第二十話 名を伏せ、歯を合わせる
少林塾の座敷に、低い夕陽が差していた。
上手には吉田東洋が端座し、その右に乾退助、左に朝倉藤兵衛。向かい合う下手には、本木昌造、後藤良輔、坂本竜馬、そして白布の襟をきちんと合わせた女が、静かに膝をそろえていた。
最初に口を開いたのは、その女であった。
「岡豊山より参りました、万象と申します」
澄んだ声が畳に落ち、座敷の空気が細り、その一音一音の輪郭だけが残る。
東洋はただちに半歩、視線を深めた。
「頼みの工人が、まさかこのような若い女子とは……」
言い回しは柔らかいが、そこには慎重と猜疑が半ばずつ混じっている。土佐の新政を背負う者の目は、希望を優しく撫ではしない。
良輔が静かに座を正し、岡豊山で見たものを語りはじめた。
「先生、あの屋敷は只者ではございませぬ。参道の脇には“商いの仕掛け”があり、銭を投じて棒を押しますと小箱のうちが機いて、竹炭粉が秤り一杯だけ吐き出されます。銭を払わねば出ぬよう歯止めがしてあり、勝手に掠め取ることは出来ませぬ。山手の水路には水を汲み上げる絡繰り――皮弁で息をする筒を重ね、歯車で拍子を刻んで、水を段々に押し上げる仕掛け。屋敷の戸を開けば、座敷一面に歯車、ゼンマイ、写天儀の部材、行程儀の数取り……」
「ふむ」
東洋の目がわずかに動いた。
「ただの奇物集めではない――と」
良輔が頷いたところで、昌造が脇の包みを解いた。白布がほどけ、掌に乗るほどの木の歯車が現れる。
「先生、舟の中で彫らせたものでございます。岡豊山から国分川を下り、浦戸へさしかかるまでの半刻ほど――小刀一本で、樫の一枚板より彫り出しました」
「樫を、一枚で……?」
東洋の眉が、そこで初めてわずかに上がる。
「樫は堅く狂いも出やすい。歯車に用いるならば、普通は歯だけ別に起こして貼り合わせる。それを一木で? ――よい、見せよ」
昌造が畳の上へ載せる。東洋は指腹で歯先を撫で、目を細める。歯一枚ごとの厚みが均され、円の芯は揺れていない。彫り口は艶を帯び、刃の運びに乱れがない。
「……芯木の割れも、歯の根の脈目も、よう見抜いちゅう。樫が嫌がるところを避け、喜ぶところだけを使う――」
東洋は置いた歯車を一度返し、再び表に戻した。
「――なるほど。技はある」
だが、退助はまだ腑に落ちぬ顔であった。
「待ちや先生。こんな細い腕で、その堅い樫を半刻で彫れるわけがないろう。小刀が泣くがじゃ」
良輔が小さく苦笑し、退助に顔を向ける。
「いのす、ならば……座っておる万象殿の手を、引っ張って引き倒してみたらえい。手首をつまんで、ぐっと」
「おい、やす――女子相手に不作法な」
「万象殿、よろしゅうございますか」
良輔が万象に目を向ける。
万象はためらう素振りもなく、膝を進め、手首を退助の前へ差し出した。白い指が、光を吸うように静かである。
退助は一瞬ためらったが、ゆっくりとその手首を取った。温度は人の温度。しかし――引く。
動かない。
力を足して引く。
動かない、どころか、握っているはずの自分の手の内が、じりりと浮つく。
「……ぬ、ぬうっ」
退助の頬が赤らむ。肩を入れ、腰を落とし、肘を締める。
そのとき、万象の手首が、ほんの僅か、軸を回った。
次の瞬間、退助の肩がふわりと軽くなり、床が傾いたような錯覚とともに、視界が畳に転じた。
ころり、と横へ。
痛むほどではない。だが、抗いようもない。
「――っ……!」
退助は目を丸くして起き上がる。右の手首は痺れ、肩の後ろの力が抜けている。
東洋が思わず唸った。
「柔よく剛を制す、ということか……?」
万象はその言葉へ、微動だにせずに応えた。
「いいえ。剛が柔を制したまででございます」
語調は平板。だが、その意味は重い。
「もう一遍じゃ!」
退助は子供のように膝を進めた。先刻よりも静かに手首を取り、今度は力みを抑えて軸を制する。呑敵の理で先に“芯”をつまむ。
だが、指先へ伝う手首の鼓動が、途中で消えた。いや、消えたのではない。自分の掌の中にある“芯”が、いつの間にか、とらえ所のない水の芯へと変わっていた。
わずかな返しで、退助は再び、畳の上へころり。
「なんという――膂力じゃ……」
膂力と呼ぶしかない。だが、ただの腕力ならば、いまの軽い返しで人は倒れぬ。形の整った剛が、形を選ばぬ柔をもって人を制した、という感覚――退助は言葉を失い、右指を揉んだ。
龍馬が目を細めて笑う。
「こら“山姥”じゃゆう噂も、あながち間違いじゃないのう」
座敷に小さな笑いが生まれる。
ただひとり、藤兵衛だけは、黙してその一部始終を見つめていた。
(――なにか、見たような……)
空になって重くなる、その刹那の気配。言の葉に掛ければ指の間から零れそうな何かが、胸の底でかすかにさざめいた。名も形も掴めぬまま、彼はまぶたを伏せ、ひと息だけ整えた。
東洋が膝を進める。
「――うむ。力も理も、見た。次は“目”じゃ。ここへ」
昌造が巻物を広げ、鳴龍丸の設計図を座の中央へ置いた。梁の配列、双胴の間隔、艫へ据えつける螺旋羽根の樋。さらに、試作の小さな羽根が載る木盆を差し出す。桶で試した時の擦り傷と鈍い艶が、その失敗の数を語っている。
万象は何も言わず、身を乗り出した。
指先は軽く、視線は正確で、図の線を追うというよりも、図の奥にある“力の流れ”を探るように動く。
しばしの沈黙。
やがて、万象は小さく息を吸い、最初の一点を指した。
「まず――この連結梁。檜を束ね、鉄帯で巻いておいでですが、束ね方が“揃え”すぎております。木は生き物、年輪の癖を交互に“殺し合わせる”ように配さねば、波で左右が逆に持ち上がる折に、ここ――筋交の根元で“捩れ座屈”が出ます」
退助が思わず身を乗り出した。
「ねじれ……座屈?」
「はい。梁は“棒”ではなく“橋”でございます。力を受ける面を一つ増やし、斜めに“逃がす”――この斜材の角尺を一寸だけ深く、鉄帯は一枚増やすのではなく、幅を狭めて本数を増やすがよろしい。木の呼吸が止まりませぬ」
万象は次に、艫の螺旋羽根の樋を示した。
「次に、螺旋羽根の“角度”。これでは水が“咬まず”、泡を噛むだけ。桶では走っても、船では空回りましょう。羽根の“立ち”を二分寝かせ、根元――この芯金の付け根に“匁だけ重み”を置きます。水が羽根へ来たとき、初手で逃げず、半拍おいて“引き込む”。そのための重みでございます」
昌造が瞠目した。
「根元に重み……」
「さらに申せば、この“樋”の内側が荒うございます。木肌のままでは水が“怒り”ます。紙を貼って油を引き、滑らかに。水は光を好みます」
良輔が息を呑む。龍馬は面白そうに笑みを深めた。
万象の指は止まらない。
「機関の座も薄うございます。振動は梁へ渡って、やがて“梁鳴り”になります。座は厚く、しかし固め過ぎず、下に“息抜き”の隙を。樽板を楔で差し、息が通るように。……双胴の間の板も、ただの板ではなく“鼓”に。糸――いえ、縄で締め、季節で締め直す。木は季で変わります」
東洋の目が、わずかに和らいだ。
そして万象は、試作の羽根を手に取った。
「この羽根――“角”がございませぬ。水を押すのは“面”ではなく、“角”。角を立て、それを滑らかに倒す。……それから、羽根の根元で、ここ。力が“集まる場所”が一つに見えます」
万象は小刀を取り、紙片へさらさらと線を引いた。羽根の根元から力の線がいくつも走り、ある一点で束ねられている。
「束ねたままでは折れます。力を“散らす”筋をもう一本、ここへ」
紙片の脇に、もうひとつ線が伸びる。
昌造はそれを覗き込み、しみじみと頷いた。
「……確かに、われらが見落としておりました」
座敷にしばし、言葉がなくなった。
東洋は口を結び、やがて問う。
「――なんとか、なるか」
万象はまっすぐに東洋を見た。
「名に恥じぬ働きをいたしましょう。それで、私の在り様を証せるのなら」
その一語に、虚飾はない。あるのは淡い決意だけであった。
東洋は小さく笑い、しかしその笑いに厳しさが混じる。
「“万てを象る”とは、大それた名よ」
「名づけは私ではありません」
万象は淡々と返した。
東洋は一瞬、思案の沈黙を置き、それから指先で畳を二度、軽く叩いた。
「その名は、女子にしては――目立ちすぎる。浦ノ内では“細川万”と名乗るがよい」
「承りました」
万象は膝を折って頭を下げた。その所作は、静かで、無駄がなかった。
退助はなおも手首をさすりながら、目を白黒させている。
「やす、竜馬……おまんら、ようこんな“人ならぬ”御仁を見つけてきたちや」
竜馬が肩をすくめる。
「人ならぬ言うたら、怒られるぜよ。――けんど、怒られてみたい気もするのう」
万象は竜馬へ、感情の見えない視線を一瞬だけ返した。龍馬は「おおの、怖い怖い」とおどけて笑い、座がほんの少し、やわらぐ。
藤兵衛は、図面の縁を指でなぞりながら、黙していた。
「水は光を好む」――万象のひと言が、どこか遠い景を胸裏に呼び覚ます。暗がりの底で、細い光が水に溶けて川のように流れていた、あの感触。名を与えれば指の間から零れてしまいそうな、淡い残像だけが残る。
既視感はある。だが、今はそれを結び合わせる刻ではない。
せり上がった名を喉奥でのみ込み、彼は静かに背筋を伸ばした。
東洋は視線を座の全員に渡した。
「――よい。浦ノ内へ迎えよう。ただし今宵はここまでじゃ。夜に山を動かすは漏れのもと。明朝、辰の刻に発て。昌造は万の世話役、良輔は段取りと口上書、竜馬は人足と舟の手配、退助は見張りと普請の見分、藤兵衛は図に“息”を入れ写しを用意せよ。……皆で“橋”を渡る。」
その言葉に、四人が声を揃えて「ははっ」と答える。
東洋はふと、背後の庭に目を遣った。
竹の影が長く伸びる。長浜の夕暮れは未だ早い。
その影の向こうに、五台山の稜線が薄く見える。山の向こうに――少林山雪蹊寺。長宗我部元親公の菩提寺であり、この塾が“少林塾”と称される由縁。
そして岡豊山は、かつて長宗我部の居城であった。
吉田東洋――名乗りは山内の臣なれど、紛れもなく長宗我部旧臣・吉田家の血を引く者。
上士と下士。
山内と長宗我部。
乾退助は山内の嫡流に連なり、後藤良輔もまた馬廻格の家。対して、朝倉藤兵衛、淡輪治郎兵衛――郷士・下士の系譜。
そして今、岡豊山から“万象”を名乗る女が来た。
東洋は、心の内に形のない橋を見た。
片岸は山内、片岸は長宗我部。川底には幾多の遺恨が眠る。
だが、その上に橋は架けられる。
上に立つ者が意を決し、恨みを一度呑みこみ、力ではなく理で渡るなら。
己はその橋板の一本となり、梁の一本となろう。
(苛烈のみでは、人はついて来ぬ。理と情を合わせ、両の岸を繋ぐのが、わしの役目よ)
東洋は、胸の裡でそう言葉にした。声には出さない。だが、その静かな決意が、瞳の奥に小さく灯る。
万象――いや、“万”。
この女の名は、山中の闇に隠れてこそ生きる名ではない。
だが今は、伏せて働かせる。浦ノ内の蔭に。その蔭で、歯を合わせ、息を合わせ、力を散らし、力を集める。
東洋は座を解きながら、万に向かってひとことだけ告げた。
「浦ノ内は口の狭い、竜の喉奥じゃ。よく見え、よく聴き、そして――よく、隠れよ」
「承知いたしました」
万は、ほんの僅か首を垂れた。その仕草に、女の柔らかさにはない、淡い意志の温度が宿る。
座敷を出ると、庭の風が冷たかった。
竜馬が鼻歌をうたい、退助がまだ右手を揉み、良輔が段取りの帳面を開く。昌造は歯車を包みに戻し、藤兵衛は図面を抱え、万は何も持たずに静かに歩いた。
西の光は薄く、東の影は長く。
その影その影を踏んで、一行の足並みはそろった。
こうして――“名”を伏せ、“歯”を合わせる者が、土佐にひとり増えた。
湾の奥で待つ鳴龍丸は、まだ骨のまま。
だが、ひとつの歯車が噛み、もうひとつが回り始めるとき、止まっていた仕掛けは、たやすく動きだす。
静かな座で取り交わされた幾つかの言葉が、やがて木々の間を抜け、潮の匂いのする舟渠に届く――その時を待ちながら。




