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第十八話 “氣有理流”

 少林塾の一隅。障子越しの陽が薄くゆれ、紙机の上には鳴龍丸の図面が幾枚も広げられていた。墨の線は重なり、削り、また書き足されて、どこか焦燥の気配を帯びている。


 藤兵衛は筆を止め、肘をついて図面に額を寄せた。双胴を繋ぐ梁の角度、ともに据える螺旋羽根の案――どの線も、決め切れぬ逡巡の跡を残していた。


 そこへ、廊下を渡る足音。開いた障子の向こうから、ひょいと顔をのぞかせたのは乾退助だった。肩に木刀袋を担ぎ、いつもの快活な笑み。


「おお、藤兵衛。まだ図面と組手しゆうがか。――ちくと手を休めて、わしと手合わせしてくれんか」


 不意の誘いに藤兵衛は目を瞬かせた。

「なんじゃ、“いのす”か。手合わせゆうたら……道場でかえ?」

「そうじゃそうじゃ。頭ばっかり使いよったら、鬱屈がこびりつく。躰を振れば風が通るきに。えいじゃいか、ちっくと打ち合おうや」


 退助は言うがはやいか、へやの端の木刀袋を軽く叩いて見せた。からり、と乾いた音がして、藤兵衛の胸の奥で何かがほどける。

「……よかろう。わしも、筆を置く頃合いかもしれん」


 二人は図面を丁寧に重ね、文机を片付けると、塾に隣接した道場へ向かった。

 西日が障子を朱に染め、桟の影が長く伸びる。春の名残る風はやわらかいが、日脚の衰えとともに肌にうっすらと冷えが戻ってくる。板張りの廊下を踏むたび、油と汗を吸った木がほの甘い匂いを返し、舞い上がった微かな塵が夕光に金粉のように揺れた。庭では鶯の声が遠のき、入れ替わるように烏の帰る羽音と寺の暮鐘がかすかに届く。


 土間を抜け、戸を開けば、打ち込みの痕が幾筋も走る床板と、壁に掛けられた袋竹刀ふくろしないが整然と並んでいた。柱には古い刃留めの傷が幾筋も走り、床板の一隅は踏み込みに磨かれて艶が出ている。使い込まれた面の布には潮の白い跡がまだらに残り、幾度もの稽古の熱がそこに閉じ込められていた。


 退助は手際よく竹刀を一本取り、藤兵衛へ放る。鹿革の袋で覆われた竹は、握ると適度な弾力を返す。柄は掌に吸い付き、革紐の結び目が指の節に触れて位置を教える。振り上げる前から芯の通りが掌中に立ち、先の軽重が、無言で重心を告げた。


めんは付けんで。目もとに気をつける約束でえいろう」

「承知。組太刀くみたちもあるか?」

「流れで組むがも一興じゃ」


 軽く礼を交わし、二人は二間ほどの間合いで向かい合った。

 柄は掌に吸い付き、革紐の結び目が指の節に触れて位置を教える。振り上げる前から芯の通りが掌中に立ち、先の軽重が、無言で重心を告げた。


 退助の足がすっと開かれる。右足の親指が床板をつまみ、踵は地を離れぬまま、わずかに膝裏の腱を立てる。肩は下がり、肘は浮かさず、刃先だけが柳の新芽のように揺らいで気配を探った。剣先はやや高く、構えは一刀流系。打ち気を隠しつつ、体幹には躊躇のないまっすぐさが宿っている。


 藤兵衛は、呼吸をひとつ落とした。

 人の気配と対座する、この一瞬――「相手の息と自らの息が触れる」あの感覚が、久方ぶりに胸の底から立ち上がってくる。


 脳裏を、遠い異界の景色がかすめた。


 鳥人シギと竜人ウドゥン。三年前、異界で中央管理塔リオアンハールを辞した後、二人の“最後”――忘却の審判レザ・シンブクを語るべく、藤兵衛は彼らの集落へ向かった。

 神話へと還った英雄たちの最後を見送った者として歓待を受けた藤兵衛が、見返りに求めたのは彼らの魂、ケァリの武技であった。


 ――リンガ。

 風の通り道のような谷の集落で、三つの眼をもつ鳥人二アールの射手たちが、彼に「風を見る稽古」を授けてくれた。矢は放たれた刹那に「音」を残し、羽の微かな震えが空気の筋を描く。彼らは矢を目で追わず、空間そのものの歪みを先に読む。足の裏で地の傾きを感じ、頬をかすめる微風の転じ方で、次の一手を決める術――。


 ――ヤンカロア。

 赤い門の町で、竜人クネードの戦士たちが、巨大な体躯でなお「受け流す」ことの強さを教えた。真向から打てば折れる。力は円に沿って逸らし、骨で受けずに躰で逃がす。握られれば関節を切り、押されれば軸をずらし、倒れれば絡め取る。彼らは石のように硬いが、同時に、蛇のようにしなやかであった。

 

「太刀数は十合じゅうごう。先に一本、明らかな手附てづけを取った方を勝ちとしてどうじゃ」

 藤兵衛の申し出に退助がにやりと笑う。


「よっしゃ――手加減は、せんきにゃあ!」

 退助が一歩、床を踏み鳴らした。堂内の空気がきりりと張る。


 だが――藤兵衛の内心は凪いでいた。

(気迫は充分……じゃが、まだ軽い)


 思い出すのは、ヤンカロアの土煙の中で相対した、背丈七尺近いクネードの戦士。岩崩れのようなときとともに槍の穂が空を裂いた。踏み鳴らすたびに土そのものが鳴り、皮膚の下で骨が共鳴する――あの圧に比べれば、退助の気はまだ若く、研ぎ澄ましの途上にあった。


 退助はさらに一歩、踏み込んで初太刀の間へと入る。


 藤兵衛はわずかに下段へ剣先を落とす。相手の気を吸い、こちらの気を消す。剣先を見ず、肩の線を見、腰の帯の結び目の呼吸を見る。


 退助の肩がほんのり沈んだ。剣先が揺れ、間が詰まる。


 リンガで覚えた「風を見る癖」が、自然と躰に灯る。藤兵衛は両足裏の皮膚が床のわずかな反りを拾うのを感じ、鼻先をかすめる風の筋を読んだ。

 右の柱間から微かな吸い風、左の明かり取り越しに戻り風。埃の粒が描く弧が刃の軌を先に示す。藤兵衛は踵の芯だけを一分ほど送って、気の線を半身の内へ引き込んだ。


 ――来る。


「ヤアァッ―!!」


 その瞬間、道場の戸口から風が吹き込み、かやの床が微かに鳴った。


 藤兵衛は視界の隅で、埃の粒が漂う軌跡を捉える。矢を受けた稽古のときと同じだ。矢は目で追わぬ。空気の筋が先に告げる。


 矢のような踏み込み。刃先が線になって伸びる。藤兵衛は竹刀の手の内を緩め、刃筋を半分ほど外して受けると、足を半歩だけずらし、同時に竹刀の根元で退助の竹刀を“吸う”ように包み込んだ。気勢は殺さず、ただ方向だけを欠けさせる。


 空を裂く音が横へ逸れ、退助の肩がわずかに泳ぐ。


「……ッ!」


 退助はすぐさま体勢を立て直し、左手を絞って打突線を修正、胴へ転じる。藤兵衛は腰を沈め、膝の緩急で間をわずかに“遅らせ”、退助の刃先が来る前に己の竹刀を相手の中段へ“置く”。

 刃先と刃先が触れた瞬間、指先の中で竹の節が鳴き、か細い震えが掌へ伝わった。


「頭ばっかし使いゆうき、剣はまったいと思うちょったけんど、中々やるじゃいか。けんど、今のは一本にはならんのう!」

 退助が笑う。その声は明るく、負けん気がよく滲む。言いながら退助は、刃先をわずかに遊ばせて中段を締める。


「いのすもやるのう。――何を習いゆうがな?」

無雙直傳むそうじきでん英信流えいしんりゅうじゃ。呑敵流どんてきりゅうもやりゆうぞ」


 藤兵衛はその名を聞いた途端、土佐の剣の系譜が脳裏に鮮やかに開いた。


 無雙直傳英信流――戦国の剣豪、林崎甚助を太祖とする土佐に伝わる居合の流派。座からの抜き付け、立膝からの一刀、切り下しと残心までを一拍のうちに収める“間の術”。刃を抜くより先に、心を抜く。一足一刀の間合いを刹那に詰め、抜き・斬り・収めを連綿とつなぐその理合は、竹刀の稽古であれど、初発の出足と刃筋の通りに色濃く残っていた。


 呑敵流――最古の柔術、竹内流の流れを汲む土佐に古く伝わる兵法筋で、押し潰すより、呑み込むの意を旨とする。打太刀・仕太刀の組太刀では、まっすぐの一線でし、相手の働きを呑み消すように先を取る。剣だけでなく、当身・組討ちの理も併せ持ち、詰めれば襟袖・肘肩に絡めて崩す――退助の踏み声に、そうした地に足のついた剛直ごうちょくがあった。


(なるほど……初発の出、刃筋の通り、英信流の間。詰めた後の寄せ、呑敵の先。土佐らしい取り合わせよ)

 藤兵衛は、ふっと息を細く吐いた。


 剣先をまた僅かに沈めた退助は藤兵衛の構えを見つめ、問い返す。

「……藤兵衛の剣筋は今まで相手しよった誰とも違うようじゃ。流派はなんなら?」


「そうじゃのう――強いていうたら、“氣有理けあり流”じゃ!」

「けあり? ――なんなそら、聞いたこともないのう!」


 退助は口の端で笑いながらも、足裏で床の反りを量り、視線だけは冗談を捨てて剣へ戻した。


 つま先が半紙一枚ぶんだけ前へ滑る。肩の力を落とし、腰の坐りを深くする。視界は藤兵衛の刃先ではなく、鎖骨の付け根と帯の結びの呼吸へ――次の拍に動く場所だけを見据えた。

【オラゾ用語解説】

◎28番目の世界[CHEARI]

 ケァリ。二アールとクネードという二種族の戦乱が数十世紀に渡って続き、ついに滅びた世界。

 その本質は概念化したアシラの幻視「滅びと再生が永遠に繰り返される世界」


参考文献:『土佐史談 第15号・英信流居合術と板垣伯』『武術資料拾遺 長谷川流兵法剱術圖法師巻』

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