴る”音。
「ここは“鳴き”が立ちます」
短い言葉のあと、彼女は斜材の角度を変えてみせた。
「鉄の帯を増すより、斜の筋を“ひと呼吸”だけ寝かせます。木はしなり、鉄は受ける。二つが喧嘩せぬように」
治郎兵衛が思わず口を開く。
「……見取りが早い」
万は肩をすくめただけで、すぐに桶へ戻った。実験の度に、角度具と秤、そして羽根に刻む“印”が揃い、動きに迷いがなくなっていく。
何度かの試しの末、引き綱の目方が明らかに上がったとき、覆屋の内に低い感嘆が洩れた。
「今のが“帯”の芯か」
「うむ、乱れが消えちゅう」
男たちの声色から、懐疑は消え、職人の顔つきだけが残る。
万は角度具を畳み、さらりと言った。
「羽根の縁は“糸”で洗ってください。水に引っかかる毛羽は許しません」
その言葉に、木地磨きの年配が反射的に返事をし、反物の真綿と魚皮の準備を申し出た。細工の注文が、いつもの言葉で腹に落ちる。
退助が小声でつぶやく。
「……さっきまで『女子に何が分かる』いう顔やったが、もう誰も言わんにゃあ。――まさに”万匠“じゃ」
藤兵衛は、黙って頷いた。万の目は、物に宿る骨と息を探りあてる目である――
良輔が帳面から顔を上げる。
「では、いまの寸法で一度“本寸”の羽根を起こしとうございますが――」
万は即座に首を振った。
「このまま大きくすれば、根が負けます。根元は“押さえ”を広く。芯柱と嚙み合う座を深くして、力を散らす」
炭の先が、根元と芯の取り合いを描く。
「芯柱は“座金”を二重に。外の座金は薄く広く、内の座金は厚く狭く。外が面で受け、内が筋で押す」
昌造が図を覗き込み、静かに唸った。
「……“面と筋”で段取りを分ける、か。理に適う」
治郎兵衛が裾を払って腰を上げる。
「よし、根元の座の型板を拵える。矢立と墨差し、持ってこい」
職人たちが散り、覆屋の内にいつもの手際の良さが戻ってくる。だが、眼差しだけはさっきと違っていた。新しい“芯”を得た目だ。
万は一息だけ空を見上げた。木立の間から、春の白い光が細く差している。
「角度の“帯”は、もう見えました。あとは材です」
振り返る黒い瞳に、ためらいはない。
「羽根は、一本ずつ分けて拵えましょう。素材は砲金……銅と錫。近くに鋳造の備えはありますか?」




