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第十四話 震鳴の刻

 安政二年九月。秋の終わりを告げる風が、浦ノ内の奥に吹き込み始めていた。


 山間から降りる朝霧が、入江を白く覆う。その霧を割って木槌の音が響く。現場には切り出したばかりの石材が運び込まれ、三十人ほどの近隣の村人や石職人が集まっていた。表向きは「浦ノ内港修繕」「水運改良」と称しながら、実際には舟渠しゅうきょ――密かに築かれる蒸汽船建造台の普請であった。


 その中心で声を張り上げていたのは、乾退助と後藤良輔。二人は吉田東洋の命を受け、初めて大規模な実務――舟渠普請の監督を任された。


 東洋に近い普請奉行を表に立てれば、保守派の目に触れ疑念を抱かせかねない。だが、名門上士の嫡子とはいえ、二人は若年ゆえに藩政の中枢ではまだ名が通っておらず、秘密裏の普請にはむしろうってつけの存在だった。


「梁をもっと右へ寄せい! 角度がずれちゅうぞ!」

 退助は頭巾を外し、汗に濡れた額を拭いながら怒鳴った。まだ二十歳前後の若武者に過ぎぬが、その目は真剣であった。


「はいっ、いま調整いたします!」

 職人が返事をし、楔を打ち直す。


 一方の良輔は、退助に比べれば声は柔らかかった。

「皆の衆、もう少しで合い申すきに……。楔を軽う打って調べて下さらんか。無理に叩くと木口が割れますき」

 その口調は土佐弁まじりの敬語で、職人たちも思わず笑みをこぼす。


「やす、おまんは人当たりがよすぎじゃ。わしが怒鳴りつけゆうみたいになるじゃいか」

 退助がぼそりと呟くと、良輔は照れくさそうに笑った。

「なにをいいゆう、いのすの声があるき皆も懸命に動くがじゃ。わしひとりやったら、ゆっくりになりすぎるろう」


 舟渠の石垣を組む作業は難航していた。浦ノ内湾の奥は泥の堆積が多く、基盤を固めるのに工夫を要した。

 藤兵衛は治郎兵衛とともに測量具を手に、杭の間を歩き回った。足元で柔らかな地面が水を含んで揺れるたび、藤兵衛は杭の具合と周囲の潮の流れを注意深く観察した。彼は観察から得た自分なりの考えを胸に秘め、治郎兵衛の長年の経験と職人たちの勘を尊重しながら作業を進めていった。


「潮の干満を読んで石を置くがじゃ。大潮に合わせて沈めちょったら、自然に締まるがよ」

 治郎兵衛がそう言うと、藤兵衛は深くうなずいた。

「――この地のことわりに従うがが、一番の策かもしれんのう」



 こうして数十日の普請を経て、湾奥の木立に囲まれた小さな浜に、ついに舟渠の基礎が姿を現した。掘り上げ式の槽は石垣で固められ、潮の干満に合わせて柵を外せば海水が流れ込み、閉じれば水を汲み出せる仕組みである。


 陸路は鬱蒼とした峠の脇道ひと筋のみで、手前には簡素ながら堅固な門を設け、昼夜を分かたず門番を立てた。そこから先は「浦ノ内港修繕」のための資材置き場と称した広場に繋がり、その奥に舟渠への小径が口を開いていた。荷はまず資材置き場に積まれ、そこから選ばれた者の手で密かに舟渠へ運ばれていった。


 内海からは突き出した岬と鬱蒼たる木々の陰に遮られ、舟渠の姿は漁船からも、対岸の鳴無おとなし神社からも見通すことはできない。まるで竜の喉奥に潜むかのごときその地形は、密事を隠すにはこれ以上ない天恵であった。


 こうして「修繕」を名目に運び込まれた材木や石灰、鉄釘は、人目に触れることなく木立の奥へと運び込まれ、船体を隠しつつ風雨から守る舟渠の覆屋おおいやへと姿を変えていった。




 いよいよ舟渠が完成に近づいた頃、江戸から衝撃的な報が届いた。


 安政二年十月二日――江戸を直下から揺るがした大地震である。震源は相模・武蔵の境とされ、江戸市中は大きな被害を受け、倒壊家屋は十万戸を数え、火災は下谷から本所にかけて広がり、一面が火の海となった。


 土佐藩邸も例外ではなかった。芝三田の上屋敷は主屋の大半が潰れ、蔵も崩れて収蔵品の多くが失われた。


 この知らせはすぐに高知城下にもたらされ、藩庁は騒然となった。山内容堂は重臣たちを集め、対策を協議した。


「江戸の藩邸も大いに損じたと聞く。まずは修繕をせねばならぬ」


 重臣のひとりが憂えた声を上げる。

「左様にございます。中屋敷も長屋がことごとく傾き、死傷者は数十名にのぼったとの由」

 報告の声が座敷に沈むと、場はしばし重苦しい沈黙に包まれた。


 容堂は静かに盃を置き、ゆっくりと視線を上げる。


「取り急ぎ藩邸の再建に材木を手配せよ。……ただし、藩外に流す分は公儀に目を付けられぬ程度に量を絞れ。震災で江戸の木材の値は天井知らずじゃ。絞った分だけ高値で売れるろう。藩の金子と致せ」


「――ははっ」

 重臣たちの顔には驚きと同時に安堵が浮かぶ。彼らは若き藩主の神算鬼謀に感じ入り、深く深く頭を下げた。


 だが、容堂の言葉は巧みに飾られていた。


 実際、この時すでに土佐藩は例年の三倍近い量の材木を確保していた。対外的には「寅の大変による藩内の復興に必要」と説明しつつ、実際には出荷を制限し、市場価格をさらに高騰させる算段である。


(下士の朝倉……藤兵衛じゃったか。さすがは東洋先生よ。私塾での人材育成は上手くいきゆうようじゃ)

 容堂は心の中でほくそ笑んだ。


 藤兵衛は「寅の大変」の後、さらに大地震が連なることを確信していた。それはイオネムの賢者から授かった地のことわりによる。彼らは、海の底に走る震動は鎖のごとく連なり、ひとつの地震が遠き地にまで余の震えを及ぼすことを語っていた。


 その確証を得るため、古記録や暦学の断片をひもといた。南海道地震の折には東国に揺れが及び、また宝永の大地震の後には江戸に大火が広がった――記録は散逸し断片的ではあったが、天変の連鎖は否応なく浮かび上がってきた。


 彼はこれを蒸汽船建造の資金確保に利用する策を思いついたのだ。


 昌造と東洋の見立てでは、蒸汽船一隻の建造に必要な資金は、船材・鉄材・蒸気機関の部品・職人工賃を合わせておよそ二万五千両。これは藩財政にとって重荷であり、通常の手段ではとても捻出できぬ額であった。


 そのため、藤兵衛は震災による木材需要が爆発的に増え、価格が跳ね上がることを東洋に論理立てて説明し、土佐藩専売の木材のみならず、「寅の大変」の復興資材を名目に今のうちに他藩からも木材を買い占めるよう献策した。


 東洋を通じてこの策を伝えられた容堂は、最初こそ半信半疑であったが、山林方や御用商人を動員して木材を確保させた結果、江戸大震災後にはその価格が通常の三倍以上に高騰した。


(こやつの先見……只者ではない。じゃが、表に出せば怪しまれる。今は我が手柄として藩を動かすのみよ)


 この一件で、容堂の脳裏には「朝倉藤兵衛」の名が深く刻まれることとなった。


 かくして土佐藩は通常の数倍の値で材木を売り抜き、わずか数か月でおよそ七万両の利益を得た。


 そのうち二万五千両が容堂の肝いりで秘密裏に「鳴龍丸」建造の資金に回されることとなった。表向きは震災復旧のための臨時収入であるが、その裏では土佐の未来を賭けた船造りの糧となっていったのである。




 年の瀬、安政二年十二月三十一日。舟渠はついに完成した。


 退助と良輔は晴れやかな顔で普請監督の任を果たし、藤兵衛と治郎兵衛も、長き苦労の末の成果を目の当たりにして深く息をついた。


 寒風が吹きすさぶ浦ノ内の湾奥。木立に囲まれたその小さな浜は、今日ばかりは張り詰めた熱気に包まれていた。石垣の隙間から滲む水を桶で掻き出す者、木槌を振るい杭を調整する者、縄を手にひしめき合う者――皆の顔は疲労で赤らみながらも、どこか誇らしげであった。


 大潮に合わせて柵を外すと、海水がゆるやかに入り込み、舟渠が静かに満たされていく。潮の匂いとともに、かすかな泡が立ち上がり、石垣の隙間をくぐって水面がきらめいた。


 やがて、舟渠はまるで新しい命を宿す胎内のように、しずかに水を抱え込んだ。


「水が回り込んじゅう……よし、止めい!」

 退助が大声で叫ぶと、番人が柵を再び閉じた。


 その合図とともに、人々は綱を引き、仮組みの骨格を舟渠の奥へと滑り込ませた。檜と松で組まれたその骨は、まだ形こそ船とは呼べぬものの、見る者の胸に大きな未来を映し出した。


「鳴龍丸……」

 治郎兵衛は小さく呟き、縄を握る手にさらに力を込めた。


 海辺には松明がともされ、職人たちの顔を照らしている。漁村の者や山間から呼び寄せられた木挽き衆も加わり、互いに声を掛け合って力を合わせた。表向きは「浦ノ内港修繕」であるが、そこに集う者たちは皆、ただの修繕ではないことを知っていた。藩の未来をかけた、かつてない船造りの始まりであると。


「いよいよじゃ」

 東洋は口元を引き結んだ。冷えた潮風が頬を刺すのも意に介さず、彼の目は舟渠の奥に据えられた骨組みを鋭く見据えていた。


 その傍らで藤兵衛は静かに深呼吸をした。潮の匂いの奥に、かすかに油や鉄の匂いが漂ってくる気がする。蒸汽機関を載せ、海を走る船の姿を、彼は心の内に鮮やかに描いていた。


 しかし胸の奥では、次々と襲い来る困難の影が去来していた。


 ――双胴船の強度をどう確保するか。

 ――異国から取り寄せる機関部品は間に合うのか。

 ――木釘と鉄帯の組み合わせは果たして持ちこたえられるか。


 未来を知る彼でさえ、答えを持たぬ問いが山のように積み上がっていた。だが、その不安を押し殺すように、藤兵衛は一歩前へ踏み出し、骨組みの木肌に手を触れた。


 その指先に伝わる鼓動は、浦ノ内の山と海が一つとなり、新たな龍を育もうとしているかのようであった。

挿絵(By みてみん)


参考文献:『寺田志斎日記』『長崎幕末史料大成(三)手頭留』『安政期江戸における建築資材価格・職人人足賃金の統制策と都市社会』『東京木材問屋協同組合・江戸時代年表』

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