第十一話 土佐の知恵者
「来ゆうぞ!」
群衆が一斉に声を上げる。
沖合に、白い蒸気を噴き上げながら進む黒き影が現れた。帆も櫓もなく、まるで大魚が海を泳ぐかのように波をかき分けて進む。
蒸汽船が近づくにつれ、外輪の規則的な音が波に混じって響いてくる。カシャーン、カシャーン――と、巨大な歯車が波を叩く音であった。
その船体は、長さ六間(約十メートル強)。藩が江戸で製作を依頼し、幕府の許可を経て建造された雛形蒸気船である。小型ながらも実際に稼働するその姿は、港に集まった藩士や村人たちを圧倒し、土佐に新たな時代の到来を告げるものであった。
藤兵衛はその音を聞きながら、深い既視感を覚えていた。
(この音……この動き……エオルギアの……)
イオネム族の水中船。かつて異界オラゾで楽助たちが帰還した後、再び立ち寄った水中都市エオルギアでその仕組みを見聞きした。それは蒸気ではなく、水流と光を操る動力で進む、遥かに洗練された船であった。
(……それに比べれば、この船は粗削り。だが……これは日ノ本で作られた初めての一歩じゃ)
藤兵衛は自分の胸に言い聞かせるように思った。この場にいるほとんどの者が初めて見る光景だが、自分は既に知っている――その感覚が、奇妙な孤独を伴って胸を締めつけた。
「うおおお……!」
竜馬は目を見開き、声を震わせた。
「江戸で見た黒船……あれと同じやいか!」
藤兵衛は黙してその光景を見つめていた。蒸気が白く立ち昇る様は、まるで生き物の吐息のようだ。
心の中で、異界と現実が交錯する。
一方、治郎兵衛は初めて見る蒸汽船に息を呑んだ。
「……これがあったら……瀬戸内どころか、遠く唐土にも、あっという間に渡れるがやないがか……!」
浦戸番所で唐船漂着に立ち会ってきた彼にとって、それは衝撃そのものだった。
船が桟橋に横付けされると、甲板に立つ男が声を張り上げた。
「長崎の本木昌造にございます!」
彼こそ、この蒸汽船模型を製作した工人であった。
「この船は雛形とはいえ、実際に航行できるものでございまする」
東洋は深く一礼した。
「遠路ご苦労であった。土佐の者どもにその仕組みを見せてやってほしい」
甲板に上がった塾生たちは、身をかがめながら小ぶりな船内を見回した。
「おお、これが火を焚く釜か!」
「鉄の匂いが鼻をつくのう……」
「この小さき車輪が波を掻いて進むがじゃな!」
それぞれが興奮と畏怖を入り混ぜた声をあげる。竜馬は感極まり、拳を握った。
「こんまいゆうても、日ノ本でも黒船が作れるとはのう……!」
藤兵衛は一歩引いて船体を眺めていた。
外輪が波を打つ音、単胴の揺れ――その全てに微かな違和感があった。
「……淡輪殿」
藤兵衛は隣に立つ治郎兵衛に囁く。
「おまんは海を知る男じゃ。この船、何か不具合があると思わんかや」
治郎兵衛は目を細め、しばし考えた後、――外輪を見据えた。
「まず……この波を掻きゆう車輪じゃ」
彼は指を伸ばし、波間に揺れる大きな車輪を示す。
「荒海に出れば波に煽られ、壊れればたちまち進めず……また浅瀬にては底を打ち、身動きならんじゃろう…」
藤兵衛がうなずく。
「ふむ……では、どうしたらえいと?」
治郎兵衛は懐から紙と筆を取り出し、甲板に広げた。
「船の後方に螺旋の羽根を据えて回す……こうすれば、波の影響を受けずに進めるかもしれんのう」
藤兵衛は目を見開いた。それはまさに、エオルギアの船が採用していたスクリュー推進と同じ考えだった。
「さらに……」
治郎兵衛は図を描き足す。
「この一つの胴では揺れに弱い。二つの胴を梁で繋ぎ、広く安定させれば、荒波でも安定して漕ぎ進めるはずじゃ」
「双胴……まさに船の“足”を二つにするがか……!」
藤兵衛は呟き、その未来的な発想に胸が震えた。
傍らで耳を澄ませていた東洋は、衝撃に目を見開いた。
「……待て、治郎兵衛!」
彼は慌てて帳面を取り出し、その図を一気に写し取る。
「この案、容堂公にお目通し願わねばならん。土佐が黒船と肩を並べるためには、これが必ず要となろう」
その時、容堂がゆったりと歩み寄った。裾を風にはためかせ、豪胆な笑みを浮かべている。
「さて、何やら面白き話をしゆうのう」
彼は東洋から帳面を受け取り、広げて見入った。
墨痕鮮やかに描かれた螺旋の羽根と二つの船体――これまでの蒸気船にはない発想に、容堂の目が輝いた。
「外輪を捨て、螺旋の羽根を用いるがか……しかも船を二つ繋ぐとは、まるで海上の怪物じゃのう」
容堂は楽しげに笑い、傍らの家臣たちを見回した。
「見いや、これぞ土佐の知恵者よ。……東洋先生、試みに一艘つくってみとうせ。失敗してもかまんき、土佐にとりては大きな学びとなるじゃろう」
東洋は深く一礼した。
「ははっ、必ずや土佐の力といたしまする」
治郎兵衛は震える手で紙片を押さえ、深く頭を下げた。
「この国を海より護るため……どうかお役立てくださいませ」
波止場に吹く潮風が三人の間を駆け抜けた。
夕暮れ時、蒸汽船は湾内を一周し、再び桟橋に戻ると、波止場には歓声が響き渡った。
人々はその後を追い、波止場には熱気が渦巻いていた。竜馬はその光景に胸を熱くし、藤兵衛の肩を叩いた。
「藤兵衛! これがわしらの行くべき道ぜよ!」
藤兵衛は黙って頷いた。
(異界で得た知識を……この世界で活かす時が来たのかもしれぬ)
白い蒸気が夏空へと立ち昇る。その吐息は、土佐が未来へ踏み出す合図のようであった。
◆
その夜、浦戸の蔵屋敷では、まだ蒸汽船の白煙の匂いがわずかに漂っていた。
広間の中央には大きな卓が据えられ、巻紙や測量具、墨壺が散らばっている。
東洋、藤兵衛、治郎兵衛、本木昌造――
四人は膝を突き合わせ、紙図を前に熱を帯びた議論を交わしていた。ちゃっかり着いてきた竜馬は端に座り、夢見るような眼差しで見つめている。
「外輪は波に抗い、効率が悪い……船体も脆弱で、荒海では転覆の恐れがある」
治郎兵衛が手元の図を指で叩き、冷静に欠点を指摘した。
「ならば――」
藤兵衛は筆をとり、迷いなく紙上に二つの胴体を描き出す。
「双胴にすれば安定し、荷も積める。推進は……この螺旋で水を押すがじゃ」
その筆致は、オラゾで見たイオネムの船を思わせるものだった。
本木昌造は目を見開き、思わず身を乗り出した。
「……確かに理に適っております。これならば波を切り、速力も増すでしょう――しかし、双胴船は安定性に優れるゆえ、波を受けにくいが、船体間の梁の力配分が難しゅうございます。重さの差配を誤れば、船同士がねじれて破断しかねませぬな」
治郎兵衛も図を見て指摘する。
「そうじゃ、この螺旋羽根も外輪より力を無駄にはせんが、水の乱れを避けざったら、その働きは十全に活かせんぞ」
議論を重ねる三人の横で東洋は腕を組み、静かにうなずいた。
「この海を護るには、この船が要となる。他国にない土佐の船を容堂公に献上するのじゃ」
彼は治郎兵衛と昌造が書いた補足の注記を加え、丁寧に清書していく。
竜馬は興奮を抑えきれず、声を上げた。
「これが土佐人の手で作られる日が来るがやのう……!」
東洋はその言葉に深く頷き、筆を置いた。
「――この図こそ、土佐の来たる世を拓く鍵じゃ」
こうして、紙上に描かれた一隻の船が、土佐の未来を動かし始めたのであった。
※当時の日本に入ってきた蒸気船の多くは外輪船でした。外輪船は構造が単純ですが、波浪に弱い・推進効率が悪い・浅瀬で破損しやすい、といった欠点があります。幕末後期には欧米でスクリュー式推進が普及し始めていましたが、まだ試験段階でした。
また、同じく木造船は単胴構造が主流であり、波浪への安定性は低いものでした。西洋では、双胴構造を持つ蒸気推進船の試みは19世紀に入ってから見られるようになりますが、広く実用化されたのは20世紀以降です。
参考資料:『歴史の文字 記載・活字・活版』、『海軍図鑑』