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夜行バス

「ようこそアップルターンへ!」


そう書かれたパンフレットを指で撫でたのはもう7回目。あれからボケっとして20分ほど経ったのだろうか。慢性的な睡魔には逆らえ切れず、夜行バスに揺られながら現実の舵を奪われた。乗客のほとんどがそこかしこで降りていき、いよいよヘーゼル・グリーンと運転手の2人きり。当たり前に会話は無い。ヘーゼル・グリーンにとって、まさに理想な人間関係だった。互いの存在はそれぞれ認識していて、必要以上に干渉しない。喋ろうとすればできるけど、大して広がらない話題をいちいち引っ張る必要も無い。しかし、いざ緊急事態となれば真っ先にお互いを認識し、頼る。こんな素敵な関係ある?

窓からの景色はコマ撮り映像のようで、単調な住宅街から廃れたなにかの工場、怪しい商品の看板、そして木、木、木へと移り変わり、段々と薄暗いフィルターがかかっていった。そのうちその暗さに耐えられなくなり、自分の照らされ反転した顔しか見えなくなって、ヘーゼルはカーテンを閉めた。

座席は窮屈で、安心感を与えるほどの空間だった。シートの汚れや誰かのラクガキさえ愛おしく思えた。今なら誰もいないからと、隣の座席に広がって寝てみても良いかもしれない。ヘーゼルはそう思った。そうして着く頃には体を痛めて動けなくなって、死体だと勘違いされて湖に沈められて、その地域の都市伝説になって、年に1度や2度、子供達を脅かす存在にでもなって、新聞の隅っこに「目撃!人か未確認生物か、はたまた亡霊か!」と特集を組まれて、大して話題性のないモンスターにでもなってしまえばいい。ビザも健康保険もレシートもほっぽり出して、洞窟で暮らせばいい。

運転手が喉を痛めたのか、軽く咳払いをした。それでもバスの中は静かだった。


ヘーゼル・グリーンが大学を休学してから4週間目のセラピー。馴染みのセラピストに勧められたリトリート療法を受け入れるのには時間がかかった。新しい環境でぶっ壊れた人間に対し、そのまた新しい環境を進めるセラピストに一種の戸惑いと苛立ちを感じたからだ。しかし、クソみたいな思い出しかないこの街で治るか分からない症状を抱えてダラダラ過ごすよりも、クソみたいな思い出を新たに作りに知らない街へ行く方がマシだと、ヘーゼルは思ってみることにした。

滞在予定のアップルターンは聞いたこともない街で、調べてみてもピンと来なかった。幼い頃何度か話したことがあると両親は言ったが、記憶のどこを散策してもそんなラベルの付いた物は見つからなかった。あったのは封印されて黒塗りし抑圧したはずの記憶だけ。

3歳の頃猫だと思いこっそり家に入れた動物が実はアライグマで、屋根裏で繁殖してからバレた事とか。高校のダンスパーティーで見栄を張って、酒を飲んで、酔って、大暴れした後、フロアの真ん中、大勢の前で吐いた事とか。気になってた男の子が熱心なクリスチャンだと知らず、神に10分間毒づいた事とか。マーケットの店員が嫌いだった同級生で、外国人観光客のフリして会計しようとしたらバレた事とか。全てのドロっとした過去が、鮮明な記憶として0.1秒の速さでフラッシュバックした。胃のあたりがゾモゾモと蠢き、言葉にならない感情が喉を逆流し、胃が縮み上がりそうになる。意味も無くベッドに潜って溺死するような。気分はサイコー。


午後11時。

ヘーゼルと運転手を乗せた夜行バスは、静かに自分の仕事を真っ当していた。街灯も看板も車もどんどん減っていき、高速に点々とあるサービスステーションはもう5つも通り過ぎた。

6つ目のサービスステーション。随分と山奥に来たせいか、最低限の施設しかない。ヘーゼルはバスを降り、なんとなく自販機の前に立った。特に用はなかった。バカみたいな色を放つ飲料水のラベルを流し見した。夜風が心地よく吹いていればよかったんだけど、空気は止まっていた。

トイレは狭くてどこか不気味で、胃の辺りがゾクゾクした。恐怖心からではなく、軽い好奇心で。

結局何もしないままバスに戻ったヘーゼル。運転手はまだ戻っていないとすぐ分かった。彼が喫煙所にいるのがバスの中から見えたから。

自分の席、と言っても他はガラ空きだが、席に戻って体を椅子に雑に預ける。そろそろ関節が使い物にならなくなりそうだ。ヘーゼルはスマホを取り出してスクロールする。なんとなくインスタを開いて、友達のストーリーを流し見る。青白い光に包まれた13秒後、通路を挟んで右の座席に人の気配を感じた。

「………」

振り返ろうか迷った。ただあまりにも非現実的だった。

バスには私以外いないはず。ヘーゼルはそう思い直し、サッと軽く目線を横にやった。

「………」

ヘーゼルは勘がいい方ではなかった。ただ悪くもなく、ごく普通の、平均的な勘の持ち主だ。大抵の人が気づくことには気づくし、大抵の人が見逃すことは見逃す。しかし、時折それは外れる。大抵の人と同じ確率で。今がまさにそうだ。

「………」

「………」

隣にいたのは黒いコートを着た男の人。年齢は分からないが、年上なのは確かだ。無造作にまとめた黒髪があちこちに跳ねている。

人が乗っていた。その事実でヘーゼルの脳内は軽くパニックだった。確実に乗客はヘーゼルのみだったはず。それともヘーゼルの勘違いだったのか。この社会から溢れていそうな男がバスに乗っていたことに全く気がつかなかった。それだけならまだいい。最悪なのは、バッチリ目が合ったことだ。

「…ども」

「やぁ」

目が合ってしまった以上、無視はできなかった。

目元以外はよく見えないが、この世のものとは思えない表情だ。目はどこまでも暗く、吸い込まれそう。こんな在り来たりな表現しか、今のヘーゼルはできなかった。

彼はコートの襟に深く潜り、こう言った。

「キャンディ持ってない?」

ヘーゼルは一瞬寝ているような錯覚に陥った。自分の耳を疑ったのだ。

「チョコでもいい、なんか、甘いもん」

畳み掛けるように男は言った。男の声は少し掠れていた。

「…あー…、ガムなら」

絞り出すような声でヘーゼルは伝えた。気分転換や眠気覚まし用のガム。安いガムで、美味しくないから残っていた。

男は一瞬「ガムかぁ」とでも言うような態度を見せたが、すぐ持ち直した。

「じゃあそれ、ちょうだい」

ヘーゼルは言われるがままにバッグからガムを取り出した。2つだけ食べて、あとは手付かずの残り8個のガム。1つ取り出して、男に差し出した。

「なんでガム?普通夜行バスは他にお菓子とか持ってんじゃないの?なんでガムなの?」

男はガムをコートの内ポケットにしまいながら言った。すぐに食べる訳じゃないらしい。内ポケットの小さい入口に手こずったのか、やがて普通の横ポケットに入れた。

「さぁ、なんでって言われても…」

初対面の相手にされる対応とは遥かに異なる態度をとる男。ヘーゼルはこういった種の人間が苦手だが、今はそんな嫌悪感をぶっ飛ばすほどの混乱でいっぱいだった。

「アップルターン行き?」

男はヘーゼルの横の座席に置いてあるパンフレットを見て言った。

「そうです」

「へー、で、なんで?」

男は第一印象という言葉を知らなそうだ。

「いろいろあって、田舎に行くことになって…」

「ん?違うよ、なんでガムなの?」

ヘーゼルの脳には一瞬ナイフの絵文字が浮かんだ。

「安かったんです、眠い時用」

ヘーゼルは最低限のことを答えるようになった。

眠気覚ましのガムと言ったが、ガム如きで起きていられたらこの世はもっと進んでいるだろう。つまり、ヘーゼルにとってこのガムは「ただのガム」だ。

「田舎だって?」

彼の中で時差があるのか、話が飛躍した。

「田舎?アップルターンが?」

男はあの街に行ったことがあるのか、繰り返し聞いた。

「あんなの、田舎なんてもんじゃないだろ」

そう言って座席に座り直す男。

アップルターンについてそこそこ調べたヘーゼルは心の中で首を傾げた。あの街は写真や記事で見ても、どっからどう見ても、正真正銘田舎だ。完璧なほど中途半端な田舎。

「行ったことあるんですか」

男は頷き、欠伸をした。自分は質問してくるくせに、こちらの問いは雑に流される。

「あなた誰」

ヘーゼルは正直面倒になって聞いた。

「乗客だよ」

男はそう名乗った。名乗りに入るのかは疑問だった。

「どこから来たんですか」

「バス停からだよ」

「どこで降りるんですか」

「バス停までだよ」

「なにしにいくんですか」

「バスを降りるんだよ」

男は黒い目でじっとヘーゼルを見た。特に意味はなく、話し始めた時から何も変わっていない目だ。

やがて運転手が喫煙所から帰ってきた。男は「じゃ」と後ろの方の席に帰って行った。静かだった。ヘーゼルは再びスマホを開き、椅子に座り直した。開いたままのインスタのTLが流れていった。バスは動き出した。

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