マットレス
「くしゃみする時目を瞑るのは、目玉が飛び出す可能性があるからだよ」
「へぇ…」
「白熊に右利きはいないんだよ」
「そうなんだ〜……」
ゲストハウスに着くまでの時間。ピップは知っている色んな知識をヘーゼルに教えながら歩いた。ノンストップで色々な情報が出てくるピップの脳みそにヘーゼルは関心するも、この知識を活かす術や場面がさほど無いことに気がつき、ほぼ移動中のラジオと化していた。
ヘーゼルの貼り付けた笑顔は、もうとっくに引き攣っていて、目の焦点は合っていなかった。相槌は「へぇ」「そうなんだ」の2パターンになり、ヘーゼルにとっては「テンポの良いタイミングで反応するゲーム」になっていた。幸いなことに、ピップはそう言った「相手の反応・相槌」に対して無関心だった。
「ウーパールーパーは大人になれないんだよ」
「…へぇ〜……」
少しウーパールーパーが羨ましかったヘーゼル。木々の天井が続く住宅街を進む。時折冷たい風が吹き、カサカサと葉を揺らす。スーツケースの重さにはもう慣れ始めていた。
「バナナはベリーに分類されるんだよ」
「へぇ…、え?へぇ〜そうなんだ」
ピップは相変わらずの無表情で歩いている。本当にゲストハウスに向かっているのか、そもそも住んでいるというのは本当なのか。ヘーゼルの人間不信気味な部分が見え隠れした。
「あとどのくらいで着く?」
ピップは軽い足取りでヘーゼルの前を歩いている。
「なにが?」
「え?」
ヘーゼルの心臓が冷えた。てっきり案内してくれているとばかり思っていたから。実際、ピップはそう言ったのだから。
「アップルハウスに、いつ着くの?」
ヘーゼルは震えそうな声で言葉を必死に紡いだ。また振り出しに戻ったのか。この少女に揶揄われていたのか。ずっとゲストハウスに向かっていると思っていたのに、ただ散歩しただけになってしまう可能性が出てしまったのだ。ピップは首を傾げてヘーゼルを見上げた。ヘーゼルがなにを言っているのか分からないとでも言いたげに。
「向かってるんじゃないの…?」
頭上に「?」を浮かべていそうなピップに、恐る恐る聞いたヘーゼル。
「もういるよ」
ピップは不思議そうな顔をしながらそう告げた。ヘーゼルはしばらく混乱の渦の中に閉じ込められ、やがて、ゆっくりと頭を動かしてピップを目線で追った。相変わらず裸足でパタパタとかけて行く。
「…」
しばらく状況が飲み込めずに固まっていたヘーゼル。ヘーゼルの右側のレンガの塀。ピップはこの中に入って行った。塀にはおそらく手作りであろう小さな看板が1つ。''APPLE HOUSE''
11時17分。ヘーゼルはようやく辿り着いたのだ。
ゲストハウスの中はそこまで古くはなかったが、新しくて素敵とも言い難かった。不衛生では無いが、ボロボロの公園の遊具を必死で磨いたような。
ソファとローテーブルが置いてある小さな共同スペースには誰もおらず、すぐそこには居住スペースとなる2階への階段がある。外が明るいからいいもの、電気は1つも付いておらず、大家は留守だということが一目で分かった。
大家のアガサ・ウィンター。アップルターンに滞在が決まった何日か後に、ヘーゼルは電話でやり取りをしたのだ。電話で話すかぎり、アガサは声のしゃがれたお婆さんで、少し淡々としているせっかちで冷たい印象だった。初日の手続きをする相手は間違いなく大家のアガサ・ウィンターのはず。けれど、受付の簡単なカウンターには誰もいなかった。身を乗り出してカウンター袖を覗くと、今日の日付とメモが一言、「9時半ごろに客の手続き」。ガタガタの字で書いてあった。今の時代にインクでわざわざ書いたのか。擦ってしまったのか、後半は掠れていた。ヘーゼルは時間を確認しようとバッグを弄り、スマホを取り出した。真っ暗な画面。ヘーゼルの顔しか見えない。スマホのバッテリーがゼロということを思い出し、辺りをキョロキョロとして時計を探す。やがて視界の中に古びた壁掛け時計が1つ。11時33分。約2時間の遅刻だった。
「…まじか」
ヘーゼルは来客用であるソファに座り込んだ。電話で聞いた限り、かなりせっかちな様子だったアガサ。「日にちはいつにするんだい」「何時に来るんだい」「聞こえないよ、もっと声張らんか若者が」「もっとゆっくり喋ってくれ、老人を労わらんかまったく」。なんとも、夜ベッドで急に思い出して眠れなくなりそうな地獄の会話たち。遅刻なんてしたら何か言われるに決まってる。電話越しなら声のみの演技で済むが、対面となると話は別。今のヘーゼルに、そんな謝罪する気力も体力も脳もありはしなかった。色々な言い訳が溢れてくる。高校で校長室前のトロフィーを壊してしまった時と同じ種類の焦りだった。スマホのバッテリーが無くなって、ナビが死んで道が分からなかった事。しばらく迷子で彷徨っていた事。夜行バスの疲労と相まって眠り落ちてしまった事。ほとんどの遅刻した理由らしい理由が、元を辿れば全て自分の責任になる為、ヘーゼルは却下した。素直に電話をして謝るしか無い。電話番号は覚えていないが、前回の電話の履歴を漁って電話をかければいい。最悪またアップルターンのサイトへ行って検索をかければ。ヘーゼルはそう思ってスマホを取り出し、真っ暗な画面を見てからバッテリーが無いことを再び思い出し、鼻で笑った。やってらんない。ソファにより深く腰掛け、ソファとソウルメイトになった。
「アガサいないね」
「うわっ!?」
背後からピップの声。ピップの無音で動ける能力に、ヘーゼルはまだ慣れずにいた。
「ウィンターさんの電話番号知らない?」
「しらない」
だよね〜と、ヘーゼルはソファにまたも脱力した。まっすぐ前を見ると2階へ続く階段。注意書きに「住居者以外立ち入り禁止」。つまりヘーゼルは住居する立場でありながら、今はこの先に行けない。今頃はもう部屋でくつろいでいたはずなのに。
アガサ・ウィンターが帰ってくるまで待っているしかないこの現状にヘーゼルの精神はますます疲れ果てた。ピップは自由にあちこちのドアや棚を開けて行ったり来たりしており、時折、「ここキッチン」「こっちトイレ」「これはクッキー」と客1人のアップルハウスツアーを始めていた。ヘーゼルは反応する気も起きなくて、ソファに埋もれて溺れたまま、眠気に襲われ、脳が死んでいった。ナルコレプシーの気まぐれな睡魔を、ヘーゼルはまだ飼い慣らせずにいた。
「クソッッッッ!!!!」
睡魔に挨拶して手を繋いでから15分もしないうちに目が覚めたヘーゼル。原因は紛れもなく、2階から聞こえた男の声と鈍い物音だった。その後も立て続けに物音が聞こえる。何かを倒した様な音や、人が転がった音。壁にぶつかったのか、こちらにも振動を感じ、家具が揺れた。キッチンの方にある食器棚の中で、整列した食器たちが肩を寄せ合って震えていた。
「アーーーー!!!!!」
声が近くなる。ヘーゼルはソファでじっとしていた。動きで感知し襲ってくるゾンビがいるかの様に。
やがて2階で暴れていた声の主が階段の近くまで来た。声が壁越しではなくすぐそこで聞こえる。そして、やがて、姿を現した。
まず、ヘーゼルが見えたのは大きな四角いマットレス。所々破けており、男と格闘したからなのか、元々ボロいものだったのかは分からなかった。跳ねる様に降りてきたマットレスの次に見えたのは、長身の男だった。声の主。赤くツンツンした髪に、赤いジャケットに赤いスキニーパンツ。全体的に赤い男はマットレスと同じ様に、階段を跳ねる様に降りてきた。実際は「落ちてきた」と表現する方が正しい。
階段を落ち終え、パタンと地に着くマットレス。男も同様に階段から落ち終えて、幸いにもマットレスの上に着地した。階段で長い手足が複雑に動き回ったのか、身体中に絡まっており、細長く不機嫌な目はチカチカと瞬きを繰り返した。男は次第に焦点を取り戻し、ソファで硬直したままのヘーゼルを捉えた。
「…なぁに見てんだよ」
なぁにしてんだよ。ヘーゼルは思ったが、口にはしなかった。
「…こんちは」
ヘーゼルは口を開いた。
「こんちは。じゃねぇよ」
男はヘーゼルの口調を真似て、裏声で少しバカにして言った。アップルターンに行くまでの道中、ヘーゼルは「苦手なタイプの人間ばかりに会うな」と、呑気に記憶を辿った。
「…ダー、クソッ!」
男は必死に体を動かし、手足の絡まりを解いた。大きく伸びをして、骨が折れたかと思うほどボキボキ音を鳴らす。男は気だるげな目つきでヘーゼルを見た。細長い胴体でだらしなく立ち、腰を曲げてガニ股でマットレスを跨いだ。くたびれて横になったマットレスの風貌に苛立ったのか、男はマットレスに蹴りを入れた。マットレスが横に少しスライドする。蹴った足が痛かったのか、蹴りを入れた方の足を上げて痛みを和らげる様に手で摩った。片足で立っていたせいか次第にバランスを崩し、彼はまたもマットレスに崩れ落ちた。弾力性のあるマットレスは男を軽くバウンドさせた。
「お前誰だ!?」
ヘーゼルを睨みながら声を荒げる男。マットレスに転んで見上げている情けない状況でも、ヘーゼルはこの男に怯えていた。
「ヘーゼル・グリーンです。今日ここに手続きをしに来ました。」
恐怖心からか、面接の様な話し方になったヘーゼル。男はまたつまづかない様にと、慎重にマットレスから這い上がった。
「手続き!?」
男は聞き返したのか、復唱しただけなのか、またも声を荒げた。
「友達になったの?」
「ウワッッッ!?」
いつの間にか男の後ろに立っていたピップ。ピップの声に驚き、またも、男は転げ落ちた。今度はマットレスが無い硬い床に。
ヘーゼルは、ピップの瞬間移動には誰も慣れることはできないのだと、この時理解した。
「ヘーゼル、彼はルディ」
ピップは転んだルディをよそに、ヘーゼルに紹介した。床からルディの呻き声が聞こえる。
「話進めてんじゃねぇよ…」
ルディは疲弊した様子で床に座った。立つことを諦めた様だ。
「よろしくお願いします。えっと…ルディ…?」
「ハプニングだ、ルディでいい」
ルディ・ハプニングはそう言ってため息をついた。
「このマットレスはなに?」
ピップはマットレスの上に乗りながら聞いた。
「乗るな!汚ねぇぞ!」
ピップは構わずマットレスの上で飛び跳ねた。相変わらず真顔だった。マットレスから埃が舞い、ピップ以外の2人、ルディとヘーゼルは咳き込んだ。
「ごめん。降りる」
マットレスを降りたピップ。
「なんでマットレス?」
ピップはマットレスを立て掛けようと奮闘しているルディに聞いた。
「あ?今日、入居者が、来るから、部屋を掃除しろって、アガサに、クソッ、重ェな!!!」
マットレスを持ち上げるのを誰も手伝わないこの空間で、ルディは1人もがいた。
「そしたら、マットレスが腐ってんだ!今から買いに行くぞ、ヘーゼル、お前の部屋なんだからお前もついてこい」
やっとのことでマットレスを持ち上げたルディ。
「おい寝るな!!!!!」
「あっ、?」
睡魔と仲良しなヘーゼルはまたも眠っていたようで、焦点の合わない顔を必死に覚ませようとした。
「行くぞ、立て」
ルディはマットレスを外の荷台まで運ぼうと抱えた。
「私も行く」
「じゃあ靴を履け」
ルディはそこら辺に脱ぎ捨ててあった子供用の靴を指さして言った。
「履かなくても平気」
「俺が平気じゃねぇんだよ、履かせねぇとメリーに俺が怒られんだ」
ピップは渋々靴を履きに行き、ルディはマットレスを押し歩いた。
「…メリーって?」
「あ?あいつの母親だ」
ヘーゼルはピップを見た。靴紐に苦戦している様で、ルディがまたため息をつきながら結びに行った。
「あの…どこ行くんでしたっけ」
ヘーゼルは恐る恐る聞く。眠りこけていたので、いまいち現状を把握できていない。
「あ?ベンのとこだ。新しいマットレスがいる。」
「ベンはマットレス屋さんなの」
靴紐と喧嘩しながらルディは言い、ピップは情報を捕捉した。マットレス屋。いまいちピンと来ていないヘーゼルだが、今は頷くしかなかった。
上手く蝶々結びができないのか、ルディは唸りと叫びの中間の声を出しながら不器用に手元を動かした。