第十二話 「いのす」と「やす」
蒸汽船の披見より、およそ一月が経った――
夏の名残を残した陽射しが、少林塾の瓦屋根を金色に照らしていた。講堂の中では、先ほどまで異国の言葉が飛び交っていた。
蘭語――オランダ語である。
「本日の講義は、ここまでにて」
穏やかな声とともに一礼したのは、蒸汽船を披露したあの人――本木昌造であった。
実は彼の生業は工人ではない。長崎会所に勤めるオランダ通詞で、蘭館に出入りし、外国人と日常的に言葉を交わすことができる、当時では貴重な存在だった。
蒸汽船の造船指導のため、藩主・容堂の要請で一年ほど土佐に滞在することとなり、「ならば蘭語の講義もお願いしたい」と、吉田東洋が頼み込んだのである。
「蒸汽船の図面はすべて蘭語で記されておりますゆえ、諸君がこれを理解するには、まずこの言葉を知らねばなりませぬ」
微笑みながら語る昌造の顔には、異国と日ノ本をつなぐ架け橋としての誇りが浮かんでいた。
この日は、基本の発音から始まり、海軍用語、さらには西洋の砲術理論にまで講義が及んだ。塾生たちは熱気を帯び、真剣に耳を傾けている。
中でも話題をさらったのは、薩摩藩が桜島に造船所を築き、昨年末に西洋式軍艦を建造、そして今年正月には試運転を成功させたという報せであった。
「薩摩が先に軍艦を持ったとなれば、土佐も手をこまねいちゅうわけにはいかんぞ」
「うむ、異国船が沿岸をうろつく時代じゃ。国を守るには新しき軍艦が必要じゃ」
教室のあちこちでそんな囁きが交わされる。
藤兵衛はその声を静かに聞きながら、胸の内で別の思いを抱いていた。
(改良船の図面は仕上がった。次はいよいよ造船じゃ。砂上の楼閣とならぬようにせねば……)
心中でそう呟きつつも、土佐藩が新たな一歩を踏み出そうとしていることに、胸が熱くなるのを感じていた。
昌造が講義を終えて教室を出ると、塾生たちは一斉に立ち上がり、外へと散っていく。
藤兵衛と治郎兵衛も席を立ったその時、背後から声をかけられた。
「もしや、朝倉藤兵衛殿と、淡輪治郎兵衛殿ではございませんろうか」
柔らかくもよく通る声であった。振り返ると、二人の若き藩士が立っていた。
一人は精悍な面持ちに鋭い眼光を宿し、どこか野性的な雰囲気を漂わせている。
もう一人は穏やかな笑みをたたえ、整った顔立ちと落ち着いた立ち居振る舞いが印象的だった。
「わしは乾退助、こちらは後藤良輔と申す」
その名を聞いた瞬間、藤兵衛の胸に電流が走った。
――乾退助、十八歳。
家禄三百石、上士・馬廻格の乾家嫡子。
――後藤良輔、十九歳。
家禄百五十石、同じく馬廻格の後藤家嫡子。
――板垣退助。
――後藤象二郎。
オラゾで楽助や貴彦から聞いた名が、鮮烈に脳裏に浮かび上がる。
土佐藩を背負い、やがて幕末を動かす二人。少林塾でいずれ出会うだろうと心構えてはいたが、ついにその時が来たのだ。
藤兵衛は息を呑み、治郎兵衛と顔を見合わせた。
「こ、これはご丁寧に……」
二人は慌てて頭を下げる。
年下とはいえ、上士の中でも家格高き家の嫡子である。宴席でも同席は許されず、馴れ馴れしく話しかけるなど以ての外――それほどまでに、土佐の身分制度は厳しかった。
しかし退助は、口元をゆるめて首を振った。
「やめじゃ、やめじゃ、そんなかしこまった挨拶はいらんぜよ。ここでは皆、同じ塾生じゃき」
その声は朗らかで、まるで旧知の友に語りかけるようであった。
良輔もまた穏やかな声で言葉を添える。
「わしらも同じく学ぶ身でございますき。……あ、そうそう、私のことは気軽に『やす』とお呼び下されば。幼名が保弥太でありましたきに」
退助はその言葉に声を上げて笑った。
「なんじゃ、ほいたらわしは『いのす』と呼ばれざったら釣り合わんじゃいか。元服してから人前で幼名のあだ名で呼ばれとうないぜよ、やす」
「ははは、冗談やき、いのす」
良輔も笑みを浮かべて応じる。二人は幼い頃から竹馬の友であり、「いのす」「やす」と呼び合う仲だった。
二人の笑い声は、周囲の空気を和ませる力があった。
乾退助――幼名、猪之助。
幼き頃より義侠心が強く、弱きをいじめる者を見れば、身分も年齢も構わず立ち向かった。ある日、町で下士の子が上士の子に殴られているのを見て、猪之助はためらいなく割って入り、逆に自分が殴られながらも「弱い者を苛めるがは許せん!」と叫んで立ち向かったという。
後藤良輔――幼名、保弥太。
十一歳の時に父を亡くし、叔父である吉田東洋に育てられた。東洋は実子のように保弥太を可愛がり、学問と政道を教え込んだ。穏やかで几帳面な性格ながら、その芯には強い責任感を秘めていた。
二人の絆は、兄弟以上の深い信頼で結ばれていた。
「東洋先生から聞いちょります。お二人が蒸汽船改良の図を描かれたと」
良輔が興味深げに語りかける。
「先ほどの本木先生の御講義……薩摩はすでに軍艦を完成させちゅうと聞きました。土佐も急がねば、護国はおろか交易も和破になります」
治郎兵衛はうなずき、真剣な面持ちで答えた。
「そうじゃ。このままでは土佐は遅れを取る。海は土佐の命綱じゃ。備えは急がねばならん」
退助は腕を組み、うんうんとうなずきながら口を開いた。
「船ちゅうもんはにゃあ、ただ海に浮かべばえいゆうもんじゃないき。嵐でひっくり返ったら終いやきのう」
「……まさにその通りじゃ」
藤兵衛がしみじみと頷く。
「外輪船は荒海に弱い。治郎兵衛が提案したがは、船尾に螺旋の羽根を据える形じゃ」
「螺旋の羽根?」
退助は目を丸くした。
「ほうか、そがな船ができたら面白そうじゃのう」
少年のように目を輝かせる退助に、良輔も穏やかに微笑みながら言った。
「新しき技が、この土佐から生まれるゆうがは胸が躍りますな」
夕暮れが近づき、少林塾の庭に赤い光が差し込んできた。
藤兵衛は心の内で深く感じていた。目の前の二人――乾退助と後藤良輔。
(この者たちとならば……土佐を、いや、この国を変えられるかもしれぬ)
確信にも似た予感が胸を打つ。
一方で治郎兵衛もまた、心を揺さぶられていた。
これまで浦戸番所で異国船を目にし、藤兵衛と共に蒸気船の改良に関わる中で、下士としての限界を痛感してきた。
しかし今目の前にいる二人は、上士という高い立場にありながら、威圧もなく自然体で語りかけてくる。
(上士ゆうがは、もっと冷たく見下してくるもんと思うちょったが……この二人はわしらと同じ目線で、土佐のことを真剣に考えゆうようじゃ……このような者が上に立てば、藩も大きく変わるかもしれん)
治郎兵衛の胸には、これまで感じたことのない希望と高揚が芽生えていた。
そして、自分たちが築いてきた努力が、決して無駄ではないと初めて実感できたのだった。
「われらはまだまだ若輩でございますきに、諸々ご教示下さいますよう」
良輔が静かに、しかし芯の通った声で頭を下げる。
その姿には、育て親である東洋の薫陶を受けた者らしい落ち着きと誠意がにじんでいた。
「わしらこそ、共に語らせてもらいたいがじゃ」
藤兵衛と治郎兵衛も深く礼を返した。
その瞬間、四人の間には身分や立場を越えた強い絆が芽生えつつあった。
退助が豪快に笑った。
「まあまあ、まずは腹ごしらえじゃ! 議論はその後でもかまんろう。――やす、居酒屋は近くにないかえ? 鮎の塩焼きと焼卵があったらどこでもえいぞ」
「いのす…、おまんは相変わらず食い気ばあじゃのう」
良輔が呆れたように言うと、退助はさらに笑い声を高めた。
その笑い声は、静かな潮騒に混じりながら広がっていった。
参考文献:『日本近世造船史』『幕末維新史年表』