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第十話 緋縮緬の裏に

 安政二年八月三日、城下の西はずれ――

 鏡川北岸の下士屋敷にある朝倉家の土間には、賑やかな声が響いていた。


「にゃあ藤兵衛! あの岸本の一件以来、おまんが話す異界おらぞの話が気になって仕方ないがじゃ!」

 声の主は坂本竜馬である。


 背が高く、ひょろりとした体躯を包む着流しはやや着崩れ、顔には快活な笑みを浮かべている。

藤兵衛は囲炉裏端に腰を下ろし、苦笑した。岸本での唐船騒動以来、朝倉家に入り浸るようになり、藤兵衛は世話の焼ける弟がもう一人増えたような気分であった。


「竜馬よ、声を低うせえ。異界おらぞのことは、おまん以外には他言無用やと言うちゅうろうが。それに、もう何度目の訪ねじゃ……」


「何度でもええがじゃ! おまんの話はわしの胸を熱うする。海の底に広がる都や、光を使う不可思議な絡繰からくり……まるで夢物語ぜよ!」


「夢ではない。わしはこの目で見た」


 藤兵衛の声音は淡々としていたが、その目の奥にはオラゾの記憶が燃えていた。エオルギア――あの水中都市の輝き、そして異世界の仲間たち。それは現世に戻った今も、決して色褪せぬ光景であった。


 竜馬はその真剣さに圧倒され、しばし口を閉ざした。

「……ふうむ。わしも見とうてたまらんぜよ。『寅の大変』の折に荒神様の相撲勧請には行っちょったき、そこで藤兵衛にうちょったら、わしも一緒に勝浦かつら浜から異界おらぞに行けたかもしれんにのう……こじゃんち惜しいことをしたもんよ!」


 その言いぶりに思わず楽助と貴彦の姿が思い浮かぶ。

「また、和破わや用題ようだいを言うのう――」


 そこで藤兵衛はふと思い出し、顔を上げた。

「竜馬よ、明日、浦戸で珍しき船の回航があるがじゃ。東洋先生が塾生を連れて披見なさるゆえ、わしも同行することになったき、支度をせないかん。今日はもう早う帰れ」


「珍しき船?」


「蒸汽船という。火と水で動く異国の船じゃ」

 竜馬の目が見開かれた。


「……まっことかえ! わしは江戸で黒船を遠目に見たことがあるけんど……まさかこの土佐で拝めるとはのう!」

 興奮のあまり立ち上がる竜馬に、藤兵衛は苦笑を浮かべた。


「おんしは呼ばれちゃあせんぞ…」

「呼ばれちゃあせんでもかまん。一人ばあ増えっちょっても分かりゃあせん。お願いじゃ、連れて行っとうせ!」




 翌日、浦戸湾。

 空には夏雲が流れ、海面は青く光っていた。


 数か月前、嘉永七年閏七月、江戸の土佐藩邸にて、長崎の工人本木昌造とその協力者たちが、藩主山内容堂に蒸気船の実働模型を披見した。


 船大工の塩田幸八が小型の雛形を持参し、土佐藩邸内の御馬場で実演。そのわずか三日後、さらに大型で精密な雛形を持参して再度披見を行い、容堂はその火と水の力で波を押し分け進む、黒船に劣らぬ威容に深く感銘を受けた。


 容堂はただちに幕府に願い出て建造を進め、数か月の歳月を経て――安政二年八月四日、ついに浦戸へと回航されることとなったのである。


 その浦戸の波止場には藩士や村人、そして少林塾の門弟たちが続々と集まっている。


 中央に立つのは、吉田東洋。

 藩政から退いた身とはいえ、依然として土佐藩の改革派を牽引する存在であり、その眼光と威厳は失われていなかった。

 彼の背後には塾生たちが緊張した面持ちで並び、幾人かは喉を鳴らして息を呑んでいる。これから目にするものが、土佐の行く先を変えるかもしれぬ――その予感が場を支配していた。


「容堂公はまだお着きではないか」


「はっ、まもなくお成りに」


 若い藩士が答えると同時に、波止場の一角がどよめいた。

 ほどなくして、一行の先頭に現れたのは藩主・山内容堂であった。


 残暑の陽を受けて、緋縮緬ひちりめんの裏地がちらりと覗く薄羽織を軽やかに翻し、堂々とした足取りで進み出た。

 あわせには藍地に秋草文様があしらわれ、涼やかさと華やぎを併せ持つ装いである。

 その手には金糸の羽織紐が揺れ、懐からはかすかに麝香じゃこうの香りが漂った。


 磊落豪宕で伊達者として知られる容堂の恰好としては見慣れたものであったが、東洋の胸が一瞬、熱くなる。


 ――これは、かつて自分が藩政を担っていた頃の装いと同じだ。


 容堂がわざとこの出で立ちを選んだ意味をかみしめる。言葉にせずとも東洋にだけ伝わる――「いずれ再び力を貸せ」という主君からの呼びかけだった。


 この時の容堂は二十一歳、東洋は三十九歳と十八歳の年齢差があったが、派手好きで激しやすいところが似て気が合い、東洋は容堂からも「先生」と呼ばれ慕われていた。 


 容堂は波止場に立つと、東洋のほうを一瞬見てにやりと笑い、朗々と声を響かせた。


「見よ、これが世を動かす新しき船じゃ! 今日こそ、来たる世を垣間見る日ぞ!」


 その声は、集まった群衆の胸を震わせた。浜辺に並ぶ村人たちの間にも「さすが殿さまじゃ……」「なんと堂々たるお姿」とざわめきが走る。 


 後ろからついてきた保守派の重臣たちは、東洋の姿を見るなり眉をひそめた。


「殿、披見は我らで充分ではございませぬか。私塾の者どもなど連れ回せば、余計な騒ぎを……」


 東洋の罷免がわしの本心でないことも分らっておらんとは――容堂は片眉を上げ、鼻で笑った。


「長崎で砲術を学んだ東洋先生ならいざ知らず……おんしらが見たところで何がわかるがじゃ。余計な口を出すな」


 その言葉に重臣たちはぐうの音も出なかった。

 こうして東洋は特別に塾生たちを引き連れ、蒸汽船披見を許されたのである。

参考資料:『本木昌造・平野富二詳伝』『寺田志斎日記』

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