第一話 勝浦浜
世界名
五十四番目の世界。
銀河名
第四銀河。
惑星名
第三惑星。
島名
秋津洲。
国名
土佐国。
地名
勝浦浜
時刻
申下刻
白光が徐々にその色を緋色に変え、唐突に消えた。急激に意識が引き戻され、目を開けると視界には差し込む夕陽に染まる青い水平線。しかし、それらの風景はどこか色を失っていた。
砂の感触――冷たく湿った砂の上に、全身を横たえている。腕を動かすと、刺すように冷たい浜風が頬を撫で、乾いた塩の匂いが鼻をくすぐった。
ああ、ここは……。
脳裏に浮かぶのは、白く輝く塔の内部、バラ・クーヴァの幻視、仲間たちの顔。再び目を閉じれば、戦いと滅びの記憶が押し寄せ、目を開ければ、目の前には静かな波の音――間違いなく故郷の大海原があった。
藤兵衛はゆっくりと立ち上がり、足元の砂を踏みしめた。手に行李はない。あれだけ大切にしていたオラゾで集めた交易品は何も持ち帰ることはできなかったのか――。まるで胡蝶の夢のようだと、胸の奥で思う。
しかし、あたりを見回して違和感を覚える。足元に散らばるのは、流木と瓦礫。普段なら白砂青松の美しい五色の浜が、一変していた。
波打ち際には、壊れた漁具や破れた船体の破片が打ち上げられ、濁った水が小さな砂州を作っていた。海面はいつもより低く、潮の香りに混じって、遠くから焦げた匂いがかすかに漂う。海岸に連なる松林はその多くがなぎ倒され、見るも無残な姿をさらしていた。
藤兵衛は思わず、歩みを止める。異界の記憶が夢でないのだとしたら、あの五年間に何かが、この浜を変えてしまったのだ。
頭を振る。思い出せない。浜を歩いていたとき、意識が急に遠き、気づけば異界の草原に立ち尽くしていた。ただ、記憶の底に、大波に巻かれたような、もがく感触だけが残っている。
ふと声がかかった。
「おんし、そんなところでなにしゆう。危ないき、こっちへ来いや!」
振り返ると、漁師の男が浜に打ち上げられた船の破片を片付けながら、こちらに手を振っていた。日焼けした顔に横から射す夕陽が深い皺を刻んでいる。藤兵衛は一瞬、言葉に詰まった。
「またいつ大揺れがおきて大波が来るか分からんぞ。早う、浜から離れや」
漁師は手を止め、険しい表情で海を見やった。
オラゾに飛ばされた際の記憶は思い起こせないが、大揺れ――地震が起きたのだ。浜を歩き、波に飲まれて意識を失ったその時に、世界はひっくり返ったのかもしれない。
楽助たちと同じ原因でオラゾに飛ばされたのか……。どこか腑に落ちたような安堵感がよぎるも、それはすぐに不安に変わる。
確か、あの日は安政元年の十一月五日であった。漁師の言いぶりでは地震があったのはつい先ほどのことではない様子だったが、五年もの月日が経っているようには思えなかった。
ここは素直に聞くべきか。藤兵衛は、異界で暮らすうちに遠のいていた国言葉を、かすかに思い出すように口にした。その響きは、わずかにぎこちなく自分の耳にも異国の言葉のように聞こえた。
「実は、先ほど浜で目が覚めて、記憶が定かでないがじゃ。おかしなことを聞くかもしれんが…、今は何年の何月何日ながじゃ?」
近づいてきた藤兵衛の恰好を検めて、武士だと気づいた漁師は怪訝な表情で首を傾げた後、急に口調を変えた。
「今日は安政元年の十一月十二日でございますけんど…、まさかお侍さん、大波にさらわれて七日も寒い海をさまよいよったがかえ!?」
藤兵衛は驚きのあまり言葉を失った。向こうの世界での五年間が、現世ではたったの七日しか経っていなかったのだ。
「陸に戻って来れたのは、よっぽど運がようございましたのう。浦戸じゃ、山に逃げ遅れて人も船もようけ流されたき……」
「……そうか……」
藤兵衛はつぶやき、浜を見渡す。壊れた漁村の瓦屋根と斜めに倒れた多くの木造船が、夕陽に照らされて陰鬱な影を砂上に伸ばしていた。
砂を踏みしめながら、波にえぐられて崩れた砂浜を見つめ、五年前、いや、ほんの数日前まで見ていたはずの、月の名所と詠われた美しい五色の浜の景色を頭に浮かべた。
「大変な時に還ってきたもんじゃ……」
小さくつぶやき、藤兵衛は瓦礫を避けながら浜を離れる。背中には、オラゾで学んだすべてが、五年分の経験が重くのしかかる。
しかし、行李も品物も持たずとも、五感に刻まれた知識と覚悟だけは確かに手元にある。
足元の砂の感触に現実を噛みしめ、藤兵衛は海辺を離れ、竜王岬の高台へと向かった。
異世界での仲間や出来事を思い出しながら、今、己はここに在る――その確かさを胸に、砂塵の匂いと海風を吸い込む。
やがて浜を見下ろす岬の頂に立ち、振り返って北の方角を向くと、眼下に旧浦戸城の崩れかけた石垣が苔むして残り、その向こうに広がる高知城下の姿が望めた。
かつて整然と並んでいたはずの瓦屋根はあちこちで崩れ、下町の一帯は黒々とした焼け跡に変わり果てている。ところどころで炊き出しの煙が白く立ちのぼり、瓦礫の間に人々の小さな群れが見えては消えた。仮小屋や掘っ立て小屋が急ごしらえで建てられているのも見て取れる。
城に近い上町は大火を免れたようで、屋根の連なりはまだ保たれていたが、それでも倒壊した家屋が点々とし、赤茶けた土壁が剥き出しになった箇所もあった。所々に黒ずんだ焼痕が散り、地震と火災の爪痕を物語っている。
城下の中央、天守のある高知城はかろうじてその威容を留めていたが、周囲の武家屋敷や町並みには崩れた塀や折れた門柱が目立ち、全体としてかつての活気は失われ、静まり返った廃墟のように見えた。
「……朝倉の家屋敷が無事じゃとよいが……」
藤兵衛は小さく唇を結ぶ。
長い旅の始まりのような、この瞬間の心の静けさに、少しだけ安堵を覚えながらも、未来の覚悟を胸に刻み込むのだった。
作中の日時の表記は当時使用していた天保暦(太陰暦)で統一しています。安政南海地震の発生は天保暦では安政元年11月5日ですが、現在のグレゴリオ暦(太陽暦)では1854年12月23日になります。
参考文献:『土陽誌』、『南路志』、『高知城下之 図』、『皆山集』、『白湾藻』、津波工学研究報告第39号(2022)安政南海地震(1854Ⅻ24)の津波と高知市街地の火災について