ビデオカメラ
あれから数時間後。しっかり睡魔に襲われたヘーゼルは、カーテンの隙間から溢れる不快な朝日で目を覚ました。
朝の8時。もうすぐ到着時刻だ。少し前まで誰もいないと思っていた後ろの座席に目をやった。男はいなかった。寝ている間に降りてしまったのか。しかし、最後のあのサービスステーションからアップルターンまで、バス停や駅は1つもないはず。ヘーゼルは頭の情報整理に取り掛かろうと思考を巡らせたが、やがてどうでもよくなって街でのこれからを考えるようになった。
街に着いたら、まずは滞在先のゲストハウスに手続きをしに行かなくちゃいけない。「アップルハウス」と言うゲストハウスだ。あまりにも安直で逆に可愛く思えた。
アップルターンの街には大きな湖がある。湖はりんごのような形をしていて、アップルターンの由来だ。それは1番キャッチーで、あの街のシンボルだった。「アップルターン」と検索すれば、予測変換で「湖」と出てくる。同時に「りんごに見えない」とも。
アップルターンは大昔、と言っても80年代頃だが、街のテーマパーク化を計画していた。りんごを全面的にアピールした装飾やイベント。食べ物やキーホルダー。ありとあらゆるものが、りんご。りんごりんごりんご。うざいくらい。
しかし観光客は集まらなかった。大して話題にもならなかった哀れなりんごパークは、経済面が厳しいというあまりに夢のない現実に押しつぶされて自然消滅していった。当時のものを廃棄する財力も気力もなかったのか、今現在も、りんごの面影は濃く残っている。若者も少なくなり、人口は減った。りんごの飾りは年々劣化していった。色落ちして欠けてボロボロになったりんご達。りんごのテーマパークはホーンテッドタウンと化した。
ヘーゼルは街に着くまで大人しく座っていた。ペットボトルの水を飲もうとしたらバスの揺れでこぼしたり。右耳のブルートゥースのイヤホンがずっとスマホと接続できなかったり。バッグを漁ったらいつのだか分からないクシャクシャなレシートが出てきたり。伸びをしたら首を寝違えてることに気がついたり。スマホのバッテリーが少ないのでモバイルバッテリーを取り出したが、モバイルバッテリーの充電を忘れていたり。極めて平和な時間を過ごした。
しばらく経って8時40分。到着予定時刻は9時頃。残り充電11パーセントのスマホが鳴った。
バジル :もう着いた?
バジル・グリーン。ヘーゼル・グリーンの父親からだった。
ヘーゼル:まだ
バジル :まだか。バスはどう?
ヘーゼル:座席固くて首痛くて最高
バジル :わぁ:)
ヘーゼルは首を回した。下を向いてメールを送ったせいで酔いそうになったからだ。
バジル :ビデオカメラは持った?
ヘーゼルはバックの中に目をやった。ビデオカメラ。古くてゴツくて画質が荒い。父、バジルから貰ったものだ。アップルターンにいる間の様子を撮って記録して欲しいと。セラピストもそれにかなり賛成だった。
ヘーゼル:持った。おかげで重い
バジル :ハハ、レトロだからね
<バジルさんが画像を送信しました>
なんとも言えないシルクハットを被った魚が”good!”している画像が送られてきた。
ヘーゼル:オンボロでしょ
バジル :レトロだよ
:レ・ト・ロ
:レートーロ
ヘーゼル:ボロ
<バジルさんが画像を送信しました>
さっきの魚がシルクハットを外して”oh no…”している画像が送られてきた。
バジル:バスに人いる?
ヘーゼルはあの男のことを思い出した。
ヘーゼル:昨日の夜いたよ。変な人だった
バジル :ほー
<バジルさんが画像を送信しました>
バジル :どんな人だった?
目が星になって興味津々な様子の魚の画像を見ながら、ヘーゼルは男の風貌を思い出した。
ヘーゼル:サタニストみたいなコート着てて、ガムあげた
バジル :ガム?あのガム?
ヘーゼル:うん
バジル :ガム以外になかったの?
ヘーゼル:うん
バジル :キャンディとかチョコは?
ヘーゼル:ない
バジル :普通夜行バスはお菓子持ってくでしょ
ヘーゼルはあの男と自分の父親の脳みそが似ている可能性に気がついて、目がピクついた。
ヘーゼル:買う時間なかった
バジル :でもあのガムはどうなのさ
ヘーゼル:いいじゃん
:安いし
バジル :安いのには理由があるからね
バジルは遠回しに「まずい」と言った。
ヘーゼル:もうそろ着きそう
バジル :お、じゃあビデオよろしく
ヘーゼル:はい
バジル :向こうでガム以外のお菓子買っときなさい
ヘーゼル:あー、山だから電波が
バジル :それ通話の時にやるやつだよ
ヘーゼル:さよなら
バジル :逃げた!
<バジルさんが画像を送りました>
魚がシャーロック・ホームズのような格好をしてこちらに指をさしている画像を閉じた。充電が6パーセントになった。
ヘーゼルは窓を見た。
窓の外。木だ。ほとんど木。木しかない。ビデオカメラを起動して、試しに撮ってみた。
ずっと使っていなかったせいか、今が何年何月何日何時何分かを入力させられた。適当に入力し、画面がつく。窓の外を撮ろうと構えたが、真っ暗な画面だった。一瞬ビデオカメラが壊れたのかとヘーゼルは思ったが、レンズのカバーをしたままなだけだった。カバーを外し、木しか見せてくれない窓にもう一度カメラを構える。荒い画質。現代でこれは「エモくておしゃれ」に入る。画質のせいなのか、元々そういうものなのか、光を多く取り込んでいて全体的に白飛んでいた。
次はバス内を撮った。くすんだ水色のシートに、黄色の手すり。茶色の分厚いカーテン。開きっぱなしのバッグで散らかった座席。座席裏に書かれた誰かのイニシャルのサイン。誰かが噛んでくっつけたガム。
他に撮るものはないかと、通路を見渡した。反対側の座席の下。茶色い毛深い塊。ネズミ。
もちろん撮影した。どこから乗っていたのかは分からないが、アップルターンに一緒に行く友達ができた。ネズミは小さく早い呼吸を繰り返し、テチテチと座席下に潜ってしまった。親友にはなれなそうだった。
窓の外に建物が多くなった。少なくとも、木、家、木、木、木、家、木、木、程度だが。
そのうち駅のような広場のようなスペースに入って行った。ようやく着いたのだ。ヘーゼルはバスが停止するより先に散らかったバッグを片付けようとしたが、バスの方が早かった。
「アップルターンにつきました」
運転手の声がスピーカー越しに響く。バスの扉が開く音が聞こえる。ようやくこの冷たくてやけに風量の強い空調とおさらばだ。
座席下に入って見えなくなった友達に心の中で別れを告げ、バッグとスーツケースを持って通路を歩く。足取りが重い。運転席まで歩いて、運転手がこちらを見ていることに気がついた。運転手は言った。
「お疲れですね」
当たり前だろ。ヘーゼルはその言葉を我慢した。小さな感情が喉を下った。
「運転ありがとうございました」
ヘーゼルはしっかり笑えたかも分からないが、笑ったつもりで言った。
「金払ってもらってるんでね」
運転手はそう言って欠伸した。ヘーゼルの喉を下ったはずの感情が再び上へと上がって来た。
スーツケースを引っ張りながらバスの出口である階段を降りる。1段下がったとき、思い出したようにヘーゼルは振り向き、運転手に聞いた。実際、思い出したから。
「あの、」
「あ?」
タバコの箱を開けて、火をつける寸前でこちらを向いた運転手。
「昨日、最後まで残ってた男の人はどこで降りたんですか」
他の乗客の個人情報を聞き出しているみたいで、ヘーゼルは聞いた後に少し後悔した。
男はタバコの先とライターに距離を保ったまま瞬きをした。言葉を付け加えようと息を吸ったヘーゼルだが、男は火を消してライターを置いた。そして、その手でワイヤレスイヤフォンを耳から取った。
「なに?」
「…」
男のイヤフォンから小さく何かの音楽が聞こえる。
「はは、」
ヘーゼルはそう笑って階段を下りた。今度は確実に笑った実感がなかった。