表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/41

第二十話 名を伏せ、歯を合わせる

 少林塾の座敷に、低い夕陽が差していた。


 上手かみてには吉田東洋が端座し、その右に乾退助、左に朝倉藤兵衛。向かい合う下手しもてには、本木昌造、後藤良輔、坂本竜馬、そして白布の襟をきちんと合わせた女が、静かに膝をそろえていた。


 最初に口を開いたのは、その女であった。

岡豊山おこうやまより参りました、万象ばんしょうと申します」

 澄んだ声が畳に落ち、座敷の空気が細り、その一音一音の輪郭だけが残る。


 東洋はただちに半歩、視線を深めた。

「頼みの工人たくみが、まさかこのような若い女子おなごとは……」

 言い回しは柔らかいが、そこには慎重と猜疑が半ばずつ混じっている。土佐の新政を背負う者の目は、希望を優しく撫ではしない。


 良輔が静かに座を正し、岡豊山で見たものを語りはじめた。

「先生、あの屋敷は只者ではございませぬ。参道の脇には“商いの仕掛け”があり、銭を投じて棒を押しますと小箱のうちがはたらいて、竹炭粉がはかり一杯だけ吐き出されます。銭を払わねば出ぬよう歯止めがしてあり、勝手に掠め取ることは出来ませぬ。山手の水路には水を汲み上げる絡繰り――皮弁かわべんで息をする筒を重ね、歯車で拍子を刻んで、水を段々に押し上げる仕掛け。屋敷の戸を開けば、座敷一面に歯車、ゼンマイ、写天儀の部材、行程儀の数取り……」


「ふむ」

 東洋の目がわずかに動いた。

「ただの奇物きぶつ集めではない――と」


 良輔が頷いたところで、昌造が脇の包みを解いた。白布がほどけ、掌に乗るほどの木の歯車が現れる。

「先生、舟の中で彫らせたものでございます。岡豊山から国分川を下り、浦戸へさしかかるまでの半刻はんときほど――小刀一本で、かしの一枚板より彫り出しました」


「樫を、一枚で……?」

 東洋の眉が、そこで初めてわずかに上がる。


「樫は堅く狂いも出やすい。歯車に用いるならば、普通は歯だけ別に起こして貼り合わせる。それを一木いちぼくで? ――よい、見せよ」


 昌造が畳の上へ載せる。東洋は指腹で歯先を撫で、目を細める。歯一枚ごとの厚みがならされ、円の芯は揺れていない。彫り口は艶を帯び、刃の運びに乱れがない。


「……芯木しんぎの割れも、歯の根の脈目みゃくめも、よう見抜いちゅう。樫が嫌がるところを避け、喜ぶところだけを使う――」

 東洋は置いた歯車を一度返し、再び表に戻した。


「――なるほど。技はある」


 だが、退助はまだ腑に落ちぬ顔であった。

「待ちや先生。こんな細い腕で、その堅い樫を半刻で彫れるわけがないろう。小刀が泣くがじゃ」


 良輔が小さく苦笑し、退助に顔を向ける。

「いのす、ならば……座っておる万象殿の手を、引っ張って引き倒してみたらえい。手首をつまんで、ぐっと」


「おい、やす――女子相手に不作法な」

「万象殿、よろしゅうございますか」

 良輔が万象に目を向ける。

 万象はためらう素振りもなく、膝を進め、手首を退助の前へ差し出した。白い指が、光を吸うように静かである。


 退助は一瞬ためらったが、ゆっくりとその手首を取った。温度は人の温度。しかし――引く。


 動かない。

 力を足して引く。

 動かない、どころか、握っているはずの自分の手の内が、じりりと浮つく。


「……ぬ、ぬうっ」

 退助の頬が赤らむ。肩を入れ、腰を落とし、肘を締める。


 そのとき、万象の手首が、ほんの僅か、軸を回った。

 次の瞬間、退助の肩がふわりと軽くなり、床が傾いたような錯覚とともに、視界が畳に転じた。


 ころり、と横へ。

 痛むほどではない。だが、抗いようもない。


「――っ……!」

 退助は目を丸くして起き上がる。右の手首は痺れ、肩の後ろの力が抜けている。


 東洋が思わず唸った。

「柔よく剛を制す、ということか……?」


 万象はその言葉へ、微動だにせずに応えた。

「いいえ。剛が柔を制したまででございます」

 語調は平板。だが、その意味は重い。


「もう一遍じゃ!」

 退助は子供のように膝を進めた。先刻よりも静かに手首を取り、今度は力みを抑えて軸を制する。呑敵の理で先に“芯”をつまむ。


 だが、指先へ伝う手首の鼓動が、途中で消えた。いや、消えたのではない。自分の掌の中にある“芯”が、いつの間にか、とらえ所のない水の芯へと変わっていた。


 わずかな返しで、退助は再び、畳の上へころり。

「なんという――膂力りょりょくじゃ……」


 膂力と呼ぶしかない。だが、ただの腕力ならば、いまの軽い返しで人は倒れぬ。形の整った剛が、形を選ばぬ柔をもって人を制した、という感覚――退助は言葉を失い、右指を揉んだ。


 龍馬が目を細めて笑う。

「こら“山姥やまんば”じゃゆう噂も、あながち間違いじゃないのう」

 座敷に小さな笑いが生まれる。


 ただひとり、藤兵衛だけは、黙してその一部始終を見つめていた。


(――なにか、見たような……)


 空になって重くなる、その刹那の気配。言の葉に掛ければ指の間から零れそうな何かが、胸の底でかすかにさざめいた。名も形も掴めぬまま、彼はまぶたを伏せ、ひと息だけ整えた。


 東洋が膝を進める。

「――うむ。力も理も、見た。次は“目”じゃ。ここへ」


 昌造が巻物を広げ、鳴龍丸の設計図を座の中央へ置いた。梁の配列、双胴の間隔あいともへ据えつける螺旋羽根のとい。さらに、試作の小さな羽根が載る木盆を差し出す。桶で試した時の擦り傷と鈍い艶が、その失敗の数を語っている。


 万象は何も言わず、身を乗り出した。


 指先は軽く、視線は正確で、図の線を追うというよりも、図の奥にある“力の流れ”を探るように動く。

 しばしの沈黙。


 やがて、万象は小さく息を吸い、最初の一点を指した。


「まず――この連結梁。ひのきを束ね、鉄帯で巻いておいでですが、束ね方が“そろえ”すぎております。木は生き物、年輪の癖を交互に“殺し合わせる”ように配さねば、波で左右が逆に持ち上がる折に、ここ――筋交すじかいの根元で“よじれ座屈”が出ます」


 退助が思わず身を乗り出した。

「ねじれ……座屈?」


「はい。梁は“棒”ではなく“橋”でございます。力を受ける面を一つ増やし、斜めに“逃がす”――この斜材の角尺かくじゃく一寸いっすんだけ深く、鉄帯は一枚増やすのではなく、幅を狭めて本数を増やすがよろしい。木の呼吸が止まりませぬ」


 万象は次に、ともの螺旋羽根の樋を示した。

「次に、螺旋羽根の“角度かど”。これでは水が“まず”、あわを噛むだけ。桶では走っても、船ではから回りましょう。羽根の“立ち”を二分寝かせ、根元――この芯金しんがねの付け根に“もんめだけ重み”を置きます。水が羽根へ来たとき、初手で逃げず、半拍おいて“引き込む”。そのための重みでございます」


 昌造が瞠目した。

「根元に重み……」


「さらに申せば、この“樋”の内側が荒うございます。木肌のままでは水が“怒り”ます。紙を貼って油を引き、なめらかに。水は光を好みます」

 良輔が息を呑む。龍馬は面白そうに笑みを深めた。


 万象の指は止まらない。

「機関のも薄うございます。振動は梁へ渡って、やがて“梁鳴はりなり”になります。座は厚く、しかし固め過ぎず、下に“息抜いきぬき”のすきを。樽板をくさびで差し、息が通るように。……双胴の間のいたも、ただの板ではなく“つづみ”に。糸――いえ、縄で締め、季節で締め直す。木はときで変わります」


 東洋の目が、わずかに和らいだ。

 そして万象は、試作の羽根を手に取った。

「この羽根――“かく”がございませぬ。水を押すのは“めん”ではなく、“かど”。角を立て、それを滑らかに倒す。……それから、羽根の根元で、ここ。力が“集まる場所”が一つに見えます」


 万象は小刀を取り、紙片へさらさらと線を引いた。羽根の根元から力の線がいくつも走り、ある一点で束ねられている。

「束ねたままでは折れます。力を“散らす”筋をもう一本、ここへ」


 紙片の脇に、もうひとつ線が伸びる。

 昌造はそれを覗き込み、しみじみと頷いた。

「……確かに、われらが見落としておりました」


 座敷にしばし、言葉がなくなった。


 東洋は口を結び、やがて問う。

「――なんとか、なるか」


 万象はまっすぐに東洋を見た。

「名に恥じぬ働きをいたしましょう。それで、私の在り様をあかせるのなら」

 その一語に、虚飾はない。あるのは淡い決意だけであった。


 東洋は小さく笑い、しかしその笑いに厳しさが混じる。

「“すべてをかたどる”とは、大それた名よ」


「名づけは私ではありません」

 万象は淡々と返した。


 東洋は一瞬、思案の沈黙を置き、それから指先で畳を二度、軽く叩いた。

「その名は、女子おなごにしては――目立ちすぎる。浦ノ内では“細川よろず”と名乗るがよい」


「承りました」

 万象は膝を折って頭を下げた。その所作は、静かで、無駄がなかった。


 退助はなおも手首をさすりながら、目を白黒させている。

「やす、竜馬……おまんら、ようこんな“人ならぬ”御仁を見つけてきたちや」


 竜馬が肩をすくめる。

「人ならぬ言うたら、怒られるぜよ。――けんど、怒られてみたい気もするのう」

 万象は竜馬へ、感情の見えない視線を一瞬だけ返した。龍馬は「おおの、怖い怖い」とおどけて笑い、座がほんの少し、やわらぐ。


 藤兵衛は、図面のふちを指でなぞりながら、黙していた。

「水は光を好む」――万象のひと言が、どこか遠いけしきを胸裏に呼び覚ます。暗がりの底で、細い光が水に溶けて川のように流れていた、あの感触。名を与えれば指の間から零れてしまいそうな、淡い残像だけが残る。


 既視感はある。だが、今はそれを結び合わせる刻ではない。

 せり上がった名を喉奥でのみ込み、彼は静かに背筋を伸ばした。


 東洋は視線を座の全員に渡した。

「――よい。浦ノ内へ迎えよう。ただし今宵はここまでじゃ。夜に山を動かすは漏れのもと。明朝、辰の刻に発て。昌造はよろずの世話役、良輔は段取りと口上書、竜馬は人足と舟の手配、退助は見張りと普請の見分、藤兵衛は図に“息”を入れ写しを用意せよ。……皆で“橋”を渡る。」

 その言葉に、四人が声を揃えて「ははっ」と答える。


 東洋はふと、背後の庭に目を遣った。

 竹の影が長く伸びる。長浜の夕暮れは未だ早い。


 その影の向こうに、五台山の稜線が薄く見える。山の向こうに――少林山雪蹊せっけい寺。長宗我部元親公の菩提寺であり、この塾が“少林塾”と称される由縁。


 そして岡豊山は、かつて長宗我部の居城であった。

 吉田東洋――名乗りは山内の臣なれど、まぎれもなく長宗我部旧臣・吉田家の血を引く者。


 上士と下士。

 山内と長宗我部。


 乾退助は山内の嫡流に連なり、後藤良輔もまた馬廻格の家。対して、朝倉藤兵衛、淡輪治郎兵衛――郷士・下士の系譜。


 そして今、岡豊山から“万象”を名乗る女が来た。


 東洋は、心の内に形のない橋を見た。

 片岸は山内、片岸は長宗我部。川底には幾多の遺恨が眠る。


 だが、その上に橋は架けられる。

 上に立つ者が意を決し、恨みを一度呑みこみ、力ではなく理で渡るなら。

 己はその橋板の一本となり、梁の一本となろう。


(苛烈のみでは、人はついて来ぬ。ことわりなさけを合わせ、両の岸を繋ぐのが、わしの役目よ)


 東洋は、胸のうちでそう言葉にした。声には出さない。だが、その静かな決意が、瞳の奥に小さく灯る。


 万象――いや、“よろず”。

 この女の名は、山中の闇に隠れてこそ生きる名ではない。

 だが今は、伏せて働かせる。浦ノ内の蔭に。その蔭で、歯を合わせ、息を合わせ、力を散らし、力を集める。


 東洋は座を解きながら、万に向かってひとことだけ告げた。

「浦ノ内は口の狭い、竜の喉奥じゃ。よく見え、よく聴き、そして――よく、隠れよ」


「承知いたしました」

 万は、ほんの僅か首を垂れた。その仕草に、女の柔らかさにはない、淡い意志の温度が宿る。


 座敷を出ると、庭の風が冷たかった。

 竜馬が鼻歌をうたい、退助がまだ右手を揉み、良輔が段取りの帳面を開く。昌造は歯車を包みに戻し、藤兵衛は図面を抱え、万は何も持たずに静かに歩いた。


 西の光は薄く、東の影は長く。

 その影その影を踏んで、一行の足並みはそろった。


 こうして――“名”を伏せ、“”を合わせる者が、土佐にひとり増えた。


 湾の奥で待つ鳴龍丸は、まだ骨のまま。

 だが、ひとつの歯車が噛み、もうひとつが回り始めるとき、止まっていた仕掛けは、たやすく動きだす。


 静かな座で取り交わされた幾つかの言葉が、やがて木々の間を抜け、潮の匂いのする舟渠に届く――その時を待ちながら。

挿絵(By みてみん)


参考文献:『南路志』、『土地分類基本調査簿第61号地形各論 高知(経済企画庁

1666)』




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ