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第十九話 交剣静かにして熱し

 道場には、夕餉前の静けさが降りていた。打ち込み台の縄は乾いて軋み、榧の床は幾度の稽古でつやを帯び、微かな油の香を返す。開け放った戸から春の末の風が差し、障子の桟が朱に染まる。


 退助は一歩退いて息を整え、藤兵衛の竹刀が“どこに在るか”を測り直した。

(面を見せちゃあせん。剣先の狙いは表にあるけんど、気は懐へ沈めちゅう――)


 先ほどの打ち合いで悟った。正面から圧をかければ、刃を受け止めず、吸って外す。受け太刀の形に見えて、実は受けの芯を外し、こちらの力の流れを“欠けさせる”。

(ただの受け流しとは違う。風の筋を読む……そんな按配ぜよ)


 一度、呼気を長く吐いて胸を空にする。英信の立ち、呑敵の寄せ。足裏の指で床をつかみ、視線を剣先ではなく相手の帯の結び目へ。帯がわずかに膨らみ、沈む。

(今じゃ――)


「ヤァッ!」


 一拍、気合を遅らせて踏み込んだ。気で牽いて、身で詰める。上段の気配を見せておいて、実は中段のまま“間”を殺し、面の線から胴へと落とす。


 竹が鳴り、打突の線が滑る――が、そこで“空”になった。


 藤兵衛は、わずか半足だけ右へ。竹刀の根元で退助の刃筋を柔く受け、柄ごと泳がせる。肩は揺れない。足は床に吸い付いたまま、腰だけが円を描いてずれた。

(なんじゃ……?)


 内心に、微かな驚きが走る。やはり今まで相対したどの者とも違う。打てば、打点が消える。寄せれば、足下がぬかるむ。

(まるで矢を避ける鳥のごとし……いや、矢を“先に読んじゅう”。)


 剣を押さえ込まず、すぐさま体を返す。気を切らずに第二の拍子。返す刀で小手へ――そこへ、藤兵衛の竹が“置かれていた”。


 打たれにくるのではなく、こちらの線の先に先回りして、竹の節を“触れさせる”。

 指先に小さな擦過が伝わっただけで、退助の打ちは止められていた。手首の内へ、見えない“輪”が嵌まったような感覚。

(いかん、引き付けすぎた――)


 腕を固めず、肩から緩めて引く。硬く返せばからめ取られる。英信の理合いが、身を助ける。

 鋭い間合いが消え、二人はすっと離れた。息は荒くないが、胸の内だけが熱い。


「……たいしたもんじゃ」

 退助は笑みを浮かべた。怖気ではない。未知に触れた昂ぶりだった。


 再び二人は寄る。今度は退助が先を取らない。わずかに遅らせ、藤兵衛の“置き”の拍子を盗む。

(藤兵衛の剣は、せんを消す。ならばこちらは、先の“先”を切るがじゃ。)


 片足で床を擦るように半歩。剣先はそのまま、腰で右へ滑る。藤兵衛の構えが、それにつられて薄く開いた。

(今!)


 面と見せかけて、柄を押し込み、間を詰める。竹刀の有効距離を潰し、組太刀へ――


 藤兵衛の瞳が、ほんの瞬きほど揺れたように見えた。次の刹那、退助の手元に“水”が流れ込む。

 柄を押したはずの空間が、すっと沈み、竹刀の柄は輪を描いて脇へ落ちた。

(円で受けて、円で返す――!)


 退助は身体を切り替え、組打ちへ移る。右手を離して胸板を押し、左で藤兵衛の手首を取る。足はすでに二の足。相手の懐の外へ股を差し入れ、腰で“枕”を作る。呑敵流で習った崩しの理、受けに見せて実は攻め。

 ――だが。


 藤兵衛の腰が、石のようでもあり、布のようでもある“不思議な硬さ”で沈んだ。

 退助の手から手首が逃げる。切るのでなく、滑る。肩の力が入った瞬間だけを狙って、逆へ“回され”ている。

(力を使っておらん。わしの力の“向き”を、勝手に替えられゆう――)


 退助は強引に投げず、体を密着させて絡める選択へ切り替えた。

 左足で相手の足を外から軽く払う。右肘で相手の肋を抑え、肩を落として重心をずらす――はずが、藤兵衛の肩はすでに“落ちて”いる。

 重心の芯は退助の外へ。肩を落とす前に、落ちていた。

(先に置かれちゅうがは、太刀だけやない。体の芯も“置いちゅう”がか!)


 竹刀が用をなさぬ距離。二人の呼吸がふと揃う。

 右の手を柄から離し、藤兵衛の襟元――ではなく鎖骨の下、胸の柔いところへ指先を置いた。押すのでも掴むのでもない。“置く”。


 胸骨の動きが一息ぶん止まる。

(これで半拍はもろうた――)


 だが、藤兵衛はわずかに顎を引き、同じ“置き”で退助の肘を止めた。肘が浮けば、人は崩れる。その浮きを、先に止められた。

(いける――!)


 床がきしむ。両者ともに“投げ筋”に入ったが、決めはしない。

 己の肩口に、相手の額がほんの紙一重で触れもしない位置にあるのを感じる。ここで押せば首筋が詰まる。だが、押さない。


 互いに、互いの“命”を握る入口には立った。だが、扉は開かない。

 開けば終わる。終われば、読み合いが途絶える。


「はッ――!」


 退助は一度だけ、真下へ踏みつけて体を離した。藤兵衛も同じく、円を描くように後ろへ一歩退く。

 二人の間に、竹刀一本半の静けさが戻った。


 汗は少し。息はまだ整っている。

 だが、胸の内は熱く、静かだ。

(……たまるか。剣でも組でも、拍子が“先へ先へ”と滑る)


 退助は竹刀を胸の高さに据え、わずかに笑った。

「いっぺん、静かに行こうや。次で決めるがよ」


 藤兵衛も頷く。

 二人の足が、ほぼ同時に、半歩ずつ前へ出た。

 風が戸の隙間から入り、障子の紙をわずかに鳴らす。


 退助は“先”を見せぬ。面の線を匂わせておいて、剣先は中空に浮かせたまま。

 藤兵衛は“置く”。退助の打突線の“手前”に、もう竹刀が在るように。


 空間に二本の細い糸が張られ、その交差点へ、二人の気が収束する。


 一拍。二拍。

 ――三拍目の寸前。


 英信の歩法で、膝をふっと緩めて重心を沈めた。面の気を保ったまま、狙いは突き。


 藤兵衛の竹刀が、そこへ“あった”。

 刹那、指の内で竹刀が鳴き、退助の突きは柔らかく脇へ外れる――はずが、外れる途中で、退助の竹刀が“返った”。

(見切った!)


 竹のしなりが戻る瞬間、退助は手の内を絞り、外された線を逆手にとって小手へ。

が、藤兵衛の左足が床を“撫でた”。風の向きを替えるように。


 退助の小手の線が、空気ごとすべって外へこぼれ――


 同時。

 藤兵衛の竹刀が、退助の面に“触れた”。

 退助の竹刀も、藤兵衛の胴に“触れた”。


「……っ」

「……ふっ」


 ほんの紙一重。どちらも、力を込めれば「手附」になり得た。

 だが、込めなかった。

 二人とも、打突の刹那に“刃”を抜いた。拍子が同時に立ったと知ったからだ。


 退助は竹刀を引き、深く息を吐いた。そして、不意に笑い声を漏らす。

「――これは、つけがたいのう。いまのは、どちらも“よう当てた”が、どちらも“斬らんかった”」


 藤兵衛も、竹を下ろして微笑んだ。

い申した。……引き分けじゃな」


 静寂。

 外から子供らのはしゃぐ声が遠く過ぎ、松の梢が冬空で鳴る。


 退助は竹刀を納め、掌をさする。


 指先には、さっきの“見えぬ輪”の感触がかすかに残っていた。

(あれはわざやないのう。理合いが身についちゅうがじゃ――なるほど、土佐では見ん動きじゃ。けあり流ち一体なんなら…)


「藤兵衛」

 退助は真顔で言った。

「おまんの“置き”は、風を待つ鳥みたいじゃ。わしが先を出したつもりでも、そこに“もうおる”。……まっこと愉快じゃ」


 藤兵衛は軽く会釈した。

「いのすも、詰めてからの速さは見事じゃ。先を切るがは、わしの苦手なところよ」


 互いに息を整え、竹刀を壁際へ戻す。

 手拭いで掌を拭いながら、退助はふと天井を仰いだ。


 胸のざわめきは、戦の昂ぶりというより、未知を前にした嬉しさに近い。

(まだまだのぼれる。剣も、政も。……この男となら、上を見れる)


 道場の戸を開けると、冷たい風が二人の汗を攫っていった。

 廊下の向こう、少林塾の庭へ差す西陽が傾き、竹の影が長く伸びる。


「さて、に戻るか」

 藤兵衛が笑うと、退助は肩をすくめた。

「おう。けんど、今日はよう寝られそうぜよ。明日はもっと打とうや」


 二人が板の間を渡り、塾の書院へ戻ろうとしたその頃――

 門前で草鞋の音がせわしく鳴った。


「おーい! んたぞ藤兵衛!」

 弾む声。竜馬だ。


「東洋先生もおるかえ! 見せたい御仁を連れてきちゅう!」

 退助と藤兵衛が顔を見合わせる。


 竜馬の背後、良輔の肩越しに、旅装を簡素に整えた女の姿が見えた。


 どこか人ならぬ静けさをまとったその面差しを見て、藤兵衛は無意識に息を呑んだ。

 稽古の熱、その余韻のままに、吹く風が戸口の紙がわずかに鳴らし、傾く西日にその影が長く伸びた。

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