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第十五話 暗礁

 安政三年正月。

 浦ノ内の奥は霜をかぶった朝霧に沈み、白い靄の向こうから木槌の音が響いていた。

 舟渠が完成してひと月。そこでは土佐初の蒸汽船「鳴龍丸」の建造が始まり、幾十もの職人が作業に取りかかっていた。



「足るばあはりたわんじゅう! もう一遍いっぺん、締め直しじゃ!」

 治郎兵衛の叱声が、舟渠に反響した。


 双胴船をつなぐ連結梁は、選りすぐった檜を束ね、その上から鉄帯を何重にも巻いていた。だが、船体を仮組みしてみると、梁はかすかに歪みを見せ、組んだはずの直線はわずかにねじれていた。波に叩かれれば、折損は免れぬ――職人たちの顔には、誰ともなく不安の影が差した。


 藤兵衛は梁の上に足を掛け、ゆっくりと歩を進めた。踏み込むたび、足裏に微かな撓みが伝わり、腹の底がひやりと冷える。


 ――応力、ねじれ、負荷。

イオネムの賢者が水中都市で語っていた言葉が脳裏をよぎる。だがそれを数式に落とす術も、理解を職人に伝える術も持たぬ。


「結局は……木の癖と、職人の勘に任せるしかないがか」

 彼は苦々しく呟いた。


 実際、問題は山積していた。まず、梁の材質。檜は強靭であるが、一本ごとに「癖」がある。年輪の偏りや乾燥の度合いで撓み方が異なるため、複数本を束ねても完全な直線は得られない。そこに鉄帯を巻けば強度は増すが、逆に木の自然な伸縮を殺してしまい、衝撃が一点に集まって割れる危険もあった。


 さらに、ねじれ応力の問題。双胴船は片側の船体が波に乗り、もう一方が波間に沈むことが常である。その瞬間、左右の船体には異なる揺れが加わり、梁全体が斜めに引き裂かれるような力を受ける。職人たちが実際に梁を叩き据えても、やがて「ギィ」と軋む音が生まれた。


「鉄の帯を増したら持ちやせんかのう……」

 誰かが呟いたが、別の者が首を振った。

「いや、固めすぎれば逆に脆うなる。しなる分を残さんと、大波でちゃがまるぞ」


 和船の梁は「柔らかさ」で衝撃を逃がすのが常識であった。しかし蒸汽船は機関を中央に据える。重量と振動は梁に直撃し、従来の柔構造では到底もたない。かといって洋式帆船のように鉄を大量に使うだけの資源も技術もなく、ここに土佐の船大工たちは立ち往生した。


(この梁のままでは、鳴龍丸は海に出た瞬間に折れるかもしれん)

 治郎兵衛は額の汗を拭い、低く吐き捨てた。彼は幾度も木組みに挑んだが、どうしても納得のいく形に収まらぬ。


 藤兵衛は梁の上に腰を下ろし、海の匂いを含んだ風を吸い込んだ。

 ――イオネムの賢者は言っていた。海の底の都市の舟は、梁を単なる「棒」ではなく「架け橋」として作ると。荷を支えるだけでなく、揺れを逃がす仕掛けを持たせておった。だが、それをどう形にすればよいのか。

 彼の胸に去来したのは、答えのない問いだった。


 職人たちの試行錯誤は続いた。梁をさらに太くすれば、今度は重量が増し、浮力との釣り合いが崩れる。細くすれば撓み、鉄を足せば木が割れる。どの道を選んでも、新たな問題が口を開けるばかりだった。




 続いて問題となったのは、「螺旋羽根」――船を進ませるための装置であった。

 藤兵衛の脳裏には、あのオラゾの水中都市エオルギアで見た幻影が焼きついている。青く透きとおる海中を、魚のように静かに進む船。その尾に巻きつくような螺旋が水を掻き、泡を残して進んでいった。


 ――あれが鍵じゃ。

 そう確信していたが、その形も角度も曖昧であった。


「水を押すより、巻き込んで進ませる……たぶん、そんな仕掛けじゃ」

 彼は紙に螺旋を描きながら呟いた。


 昌造は木工職人を呼び、小さな木製の羽根を彫らせた。桶に沈め、人力で回してみる。だが水は激しく逆巻き、泡ばかりが立ち上る。


「前に進むどころか、水が暴れゆうだけじゃ」

 治郎兵衛が眉をひそめ、桶の中を覗き込む。

「角度をもう少し寝かせてみたらどうじゃ?」

 角度を変え、羽根の幅を細くし、曲率を増やして試す。だが今度は水が真横に跳ね、船を押し進める力にはならなかった。


 藤兵衛は桶を見つめ、拳を握った。エオルギアの螺旋は、確かに水を“引き込む”ように動いていた。しかし、その理を形にする術を、彼は持っていなかった。

やがて、構造の問題が浮かび上がった。


 桶で使う木製の羽根はせいぜい一尺。だが、鳴龍丸に必要なのは直径八尺(約二・四メートル)の鉄製螺旋である。これほどのものを鍛造できる炉など、土佐には存在しなかった。


「小さく試すことはできても、本物の大きさにすれば曲げも打ちも利かん。鉄が泣くきに」

 治郎兵衛の言葉は重かった。


 昌造は思案の末に言葉を紡いだ。

「羽根を幾片かに分ちて打ち、それを継ぎ合わすは如何いかがか。火を以て鉄を結び、形を成すことも叶うやもしれませぬ」


 試みはなされた。四枚に分けた鉄板を赤く焼き、曲げ、合わせ目を火で叩いて繋ぐ。しかし、冷めた途端にヒビが入った。ねじれが不均一で、力の流れが途切れる。


「ほら見い、境目が割れちゅう。これでは海の中で持たん」

 昌造が苦々しく舌打ちする。


 当時の鍛接では、八尺もの大型鋼材を均一に焼くことはほとんど不可能だった。炉の大きさにも限界があり、片側が赤くなる頃にはもう片側が冷めてしまう。溶接で繋げばさらに脆く、熱収縮の歪みで曲がってしまう。


「鉄は生き物じゃ。熱を誤れば、どんなに叩いても元には戻らん」

 治郎兵衛が呟いた。


 それでも一同は諦めなかった。木の型をもとに、砂型を用いた鋳造も試みた。だが螺旋形の曲面は複雑すぎ、砂型は崩れ、金属が流れ込む前に固まってしまう。


「結局、形はできても、力が伝わらん。羽根の根元が弱いきに、折れてしまうがじゃ」

 藤兵衛は欠けた羽根を手に取り、無言で見つめた。


 こうして試作は幾度も繰り返されたが、どれも実用に至らなかった。

 角度を立てれば水を掻くだけ。寝かせれば空回り。素材を変えても、形を変えても、前進する力は生まれない。


 ついには、鳴龍丸の設計図の上に、治郎兵衛が疲れたように筆を置いた。

段詰だんつんだぜよ……木では弱すぎ、鉄では打てん。……こればあは、わしらの手を越えちゅう」


 藤兵衛も言葉を失った。彼の知識は“構想”までであり、実際に形を作る術はない。

「形は見えちゅうのに、手が届かん……」


 結局、残された課題は三つに整理された。

 一つ、螺旋の角度と形状をどう決めるか。

 一つ、羽根の根元にかかる力をどう逃がすか。

 一つ、これほど大きな鉄材を正確に打てる鍛冶職人をどこで探すか。


「どれも、容易にはいきませぬな……」

 昌造が唸り、図面をたたむ。

 このとき、鳴龍丸の建造は、初めて明確に“壁”にぶつかっていた。




 二月、城下の静かな夕刻。

 未だ蟄居中の吉田東洋の屋敷に、一通の封が届けられた。封蝋には「山内家」の紋が刻まれている。


「……容堂公より、密かに意を伝えよとのことにございます」

 使者が低く頭を垂れ、封を置くと足早に去った。


 東洋は筆を止め、蝋を割った。

 ――「長崎に海軍伝習所を設け、阿蘭陀オランダ人教師を招く。蒸汽船の技を授けるゆえ、才ある者を派すべし」


「……幕府もついに、阿蘭陀の技を正面から学ばんとするか」

 東洋は目を細めた。


「長崎に海軍伝習所が開かれる。オランダ人教師が直々に蒸気船の技を授ける。――諸藩の中より、優れた藩士を選び留学させよ、との沙汰じゃ」


  塾の奥座敷には藤兵衛、治郎兵衛、昌造、退助、良輔が呼び出された。机の上には鳴龍丸の設計図。梁の角度を測った木札と、歪んだ螺旋羽根の模型が並んでいる。


「浦ノ内の造船は行き詰まり、梁も羽根もまだ形にならぬ。だがこの報は、我らにとって天の機会しおじゃ」


 梁は撓み、強度を上げれば船体は重くなる。螺旋羽根は形を成さず、試作は桶の中で泡を撒くだけ。

 異国から取り寄せた機関部品は、鎖国の制の中で輸送が滞り、長崎の出島から動かぬまま。


 もはや「試す」ことさえままならなかった。


「本物の技を得るためには行かねばならぬ。だが、浦ノ内を見捨てるわけにも参りませぬ」


 昌造が抑えた声で言う。

「だが行けば、この舟渠は止まり申す……それでも行くべきか」


 退助は黙して拳を握った。

阿蘭陀オランダの学問は必要じゃ。けんど、浦ノ内の船は誰が見張る。東洋先生が動けば、保守の連中が何を言うか分からん」


 良輔もまた沈思していた。

「材木転売で得た藩の金子も、今は江戸の復旧で手一杯。伝習所に人を出すとなれば、鳴龍丸への手当はさらに削られましょう」


 東洋は机の上の設計図に目を落とした。墨がにじみ、何度も書き足された線が重なっている。

「……道は、見えぬ。だが歩みを止めれば、土佐は永遠に“後れ藩”じゃ」



 その夜、東洋はひとり灯下で筆を取った。


「……道はひとつではない。わしらの知を以て、鳴龍丸を立たせねばならぬ」

 東洋の声が静かに響く中、皆の胸に“長崎”と“浦ノ内”という二つの道が重く横たわった。


「長崎留学の件、承知仕る」との返書をしたためながら、心の奥では別の策をめぐらせていた。

 ――誰か、浦ノ内を守りながら“異国の技”に通じる者はおらぬか。


 海軍伝習所の報は、確かに希望であった。

 だが同時に、鳴龍丸の造船は深い淀みの中へと沈みかけていた。

参考文献:『防衛研究所紀要』、『江戸東京博物館研究リポジトリ』、『近代造船の曙』

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