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第九話 潮目

 しんと静まり返った講堂の中に、東洋の問いだけが残響のように響いていた。


「今の土佐の海防、このままでよいと思うか。それぞれの胸にある考えを語れ」


 塾生たちの背筋は自然と伸び、互いに視線を交わす。

 張り詰めた空気が、木の香り漂う新しい塾舎を満たしていた。


 やがて、一人の若者が立ち上がった。上士の家に生まれ、藩校でも名を知られる大石神陰流の使い手だ。


「恐れながら……このままでは到底足りませぬ!」

「異国船は年々増え、沿岸を我が物顔で往来しておる。まずは浦戸に砲台を築き、唐船、西洋船を近づけぬことこそ肝要と存じます!」


 彼の声は熱を帯び、場内に響き渡る。


「そうじゃ、夷狄いてきは撃ち払うべきじゃ!」


「御城下を火の海にするつもりか!」


 すぐさま複数の賛同の声が上がり、場内がどよめいた。

 若者たちの多くは同じ考えだった。黒船の噂は土佐の山間にまで届いている。恐怖心が攘夷の炎を燃え上がらせていたのだ。


「この国は我ら武士の刀で守るべきです!」

「異国など恐るるに足らぬ! 一戦交えればよい!」


 叫びは熱気を帯び、まるで戦場の鬨の声のように天井にこだまする。

 しかし、東洋は微動だにせず、腕を組んでただ静かにそれらを聞いていた。否定も肯定もせず、鋭い眼光だけが一人ひとりを射抜いている。


 やがて声が次第に小さくなり、再び沈黙が訪れた。



 その静けさの中、藤兵衛はそっと立ち上がった。

 胸の鼓動が耳の奥で鳴り響く。視線が一斉に自分に集まるのを感じた。


「……異国を、ただ斬るだけでは国は守れぬ」


 低く、しかし確かな声だった。


 場内にざわめきが走る。誰も予想しなかった言葉だった。


「おんし、なにを言いゆうがじゃ?」

「まさか、異国を受け入れよと申すがか!」


 複数の視線が藤兵衛に突き刺さる。だが、彼は一歩も引かなかった。


「わしは朝倉藤兵衛。――異国に膝を屈せよとは言わん。されど、刀を振るうだけでは勝てぬのもまた事実じゃ」


 藤兵衛の脳裏には、オラゾで見た滅びの光景がよぎった。

 クネードの戦士たち、二アールの民、そして滅びゆく世界。力のみで争い続けた果てに訪れるのは、必ず破滅だ――。


 藤兵衛は、木製の机の上に置かれた筆を手に取り、床に簡単な地図を描き始めた。

 四国を中心に、瀬戸内海と太平洋を一筋の線で結ぶ。


「この土佐は、四国の南に張り出した国。東は紀伊、西は豊後と向かい合い、北には瀬戸内が広がっちゅう。その瀬戸内は京・大坂へ至る商船の道――つまり日ノ本の血脈じゃ」


 彼は太平洋側に丸印をつけ、視線を上げた。


「黒潮に乗り、南蛮や唐船は幾日もかからずこの浦戸に至る。つまり、土佐は日ノ本の“戸口”にあたる」


 塾生たちは息を呑み、描かれた図に見入った。


「この地を軽んじれば、敵に背後を衝かれることになる。逆にここを制すれば、日ノ本を外から護る要ともなりうる」


 藤兵衛は筆を置き、まっすぐに東洋を見据えた。


「国を閉ざせば衰え、無防備に開けば呑み込まれる。ゆえに必要なのは……異国と渡り合うだけの“力”を、国の内に築くことじゃ」


「……“力”とは、軍勢のことかや?」


「否。軍勢も一つには違いないが、それだけではない。智も、財も、人も――すべてを一つに束ねることが肝要じゃ」


 藤兵衛の言葉は、ただの理屈ではなかった。

 オラゾで共に戦った仲間たちへの誓いが、言葉の底に熱を宿らせていた。


 場内は再び沈黙に包まれた。若者たちは互いに視線を交わし、息を呑んでいる。


 やがて、その沈黙を破るように、治郎兵衛が立ち上がった。


「朝倉殿の言は、まっこと、もっともじゃ!」


 治郎兵衛は勢いよく立ち上がった。

 懐から分厚い一冊の書物を取り出す。その表紙には『海国図志』と刻まれていた。


「この書には、異国の船や砲台、港の仕組み、交易の法まで――余すところなく記されておる!」

 彼は高々とそれを掲げ、場内に見せつけた。


「清国ですら、これを学ばぬまま西洋の国々と対したがゆえに、阿片戦争で敗れ、国土を蹂躙されたのじゃ! わしらが同じ轍を踏めば、土佐も日ノ本も、同じく異国の手に落ちる!」


 塾生たちが一斉にざわめく。その中で治郎兵衛は一歩前へ踏み出し、さらに声を張った。


「わしは宇佐の淡輪治郎兵衛、浦戸番所御用手附として日々、港の出入りを見てきた。

 幾度となく唐船の漂着に立ち会い、砂糖も木綿も陶器も、海の向こうから流れ込む品が藩を潤してきた現場をこの目で見てきた!」


 一呼吸おき、場内を見回す。


「だが……ただ海を閉ざし、異国を恐れて背を向けておればどうなる? いずれ我らは外の知恵も技も知らぬまま、武力に押し潰されるだけじゃ!」


 治郎兵衛は一瞬、拳を握りしめ、続けた。


「わしの家は代々『四郎兵衛』の名を継ぎ、宇佐の海を治めてきた家柄じゃ。幼き日より潮の匂いを吸い、波の音とともに育った。海は生き物じゃ。静かに見えても、潮目ひとつで荒れ狂い、人を呑むこともある。今の世もまた同じじゃ――海の向こうでは、すでに激しい潮流が渦を巻いておる!」


 彼は『海国図志』を胸に抱き、声を震わせた。


「閉じれば国は朽ち、開けば呑まれる。ならば我らが舵を握り、この潮目を乗り越える術を学ぶしかない! 交易も、海防も、異国と渡り合うための知恵も――すべてはこの土佐を守るためじゃ!」


 治郎兵衛の言葉は、単なる理屈ではなく、波間に生きてきた者だけが持つ切実さを帯びていた。それは代々「四郎兵衛」の名を背負う家に生まれた者の矜持であり、先の世の土佐を外の世界と繋げようとする強い意志であった。


 塾生たちは皆、その熱気に呑まれ、言葉を失った。

 東洋は黙したまま二人を見据え、やがてゆっくりとまぶたを閉じた。その眼差しには、土佐の未来を担う芽が確かに見えていた。


「……藤兵衛、治郎兵衛――」


 その声が響いた刹那、場内の空気がぴたりと止まり、張り詰めた緊張が走った。



「二人の言は、互いに響き合い、また補い合うておる。土佐が進むべき道は、ただ攘夷でもなく、ただ開国でもない。その中庸を見極め、智と力を以て海を治めることじゃ」

 静かな声だったが、その言葉は深く場内に染み渡った。


「この塾は、そのための知と策を練る場である。今日の問答を忘れるな。答えは一つではない。されど、己が答えを見つけ出すのだ」


 塾生たちが深くうなずいた。熱を帯びた沈黙が場を満たす。


 藤兵衛は無意識に治郎兵衛と視線を交わした。

 言葉はなくとも、互いの胸に同じ火が燃えているのを感じる。




 塾生たちが退席し、講堂が再び静まり返った後――。


 東洋は一人、講堂の中央に立ち尽くしていた。夕暮れの光が障子越しに差し込み、長い影が床を横切る。


 その手には治郎兵衛から託された『海国図志』があった。


「……朝倉藤兵衛、淡輪治郎兵衛か。土佐を変える芽は、確かにここにある」


 その口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


 外では波の音が絶え間なく寄せては返していた。

 それはまるで、土佐の未来を占う鼓動のように響き続けていた。

参考文献:『海国図志 籌海篇』、『四洲志』

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